ロマンシングライフ

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16. 金魚の祠  夢の中なら、オレはどんな自分にもなれた。当たり前だ、だって夢なんだから。現実のオレでいなきゃいけない理由なんてひとつもない。  どんな自分がいいだろう。やっぱり夢の中でくらいは、健康で丈夫な身体だといいな。高校せっかく受かったのにほとんど行ってないから、いつも高校の制服を着ていよう。中学は学ランだったからブレザーの制服にずっと憧れてたんだ。夏はネクタイ緩く締めたりして、着崩したらなんかいかにも高校生してるって感じでいいかも。髪はこのままでいいか。ホントは地毛だけど染めてるんだって嘘ついたらオシャレな子だと思われるかもしれないし。  それで、それから、喋り方も少し変えよう。ちょっとチャラい感じで話せば、ホントのオレがこんなに根暗で人見知りなキモい奴だなんてきっと誰も気付かない。ネガティブなこと言うのもやめよう、どんなにしんどい時でもいつも楽しいことだけ話してよう。  甘いものが好きってのも隠した方がいいな。女みたいだってバカにされるかもしれないから、辛いものが好きってことにしておこう。  夢の中のオレは、学校が終わるといつも友達と遊びに行くんだ。ゲーセン行ったことないけどゲームが得意ってことにして、流行りの歌なんて全然知らないけど歌が上手いってことにして、何をやってもオレはみんなからすげーって言われるんだ。でも何でもかんでもできる奴じゃなんかつまんないから、勉強は苦手なままでいいか。運動は得意じゃないとかっこ悪いかな。ホントは足遅いし体力ないけど、やっぱどんくさい男ってダサいし。  こんなの、オレじゃないよね。  そんなこと分かってた。だけど、仕方ないんだよ。  ありのままのオレなんて、何の魅力もない。人に見せられるとこなんていっこもない。バカだし何の特技も才能もない、性格も暗い、身体も弱い。こんなオレのことなんて誰も気にかけてくれない。  誰かの特別になりたいなら、ありのままのオレじゃダメなんだ。 『何回も言わせるな! 生きてるだけで、お前は特別なんだよ! 他の誰にも代わりなんかできないんだよ! ここまで言ってるのに、まだ分からないのか!?』  ――ああ、そうだ。  ごめんね、おにーさん。  こんなどうしようもないオレのこと、好きになってくれた。バカでどんくさくて何もできなくても、オレは生きてるだけで特別だって生まれて初めて教えてくれた。他の誰にも代わりはできないって言ってくれた。  人生つまんね、早く終わんねーかなって思ってたこと、初めて心の底から恥ずかしいと思ったんだよ。  オレが想像した理想のオレじゃなくて、身体弱くてバカで何の特技も才能もなくて根暗ですぐ泣くオレのことを知っても、離れないでいてくれた。ぎゅーってしてくれた。初めてキスしてくれた。オレのためにいつか最高の絵を描くって言ってくれた。  だからオレは、生まれて初めて、死にたくないって思った。もっと生きて、おにーさんとやりたいことがいっぱいあるから。 「……やと……絢斗……!」  ……誰だろう。  すごく、聴きたかった声。 「絢斗! 大丈夫か、しっかりしろ!」  雨音が遠くから聞こえてくる。瞼を上げても周りは薄暗くて、ここがどこなのかも分かんない。さっきまで全身を叩きつけてた雨の感覚はなくなってて、濡れて肌に張りついてる浴衣のせいかなんだか息苦しい。  最初に目に映ったのは、おにーさんの顔だった。髪も顔もびしょ濡れで、今にも泣き出しそうな顔してオレのこと見下ろしてる。自分が仰向けに寝てることにやっと気が付いて、右足をぴくりと動かしてみると鈍い痛みが足首に走った。 「いたっ……」 「ど、どこかケガしたのか?」 「あ、あし……」 「右足?」 「う、うん」  おにーさんはオレの右足首を見ると、そっと指で優しく撫でた。 「このへんか?」 「多分……」  ポケットからスマホを取り出すと、ライトをつけてオレの足首に光を当ててる。 「少し紫色になってる。捻挫かな……」 「おにーさん、ここどこ?」 「絢斗、崖から落ちたんだよ。ほとんど木の上を滑り落ちてく感じだったから、枝とかで切ったりしてると思うんだけど……他に痛むところないか? あと、頭とか腰とか打ってないか?」  寝たまま手足を動かしてみたけど、右足以外は特にどこも痛くない。おそるおそる身体を起こして座ってみても、頭がすごく痛むとか腰が曲がらないとかってこともなく、いつもどおりだ。 「他は平気みたい」 「そっか……よかった」  おにーさんは深いため息をついた。 「でもおにーさん、どうやってここまで……」  ふと視線をおにーさんに向けると、さっきまで暗くて見えてなかったおにーさんの左腕がライトの光に照らされて血で真っ赤に染まってることに初めて気付いた。それを見た瞬間、顔からさっと血の気が引くのが分かる。 「おっ、おにーさん! 何それ、血出てんじゃん!」 「え? あ、いや。かすり傷だって」 「全然かすり傷じゃないよ! おにーさん、崖の上から滑ってきたの!?」  おにーさんの手をぐいっと引っ張って、腕のケガを確認する。二の腕の真ん中あたりに大きな擦り傷ができてて、そこからまだ血が滲んでるみたいだ。 「いてっ」 「ほら、痛いんでしょ!? な、何か、包帯の代わりになるもの……」  手首に紐が巻きついてた巾着袋の中を漁っても、ハンドタオルとスマホと財布しか入ってない。雨で湿ってるタオルを傷口にそっと当てると、おにーさんは一瞬だけど苦しそうに目をぎゅっと瞑った。 「っつ……」 「なんで、こんな……おにーさんがケガしてたら、意味ないじゃん。救助の人とか呼んでもらえば、こんなこと……」 「ごめん。そんなに高い崖じゃないし、いけるかなって思ったんだけど」 「いけるかなじゃないよ、おにーさんのバカ! 何かあったらどうするつもりだったの!?」 「絢斗が危ないって思ったら、誰かに助けてもらうことなんて考える余裕もなかったんだよ。でも、そうだな……絢斗が正しいな。ごめん」 「ばか、ばか! ホントにおにーさん、とんでもないバカだよ! おにーさんの手は、絵を描くためにあるんだよ。ケガなんかしたらダメなんだから、絶対に」 「血はもうとっくに止まってるから大丈夫だよ。そんなに深い傷でもないし、それにほら、利き腕じゃなかったから」 「そんなこと言ってんじゃないよ。どうしておにーさん、もっと自分のこと大事にしないの」  勝手に涙が溢れてきて止まらない。拭くものが何もないから、おにーさんの胸にぎゅっとしがみついて顔を押しつけた。  キラキラして、眩しくて、優しくて、夢みたいな綺麗な絵を描いてきた手。オレのつまんない世界を一瞬で変えてくれた魔法の指。世界でいちばん大切なおにーさんのこの手は、これからもその綺麗な世界を描き続けるためにあるんだ。傷ひとつつけるわけになんかいかないのに。オレなんかのためにおにーさんがケガしたら、オレは一生自分を許せない。  おにーさんの手が、オレの頭を撫でる感触がした。 「ごめんな、絢斗。反省してる」 「……」 「絢斗が無事でよかった。って言いたいけど……捻挫してちゃ、無事って言えないか」  顔をおにーさんの胸に押しつけたまま、頭を横に振った。 「ありがとう……おにーさん」 「……うん」  遠くから聞こえてくる雨音の中、微かに波の音がする。だけど今は雨よりも波よりも、おにーさんの心臓の音の方が大きく聞こえる。オレはその音をもっと聴きたくて、しばらくの間そのままじっとしてた。 「そう言えばここ、どこ?」  波の音でようやく思い出す。 「ああ。絢斗が落ちたとこのすぐ近くの岩壁に空洞が空いてたから、その中に運んだんだよ。ここなら雨避けられるかなって思って」  おにーさんから離れて雨音が聞こえてくる方を見ると、ぽっかりとほら穴が空いててその向こうに砂浜が見える。雨はさっきみたいな土砂降りではなくなってるけどまだ小降りとも言えなくて、当分やみそうもない。改めて周りを見回してみると、ごつごつした岩肌が剥き出しになってる天井と壁がライトの光に照らし出されて見えた。 「神社の下にこんなほら穴があったなんて、知らなかった……」 「俺もびっくりしたよ。波で削られてできたのかもな」  神社が建ってる岬の下も砂浜になってるのは知ってたけど、海辺の遊歩道はそこまで整備されてなくて足場も悪いから一度も行ったことはない。海水浴場からもかなり距離があるから、観光客はもちろん地元の人でさえ普段から近づくこと自体まずない場所のはずだ。 「そうだ、おにーさん。ケガしてるんだし、電話して助けに来てもらおうよ」 「俺もそう思って連絡しようとしたんだけど、ここ圏外みたいだ。ネットも全然繋がらない」 「ええっ!? うそ」  あわてて自分のスマホを取り出して画面を見ると、オレのも圏外になってる。 「なんで? 神社では普通にスマホ使ってる人いたのに……」 「理由は分からないけど、助けを呼ぶのは無理っぽいな。こんなとこ誰も来ないし」 「歩いて出るしかないってこと?」 「そうなるんだけど、さっき絢斗が落ちた時に見たら、遊歩道のあるところまで出る道が途中でなくなってた……」 「な、なくなってた? どういうこと?」 「満ち潮って言うのかな? 砂浜が途中から海水に浸かってて、とても歩いて行けそうな感じではなかったよ。俺も見たのは初めてだったけど、ここって普段は町から歩いて来られる場所だったよな」  ほら穴の外に出て確かめに行こうとゆっくり立ち上がると、右足の足首がズキンと痛んだ。 「いっ……」 「ああっ、だから立っちゃダメだって! 捻挫してんだから」  おにーさんがすぐにオレの身体を支えてくれて、またそこに座らせられた。 「とりあえず今は潮が引くまで待つしかないよ。この中まで海水が入ってきたりしたら話は別だけど、見た感じだとこっちはまだ大丈夫みたいだったから、しばらく様子を見よう。雨も降ってるし」  なんか、思ってたよりずっとヤバい状況になってるみたいだ。生まれた時からずっとこの町に住んでるのに、こんなに危険な場所があったなんて知らなかった。でもおにーさんのこと巻き込んでおいて、こんなケガまでさせて、今更知らなかったじゃ済まされない。 「ごめんね、おにーさん……」 「え?」 「オレが上から落ちたりしなければ、こんなことにならなかったのに……もっとちゃんと注意してれば」 「絢斗のせいじゃないだろ。元はと言えば、俺がよく知りもしない道で神社に戻ろうとしたのが悪いんだから」  おにーさんの大きな腕が、オレの頭をぎゅっと抱き寄せてくれた。 「俺がついてるのに、絢斗にケガさせて……あの時は本当に、生きた心地がしなかったよ。ごめん、本当に」  言いたいことはいっぱいあるはずなのに、なんだか何も言えそうになくて、オレはただおにーさんのシャツを掴んで胸元に顔をぎゅっと押しつけた。  今はまだ大丈夫でも、絶対にここまで海水が来ないとは言い切れない。とりあえずほら穴の奥の方でじっとしてようってことになって、オレはおにーさんに肩を借りて何とか立ち上がると、そのまま寄り添ってゆっくり奥の方へ進んでいった。 「……あれ」  思ったより奥は広い。スマホのライトをかざしながら歩いてたおにーさんは、行く先にぴたりと光を当てて立ち止まった。 「どうしたの?」 「何かある……」  おにーさんの見つめる先に目を凝らすと、奥の行き止まりになったところで小さな木の箱みたいなものがぽつんと置かれているのが見えた。近づいてみると、それは小さな祠みたいだった。湿った潮風のせいかひどく傷んでるけど、形が崩れるほどボロボロってわけでもない。 「何だろ、これ。こんなのあったんだ」 「何かの神様を祀ってるのかな?」  おにーさんは興味深そうにしげしげと祠を眺めてる。 「でも、すぐ上に神社があるのに。わざわざこんなとこにこんなもの置くかな」  こういうのに全く知識がないオレが見ても分かるくらい簡素な作りをしてると思う。屋根の部分もただ板を重ねて貼り合わせてるだけで、いかにも素人が作ったような感じだ。おにーさんはその祠の前でオレを座らせると、祠の横に回り込んでライトを当てた。 「あ……ここ、何か書いてある」 「え? 見せて見せて」  四つん這いになっておにーさんの横に行くと、祠の横に薄い木の板が貼りつけられてるのを見つけた。その板はまだそれほど傷んでないみたいで、上に書かれてる文字も読めそうだと思ったんだけど、やたら難しい漢字が多くてすごく読みづらい。って言うか読めない。送り仮名が全部カタカナで書かれてるし、一文だけ頑張って読んでみても言い回しが聞き慣れないものばっかりでさっぱり意味が分かんない。古文の授業で習ったものほど昔の文章ってわけでもないみたいだけど、最近書かれた文章でもない。 「……おにーさん、これ読める?」 「雰囲気だけなら、何となく」  ライトの中の文字を目でゆっくりと追いながら、おにーさんはその板に書かれてる文章を雰囲気で意訳してくれた。それは今からずっと昔この町にいた、ある一人の男の子の話だった。  *  明治中期、このあたり一帯の土地を全て所有していた地主には一人息子がいた。息子は生まれつき病弱だったが、芸術や文学を愛する感受性豊かな少年で、特に絵を描くのが大好きだった。  当時地主たち一家は別の土地で暮らしていたが、息子の体調が思わしくないため、海辺に建てた別荘で梅雨から夏の間だけ彼を療養させるため家族と数人の使用人を連れてこの町を訪れた。  そこで息子は、両親から心の慰みにと一匹の金魚をもらう。息子はその金魚を一目で気に入り、とても大切に世話をして、毎日絵を描いては金魚に見せて過ごしていた。  だが夏の終わりのある夜、息子の容態が急変し彼はそのまま亡くなってしまう。息子が最期に描いたのは金魚の絵だった。息子が死んだ日の翌朝、それまで元気だった金魚もその後を追うように死んでしまう。  息子と金魚の死を悲しんだ両親と使用人の手で海辺に小さな祠が建てられ、その中には金魚と一緒に息子の遺骨の一部も納められ、天国でいつまでも一緒にいられるようにと願いを込められたという。  息子と地主は龍神を祀る一族の血を受け継いでいたことから、息子の死後、この土地で生まれた金魚には霊的な力が宿ると信じられるようになった。  *  途中で何度かつまづきながらも、おにーさんはその文章を最後まで読み終わると、ふうっと小さくため息をついた。 「多分この板、ずいぶん後になってから誰かが書いてくっつけたんだろうな。これだけ少し新しいみたいだし、材質も違う」  おにーさんは木の板を指先で撫でながら、かがめていた身体を起こして座り直した。 「この地主って、もしかしてさっき神社でおじいさんが言ってたのと同じ人のことかな?」 「ああ、多分そうだろ」  ライトの白い光に照らし出された祠をぼんやり眺めながら、オレは毎晩のようにみてるあの不思議な夢を思い出してた。 『きみの綺麗な尻尾が大好きなんだ。初めて見た時から、きみに夢中だったんだよ』  自分に関わりのある話っていうわけではなくて、ただそういうことが過去にあったっていう、それだけの話だ。いや、もしかしたら実際にそういうことがあったのかどうかも疑わしい。誰かが後になって考えた作り話かもしれない。分かってる。こういう伝承なんてほとんどがおとぎ話みたいなものだ。それでもオレは、どうしてもこの息子と金魚の話が他人事とは思えなかった。  オレにあんな記憶はないし、あの人に心当たりもない。当たり前だ、だってオレの記憶じゃないんだから。でもあれが、息子が大切にしてた金魚の見ていた景色だったとしたら。目に映る全てがまるで水を通して見ているみたいで、景色がゆらゆら揺れて見える、あの不思議な感覚も。あれは水の中で泳いでる金魚が見ていた景色だからそう見えたのかもしれない。 「……」  さっきからおにーさんはずっと何も言わない。黙ったまま、じっと木の板の文字を見てる。 「……おにーさん?」  そっと呼びかけると、やっとおにーさんはこっちを向いた。 「あ、ああ。ごめん」 「どうかしたの?」 「ん? いや……」  何か言いかけて、やめた。  どうしたのかな。少し気になってもう一度聞いてみようとした時、おにーさんはまた木の板に顔を向けた。 「ほ、ほら。さっき神社で見た金魚すくい、あれで使われてる金魚もそうなのかなって思っただけだよ。霊的な力が宿るってやつ」  そこでふと思い出す。おにーさんの部屋の前にいつもいる、綺麗な尻尾の金魚。あの金魚は何年か前にオーナーが龍神祭でとってきた金魚だって言ってたっけ。 「もしかして、おにーさんちで飼ってるあの金魚もそうなんじゃないの? 普通の金魚じゃないのかも」 「うん、確かに……いくら叔父さんが大事にしてるって言っても、長生きしすぎな気はしてたんだよな」 「……まさかね」 「だよな……」  自分たちで言っておきながら、笑い飛ばそうとする声にも力が入らない。  ただの作り話かもしれない。ただ偶然似てるってだけで、オレとおにーさん、それにあの金魚にも何の関係もないことだって分かってる。  でも今のオレは、この息子と金魚の話をオレとおにーさんに結びつけて受け止めたいと思ってた。だってひとつひとつはただの偶然でも、それがいくつも重なると偶然が必然になるってオレは知ってるから。  今までオレとおにーさんの間に起こった、数え切れないほどの偶然と奇跡。そのひとつひとつに意味なんかなくても、それがいくつも重なった時にそれは大きな意味をもつ。それは作り話でもおとぎ話でもなくて、紛れもない現実だ。今こうしてオレとおにーさんが一緒にいることが何よりの証拠だって、今ならはっきりと分かる。 「息子は、金魚と一緒になれたのかな」  膝を抱えてぽつりと呟く。独り言のつもりだったのに、おにーさんは静かに答えてくれた。 「きっとなれたと思うよ。天国で一緒に絵を描いたり、海の中を泳いだりして、楽しく暮らしてるよ」  その幸せな光景が何故か、目に見えるように鮮やかに浮かんでくる。 『ああ、いつかきみと一緒に海の中を泳いでみたいな。海の中って、どんな色をしているんだろうね。庭に咲いてるあの紫陽花よりも青い色をしているのかな?』  あの時の金魚の気持ちを想像しようとすると、目頭がじわりと熱くなった。今なら泣いても暗くて見えないかな。 「……金魚は、息子と一緒になりたかったんだね。オレ、金魚の気持ちがすごくよく分かるよ」  言葉の最後がちょっと震えてた。これじゃおにーさんに泣いてんのバレちゃうよ。  ……いいか、バレても。  鼻水をすすりながら手で涙を拭うと、優しく肩を抱き寄せられた。潮の香りの中で、微かにおにーさんの匂いがする。 「俺も、分かる。息子はきっと、金魚に喜んでほしくて絵を描いてたんだな」 「うん。きっとそうだね」  何となくだけど分かる。おにーさんも息子と金魚の話を、ただの作り話だと思ってないって。そうじゃなきゃこんな言葉出てこないと思う。 『絢斗がいたから、絢斗が俺の絵が好きだって言ってくれたから、俺は夢を投げ出さずにいられたんだ。だから俺はずっと、絢斗に見てほしくて、絢斗のために絵を描いてきたんだよ』  ……ああ、そうだね。  おにーさんならこの息子の気持ち、分かんないはずがないもん。  オレの喜ぶ顔が見たいから絵を描くって言ってくれたおにーさんが、夢の中のあの人と重なった。 「おにーさん。オレね、あれからずっと考えてたんだ」 「……ん?」  ふっと、ライトの光が消えた。真っ暗になると思ったのに、思ってたより暗くない。おにーさんの顔もぼんやりとだけどちゃんと見える。おにーさんはまたライトをつけようとスマホに手を伸ばしたけど、オレはその手をきゅっと握って止めた。 「どうしてオレはあの頃、寝てる間だけ身体の外に出られるようになったんだろうって。あの病院には子供の頃から出入りしてたはずなのに、どうして急にあんなことになったのか、きっと何か理由があるはずだって思ってたんだけど……それがどうしても分かんなくて」  おにーさんは何も言わなかったけど、オレの手をぎゅっと握り返してくれた。 「でも今、分かったかもしれない。きっと、この息子と金魚がオレの願いを聞いてくれたんだと思う」  オレが神様に叶えてもらった、どうしても叶えてほしい願い事。  それはタッキーに、おにーさんに会うことだった。  どんな人なんだろう、一度でいいから会ってみたいな、話とかできたら聞きたいことがいっぱいあるのに。オレは病院のベッドの中で、いつもそれだけを夢みてた。叶わなくたっていい、夢みるだけなら自由なはずだ。だから今まで数えきれないくらい無茶な夢をいっぱいみてきたけど、あの夢だけはいつの間にか本気で願うようになってたのかもしれない。  オレの願いは全然想像もしてなかった形で叶ったけど、後になってからその理由を何度も考えてた。  どうしてオレはおにーさんと会うことができたんだろう?  一体誰がオレの願いを叶えてくれたんだろう?  いくら考えたって分かるはずもなくて、でもきっとそこには何か理由が、何か意味があるはずだって、いつからかぼんやりとそう思うようになってた。 「おにーさんがこの町に来たの、きっとただの偶然じゃなかったと思うんだ。おにーさんちのあの金魚が呼んでくれたんじゃないのかな」  無茶苦茶だって分かってる。こじつけにしたって無理があるって思う。それでもオレは、そう信じたかった。オレがおにーさんの絵に憧れる想いは、金魚が息子の絵に憧れる想いときっと同じだったから。 「……そうなのかな」  波の音が遠くから聞こえてくる。雨の音もまだやまない。でもここは静かだった。オレとおにーさんだけ、世界から切り離されちゃったみたいだ。 「きっとね、息子と金魚も、オレの気持ちがよく分かるって思ったんじゃないかな。タッキーの絵が大好きで、タッキーに会いたいなって思ってたオレの気持ちが分かるから、オレとおにーさんを会わせてくれたんだよ。おにーさんがオレのこと見つけてくれるように、おにーさんをこの町に呼んでくれたんだよ」  オレとおにーさんが会えたことはただの偶然じゃなかった。そんなのとっくに分かってたけど、今はっきりと確信できたような、そんな気がする。 「うん。そうかもしれないな……俺も、そう思うよ」  おにーさんの声は優しくて、寄せては返す波の音みたいだった。この声をずっと聴いてたい。海で泳げない金魚もきっと、こんな気持ちで息子の声を聴いてたんだろうな。  おにーさんの指に自分の指をそっと絡めて、おにーさんの肩に頭を寄せた。  オレの居場所は、ここ。  ここ以外には世界中探したってどこにもないんだよ。  だからお願い、おにーさん。  オレのこと離さないで。  もう二度と。 「へっ……くしっ!」  不意に身体がぶるっと震えてくしゃみが出た。 「寒いか?」  潮風と雨の湿気のせいかずぶ濡れの浴衣はなかなか乾かなくて、さっきからずっと肌に張りついたままだ。言われてみるとちょっと冷えてきたかもしれない。この中、少しだけど空気が外よりもひんやりしてるし。 「ちょっとだけ……」 「あと少し待てばきっと雨もやむし、潮も引くよ」  オレを安心させるみたいに優しく言いながら、おにーさんは繋いだ手を解いてそっとオレを抱きしめてくれた。おにーさんも服びしょびしょなのに、布越しに伝わる体温はすごく高い。オレの背中とか肩をさすって、少しでもあったかくなるようにしてくれてる。 「やっぱおにーさんって、体温高いよね」 「何だそれ。絢斗が冷たすぎるんだろ」 「えへへ。心があったかい人は、手は冷たいんだよ」 「こら、俺は心が冷たいって言いたいのか?」 「ううん、おにーさんは違うよ。心も身体もあったかい」  おにーさんがオレを見下ろしてる気配を感じる。とくん、とくん、響いてくる、おにーさんの少しだけ速い鼓動。でもきっとオレの方がもっとドキドキしてるんだろうな。いつもなら隠そうと必死になってるのに、今はもっとこの音をおにーさんに聴いてほしい。  ぎゅっと目を瞑って、おにーさんの胸に顔を押しつけた。 「こういう時ってさ、漫画とかだと人肌であっため合う展開になるのがお約束だよね」  ちょっと冗談っぽく言ってみたのに、おにーさんはすぐには何も言ってこなかった。 「おにーさん?」 「……お前な、そういうの本当にやめろよ。こんな状況じゃシャレにならないからな」 「えへへ。もしかしておにーさん、したい?」  おにーさんの喉がごくりと小さな音を立てた。それを聞いた途端、オレもなんだか変に意識してきちゃってるのが分かる。さっきまであんなに寒かったのに、おにーさんが触ってるところだけがじわじわと熱くなってくる。 「……おにーさんの、えっち」 「ば、バカ。絢斗が変なこと言うから」  少しだけ上擦った声は、すごく我慢してる。自分で言い出しておいてなんだけど、なんかオレまでそういう気分になってきちゃったかも。そろそろと手をおにーさんの胸に這わせると、頭の上で小さなため息が聞こえた。 「おにーさん。今ならここ、誰も来ないよ」 「い、いや、ダメだって。そんなこと言ってる場合じゃ」  微かにおにーさんが身じろぎして、オレから離れようとしてるのが分かる。だからオレは咄嗟におにーさんの首に両腕でぎゅっとしがみついた。 「……おにーさん、オレ……さむい。あっためて」  おにーさんの耳に唇を寄せて、精一杯の勇気を振り絞って囁く。なんだか思い出すな、おにーさんと一年ぶりに会えたあの夜のこと。あの時もオレとおにーさんは雨でずぶ濡れで、それでもオレはこうしておにーさんにしがみついてた。今と同じみたいに精一杯の勇気を振り絞って、おにーさんの部屋に行きたいって言ったあの時のこと、オレはきっと一生忘れないと思う。何回おにーさんとエッチなことしても、あの時の気持ちはきっと忘れらんない。  おにーさんの手が、オレの背中をぎゅっと抱きしめた。 「こんなとこで、こんなことしてたら……バチが当たっちゃうな」  少しだけ熱っぽいおにーさんの声。肩におにーさんが顔を埋めてくる感触が心地よくて、もっとその感触を確かめるみたいにおにーさんをぎゅっと抱きしめる。 「息子と金魚はきっと許してくれるよ」 「……そうだな」  神様、どうかお願いです。オレにあと少しだけ勇気をください。  オレはおにーさんだけのものになりたい。 「……ね、おにーさん」 「ん?」 「息子と金魚が一緒になれたみたいに、オレもおにーさんと一緒になりたい」 「何言ってんだよ、もう一緒になってるだろ」 「うん。……もっと」 「……絢斗?」  心臓の音がすごい。波の音も雨の音もとっくに聞こえなくなってて、今はただ心臓のドキドキ鳴ってる音だけが耳の中に響いてる。これ以上速く動いたら胸を突き破っちゃうんじゃないかってくらい、ドキドキいってる。 「オレね、もっと、もっとおにーさんと一緒になりたい。おにーさんと、ひとつになりたいの」 「……」 「意味……分かるよね?」
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