ロマンシングライフ

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最終話 ロマンシングライフ  また会えるのかな、もう会えないかもしれないのにって、別れ際はいつもそう思ってた。何回好きって言われても、何回エッチしても、おにーさんとたった一秒だって離れるのが不安で仕方なくて、でもその理由がどうしても分かんなかった。  だけど今は怖くない。オレとおにーさんはこの先何があっても離れないって、やっと分かったから。  雨は上がって潮も引いて、オレとおにーさんはようやくほら穴の外に出られた。 「おにーさん、いいってば……ケガしてんのに」 「絢斗の方が重傷なんだよ、見た目で判断するな」 「ただの捻挫じゃん、おにーさん大げさ」 「こら、捻挫甘く見るなよ。ちゃんと治さないと、歩けなくなることだってあるんだからな」  オレがどんなに大丈夫って言ってもおにーさんは聞いてくれなくて、結局オレをおんぶしたまま遊歩道まで歩いてきちゃった。  雨上がりの夜空には星がいくつも見えて、海は穏やかだ。子供の頃から見慣れてる景色のはずなのに、目に映る何もかもがまるで初めて見るものみたいに鮮やかな色をしてる。潮の香りがする夜風も、波の音も、五感で感じる全てが生まれたてみたいにキラキラしてて、じっとしていられない。  ああ、世界はこんなに眩しくて鮮やかで綺麗だってこと、今すぐ世界中の人に教えたい。だけど誰にも教えたくないような、この不思議な感じ。  オレの脚をしっかりと抱えてくれてるこの手も、オレの身体を支えてくれてるこの背中も、誰にも教えたくないな。オレは今日、この人だけのものになれたんだっていうその事実が今でもまだ信じられなくて、足元ふわふわしてて変な気分。だけど、こんなに心が満たされてる。 「……ね、おにーさん」 「ん?」  まだちょっと気恥ずかしい、ぎこちない空気。それさえもなんだか嬉しくてたまらなくて、おにーさんの首に後ろからぎゅっとしがみついた。 「オレ今、すごーくしあわせ」 「俺も」  愛おしいって、きっとこういう気持ちのことなんだと思う。すきとも、あいしてるとも、ちょっとだけ違う。きっとこの気持ちに限りはなくて、どこまでもどこまでも大きくなっていくんだろうな。今まではそれが怖かったけど、もう怖くない。だってきっと、おにーさんもオレと同じだから。  神社へ続く道はもう人影もまばらだった。雨と停電でとっくにお祭りは中止になってたみたいで、さっきの人混みが嘘みたいに静かになってる。  神社の境内に続く階段の下にオーナーが立ってて、オレたちを見つけた途端に血相変えてすっ飛んできた。 「ああっ、やっと見つけた! お前ら一体どこにいたんだよ!?」 「どこって……」 「電話も繋がらないしラインもメールも返事しないし、もう少しで警察行こうと思ってたんだぞ!」 「け、警察って、んな大げさな。ちょっと電話出られなかったくらいで」 「水島くんのお母さんからも連絡があったんだよ、電話もメールも反応ないって」 「ええっ!?」  あわてて巾着袋からスマホを引っ張り出してみると、母ちゃんからの着信履歴がずらっと並んでる。 「うわあ……」 「ちゃんと連絡しろよ、すごく心配してるから」 「は、はい」  肩越しにおにーさんと目が合って、ちょっと気まずくなっちゃう。あのほら穴にいた時間はそんなに長くはなかったけど、まさかこんなことになってたなんて思ってなかった。きっと母ちゃんにすんげー怒られるなあ。  オーナーはオレとおにーさんをじろじろ眺めながら、まるで今気が付いたみたいに聞いてきた。 「拓海、なんで水島くんおんぶしてんだよ? それに二人ともずぶ濡れで……何かあったのか?」 「あ、あの、オーナー……これは」 「絢斗が転んで足首を捻挫したんだ。もう遅いから病院もやってないし、絢斗の家まで歩いて帰らせるのも無理っぽいから、今日はこのままうちに泊めようと思うんだけど」  畳み掛けるようにおにーさんが説明すると、オーナーはまだ何か聞きたそうだったけど大人しくなっちゃった。おにーさん、オーナーの扱いに慣れてるなあ。崖から落ちたなんて言ったら絶対オーナーにも母ちゃんにも怒られるだろうから、ホントのことは黙っておいた方がよさそうだ。 「あ、ああ、そうか……そうだな。うん。確かうちの救急箱に湿布が入ってると思うから、それ使って……って」 「ん?」 「たっ、拓海も腕ケガしてんじゃないか! どうしたんだよこれ?」 「ちょっと石階段のとこで転んだだけだよ。傷は浅いから大したことないって」  一応おにーさんの腕についてた血は拭き取っておいたけど、やっぱり傷がかなり大きいから痛々しい。おにーさんは平気だって言うけど、ホントに大丈夫なのかな。  オーナーはあきれたように深いため息をついてオレたちを見た。 「ほんっとに、お前らは……いいか、とりあえず今日はうちで応急手当だけして、明日必ず二人で病院行けよ! いいな?」 「了解」 「わっ、分かりました」  二人同時に返事しちゃって、またおにーさんが肩越しにオレの方を振り向いた。ちょっとだけ照れくさそうなその笑顔につられて、オレもつい笑っちゃう。 「叔父さんは祭りの後始末があるから、明日の朝か昼前に帰るよ。もう雨でやぐらがぐっちゃぐちゃだからな」 「分かったよ、頑張って」 「……はあ」  オーナーはまたひとつ大きなため息をつくと、オレたちに背中を向けて階段を上がろうとした。 「じゃあな、寄り道しないで帰れよ」 「あ、叔父さん」 「ん?」  ふと、おにーさんがそれを呼び止める。振り向いたオーナーを見据えるおにーさんの横顔はいつになく真剣で、思わずおにーさんの肩に掴まってる手にきゅっと力が入る。 「叔父さんにはちゃんと話しておこうと思ってたんだけど」 「? うん」  ま、まさか。  おにーさんの横顔をじっと見てると、おにーさんもちらりとこっちを向いた。心配しないで、その目は確かにそう言ってる。だからオレは黙っておにーさんの言葉を待った。 「なんだよ」  怪訝な顔で聞いてくるオーナーに向き直って、おにーさんははっきりと言った。 「俺と絢斗、付き合ってる」  オーナーはぽかんとしてた。 「え……」 「俺の、大切な人だ」  オレの両脚をしっかりと抱え直しながら、おにーさんはゆっくりと言葉を重ねた。  おにーさんが何を言おうとしてたのかは分かってたけど、いざその言葉を耳にしても意味が頭に入ってこない。水にぷかぷか浮いてるみたいな、夢の中を漂ってるような、まるで現実味のないその状況を、オレはただぼんやりと見てることしかできなかった。  ……言っちゃった。  こんなことバレたら絶対、変な目で見られるのに。そんなこと分かってるはずなのに。  おにーさん、どうして急に。 「ああ、そう」  返ってきたのは、予想に反してあまりにもあっさりとした反応だった。 「え、それだけ?」  おにーさんも明らかに面食らってて、拍子抜けしたような声で聞き返してる。オーナーはボサボサの頭を少し乱暴にぼりぼり掻きながら、顔色ひとつ変えずに言い放った。 「だってもうずいぶん前からそうじゃないかなーって思ってたからさ」 「……え」  またしてもオレとおにーさんの声が綺麗にハモった。 「なんかお前いつも会社から帰ってくるの妙に時間かかってたし、俺に隠れて誰かとコソコソ会ってんのは薄々気付いてたよ。んで、店に水島くん連れてきた時に秒で理解したよね。てっきり恋人を紹介するつもりで連れてきたのかなって思ったらバイトの紹介とか言い出すし、こいつこれでもまだバレてないつもりなのかって正直あきれてたんだけど、せっかく来てくれたんだから当分は気付いてないふりしておこうと思って」 「はあー!? き、気付いてたんならさっさと言えよ!」  珍しく声を上げて怒ってるおにーさんを見ても、オーナーはやっぱりいつものちょっと眠そうな目で淡々と答えた。 「言ってどうすんの、俺そこまで野暮じゃないって。それにもしまだ気付いてなかったとしても、ただのバイトの子を毎回家まで送ってる時点で気付くだろ、普通。お前それで本当に隠してるつもりだったのか? 叔父さん、そっちの方がビックリだよ」 「う……」  言われてみればそれもそうだ、返す言葉もない。隠してると思ってたのはオレとおにーさんだけで、オーナーには最初からバレバレだったんだ。 「まあ、バイト中に仕事そっちのけでイチャイチャするつもりだったらその場でつまみ出すつもりではいたけど、水島くんはしっかり仕事してくれてたからね。下手につついてせっかく来てくれた優秀な人材に辞められでもしたら、損するのはこっちだったし。だから黙ってたの」 「は、はは……」  乾いた笑いが出てきて、曖昧に誤魔化す。いつもバイト終わった後におにーさんの部屋でエッチしてたことも、もしかしてバレてたのかな。オーナーはおにーさんと違って無愛想ではないけど、いつも眠そうにぼんやりしてるから表情がいまいち読み取れない。ホントはどこまで気付いてたのか、その言葉と表情からはまるで読めそうもなくて、とりあえず今は笑っておくしかなさそうだ。見えないけどきっとおにーさんも今、力なく笑ってるんだろうな。 「水島くんが来てくれて助かってるのは事実だからね。夏休みだけと言わず、これからもずっとうちで働いてほしいんだけどなあ。今から考えておいてくれると本当に助かるんだけど、どうかな? 時給アップの交渉も本部にするよ」 「えっ、本当ですか?」  思ってもみなかった話にビックリして、つい背中が真っ直ぐに伸びてた。そんなオレを見て、オーナーは嬉しそうに笑いながら頷く。 「もちろん。安心して仕事任せられる子なんてそう簡単に見つかるもんじゃない。そういう子に長く働いてもらうためなら手段は選ばないよ」 「手段って……言い方」  おにーさんはあきれたように肩を落としてる。 「あ……ありがとうございます。嬉しいです、そんなふうに言ってもらえて」 「それじゃ今度、バイトの契約更新について改めて面談させてもらえるかな」 「はい! よろしくお願いします」  嘘みたいだ。オレなんかでもあのお店の役に立ててるって、そう思ってもいいんだよね? もっと自信もっていいって言ってくれたあの時のおにーさんの言葉、そのまま受け取ってもいいのかな。初めて感じる誇らしい気持ちがなんだか少しくすぐったくて、でもすごく嬉しい。 「うん、いい返事だね。それじゃ拓海、しっかり家まで送ってけよ」 「……おう」  オーナーは意味ありげににんまりと笑うと、ひらひらと片手を振りながら階段を上って行った。  びくびくしながら母ちゃんに電話すると、思ったとおりとんでもなく怒られた。とにかくひたすら謝り倒した後、足を捻挫したから今日は友達の家に泊めてもらうってことを話すと、そっちについては割とあっさり認めてくれた。ただ、明日必ず病院に行くことが条件ではあったけど。母ちゃんはさっきオーナーに電話してたみたいだからおにーさんのことを聞かれるかと思ってちょっと身構えてたのに、何も聞かれなかったってことはきっとオーナーが黙っててくれたんだろう。オレがいつも友達と会うって嘘ついておにーさんと会ってることも、この分だとオーナーにはとっくにバレてるっぽい。多分、うまいこと話を合わせてくれたんだろうな。  今度ちゃんとお礼言わなきゃ。ホントにオーナーには頭が上がらない。  遊歩道を歩いておにーさんちへ向かう途中、時々すれ違う人たちはオレをおんぶしてるおにーさんを物珍しそうな目でちらちら見ていく。いつもなら気になってとっくにおにーさんの背中から下りて歩いてたと思うけど、今日は気にならない。人の目にどう映るか、それよりもオレはおにーさんがどんなつもりでさっきオーナーにオレたちのことを話したのか、その方が気になって仕方ない。 「よかったの?」 「何が」  周りに誰もいなくなったのを確認してから、ぼそぼそと聞いてみる。 「あんなこと言っちゃって……オーナーはああ言ってたけど、やっぱり男同士だもん。これからおにーさん、変な目で見られるよ」 「それならそれでいいよ。俺は別に、絢斗とやましいことなんて何もしてない」 「……いや、散々やりまくってんじゃん」  後ろから見ても分かるくらいに、おにーさんの耳が真っ赤になった。 「ば、バカ。やましいってのは良心に恥じるところがあるとか後ろめたいって意味で、その、俺と絢斗がいつもしてるのとは全然違う」 「……ぶっ」 「笑うな、バカ」 「ごめん、分かってるよ。んな必死になって否定しなくてもさあ」 「うるさい」 「そうだね。オレとおにーさんがいつもしてるのは、やましいことじゃなくて、エッチなことだったね」 「分かってんなら聞くな」  よかった。やっぱりいつもどおりのおにーさんだ。  オレもおにーさんもそんなにいきなり変われないけど、今のオレたちは明らかに今までとはちょっとだけ違う。今までおにーさんとの関係を進めなきゃ、変わらなきゃって焦ってたけど、そんなこと無理して考えなくたってよかったんだって、今なら分かる。変わることも大切だけど、この先何があっても変わらないものも同じくらい大切にしたいって、今は素直にそう思える。 「おにーさん」 「なんだよ」  おにーさんの首にぎゅっとしがみついて、目を閉じた。おにーさんの匂いがする。 「……ありがとう。オレ、ホントにおにーさんがだいすきだよ」 「知ってる」 「帰ったらまた、エッチなこといっぱいしようね。オレ今すごーくしあわせだから、おにーさんのしてほしいこと何だってしてあげるよ」 「こ、こらっ。そういうことは、もっと小さい声で言いなさい」 「えへへ、今日は特別。マニアックなプレイとかでもいいからね、遠慮しないで」 「……普通でいいよ」 「えー、ホントにいいの? たまにはさあ、ほら、コスプレとかしてみない? さっきの浴衣えっちもよかったでしょ? あっ、なんだったらオレ、前の高校の制服着よっか! やべー、超ナイスアイディアじゃん?」 「な、なな、何言ってんだバカ! 変態かお前は!」 「だってあの制服着てた時は一回もしてないじゃん。まだオレの家にあるからさ、ちょっと今から取りに行こうよ!」  我ながらすごい名案を思いついちゃった。すっかり興奮しておにーさんを方向転換させようとしても、おにーさんは頑なに進路を変えようとしない。 「ばっ、バカ、いい! わざわざそんなことのために帰るか!」 「ええー、オレ、すっげーやりたいんだけど。制服えっち」 「分かったから、また今度にしろ。今日はもう俺の部屋に帰るぞ」 「もー、なんで」 「……早く帰って、したいんだよ」 「あ……」  こっちに半分だけ顔を向けて、恨めしそうにオレを睨むおにーさんの頬はちょっと赤い。 「気付けよ、バカ」 「えへへ……ごめんね、おにーさん。分かった、制服は今度持ってくるね」 「ああ、楽しみにしてる」 「おにーさんのえっち。一年前も制服姿のオレにムラムラしてたんでしょ」 「う、うるさい。まったく、お前は……」  声を上げて笑っちゃいそうになるのを必死に堪えながら、またおにーさんにぴったりとくっついた。 「早く帰ろ、おにーさん」 「おう」  オレのおにーさんは、オレの自慢の恋人だ。  カッコよくて、優しくて、頼りがいがあって、普段はあんまり思ってること顔に出さないけどすごくエッチで、オレのこといつも気持ちよくしてくれて、大事にしてくれる。  こんなに素敵な人に愛されてることを世界中の人に自慢したいけど、誰にも教えたくないと思ってる自分もいる。オレとおにーさんの二人だけの秘密の時間は、誰にも教えたくない。  おにーさんは早く帰りたいって言ったけど、ここまでずっとオレのことおんぶして歩いてきたからさすがにちょっと疲れてきたみたいだ。渋るおにーさんを何とか説得して、遊歩道の途中で少し休憩することにした。  遊歩道と砂浜を隔てる低い手すりにオレを座らせると、おにーさんは腕を軽く曲げたり伸ばしたりしてる。やっぱり腕、疲れてたみたい。無理しないで疲れたら疲れたって言ってくれればいいのに。  ふと夜空を仰ぐと、ここから少し離れたところにあの石階段が見えた。ああ、この場所。今も覚えてる、一年前のあの夜に、おにーさんにあいしてるって言ったところだ。あんなに悲しいことがあった場所なのに、今ここにいるオレとおにーさんはこんなにも幸せだ。未来に何が起こるかなんて、ホントに誰にも予測なんかできない。きっとこれから先も、予想もしないことがいっぱい待ってると思う。 「なあ、絢斗」 「ん? なーに」  そんなことをぼんやり考えてると、おにーさんがふとこっちを向いた。オレが座ってる手すりから離れたところに立って、すごく真剣な目をしてる。さっきオーナーにオレたちのことを話した時と同じ目だ。 「いきなりだと思われるかもしれないんだけど」 「うん?」  すぐには何も言わない。おにーさんはひとつ、大きく深呼吸した。 「一緒に住もう。俺と二人で」  遠くから潮騒が微かに聞こえてくる。誰もいない夜の砂浜は怖いほど静かで、時間が止まってもきっとオレは気付かないと思う。 「今の会社で社員にならないかって少し前から言われてるんだ。でもそうすると勤務時間が今より増えるから、今みたいにちょくちょく会うのは難しくなると思う。だけど一緒に住んでれば毎日会えるから」  何も言えないでぼけっとしてるオレを真っ直ぐに見て、おにーさんはゆっくりと話し始めた。 「給料はそんなに上がるわけじゃないけど、絢斗と二人で暮らすにはギリギリいけると思う。さっき話した挿絵の仕事も受けるし、少しでも収入が増えるよう頑張るよ。いつかは絵を描く仕事で食べていく夢もまだ諦めるつもりはないから、絵の勉強も続ける」 「……」 「絢斗のご両親にちゃんと挨拶もする。絢斗の身体に負担をかけるような生活は絶対にさせない」  オレを見つめるおにーさんの瞳は、少し揺れてる。今のオレ、どんな顔してるんだろう。どんな顔してればいいのかな。ちゃんとおにーさんの話聞いてなきゃいけないのに、そんなことばっかり気になっちゃって、頭ん中がぐるぐるしてる。 「それでも、しばらくは絢斗に苦労させるかもしれない。つらい思いとかさせるかもしれない。だけど、その時はすぐ俺に話して。どうすれば絢斗がつらくならないか、俺も一緒に考えるから。絢斗が俺と一緒に幸せに暮らしてくれるためなら、俺はどんなことだって頑張れるよ」  おにーさんはオレの前に歩み寄ると、オレの右手を両手でぎゅっと握りしめた。夢をみてるような気持ちのままおにーさんを見上げた時、潮の香りがする風が髪を揺らした。 「だから、一緒に住もう。朝は一緒に起きて、夜は一緒に寝よう。これからもずっと、いつも俺のそばにいてほしいんだ」  朝は一緒に起きて、夜は一緒に寝る。おにーさんと。いつも、おにーさんのそばに。  そんなこと、今まで考えたこともなかった。だって今がすごく幸せだから、これ以上を願ったりしたらきっとバチが当たるって思ってたから。おにーさんと一秒だって離れたくないっていつも思ってるけど、それは望んじゃいけないことだと思ってた。だってオレとおにーさんの関係は、誰にも言えないものだから。人並みの幸せを欲しがっちゃいけないって、ずっと思ってた。  でも、願ってもいいの? おにーさんとずっと一緒の毎日を、オレは望んでもいいの? 今以上の幸せを、オレは欲しがってもいいの?  おにーさんはじっと待ってる。祈るような、縋るような目で、オレの言葉をただ待ってる。  オレの手を握りしめてるおにーさんの指は、少し震えてた。 「……おにーさんが、苦労するだけだよ」  ほんの少しだけ視線を落として、ぽつりと呟く。 「いいよ」 「オレはやだよ。おにーさんに苦労なんかさせたくない」 「え……」  不安そうな声がして、視線を上げるとおにーさんは戸惑ったような目でオレを見てる。おにーさんの手をぎゅっと握り返して、オレはおにーさんを真っ直ぐに見た。 「だから、オレも働く。おにーさんに守ってもらうばっかりじゃなくて、オレもおにーさんのそばで苦労する」  まるで何言われてるか分かってないって顔だ。おにーさん、今すごい混乱してんのかな。 「絢斗……それって」 「今はまだバイトしかできないけど、卒業した後のこともこれからちゃんと真剣に考えるよ。オレもおにーさんを守りたい。おにーさんと並んで立てるようになりたい」  これなら分かってくれるかな。ホントおにーさんって、変なとこで鈍感なんだもん。オレよりずっと大人のくせに、結構はっきり言わないと分かってくれないことがある。  おにーさん、なんか今にも泣き出しそうな目をしてる。  そう思った次の瞬間、オレはおにーさんの腕の中に閉じ込められてた。 「……ありがとう、絢斗」  しっかりとオレの背中を抱きしめる大きな手は、やっぱりまだ少し震えてる。きっとおにーさんも、ずっと不安だったんだね。オレだけが不安で怖かったのかと思ってたけど、ホントはおにーさんもずっと同じだったんだ。 「はは、幸せって怖いな」 「え?」 「なんかもう俺、今日で一生分の幸せ使い果たしちゃったかもしれない。これ以上の幸せなんて考えられないよ」  さっきのオレが考えてたのと全く同じこと言ってる。ホントにおにーさんって卑怯だ。どうして時々、こんな子供みたいなこと言うんだろう?  きっとおにーさんのこんなところ、世界中でオレだけが知ってるんだ。そんなふうに自惚れてもいいよね。オレだけにこんな弱いところを見せてくれてるんだって思うと、すごく誇らしくて、嬉しくて、愛おしくてたまらなくなる。おにーさんの背中に両手を回して、オレもぎゅっとおにーさんを強く抱きしめた。 「おにーさん、何言ってんの? これ以上の幸せにするために一緒に暮らすんでしょ。もっと、もーっと、幸せになるんだよ。オレと二人で」 「そうだな。……ごめん」  おにーさんの声の最後は少しだけ震えてて、ふとその横顔を見てビックリした。 「えっ、うそ、なに泣いてんの!?」 「な、泣いてないよ」  あわてて否定してるけど、おにーさんの目尻にはうっすら涙が浮かんでる。抱きしめる腕を解いてその涙をそっと拭ってあげると、おにーさんはばつが悪そうに目を逸らした。 「もーしっかりしてよ! このくらいで泣いてたら、これから心臓もたないってば。もっと幸せなこと、この先にいっぱいあるんだよ?」 「……うん、そうだな。一緒に幸せになろうな、絢斗」 「うん。なる」  すごく近くで顔を見合わせて、ふふって小さく笑い合う。なんかオレも泣きそうになっちゃって、あわててぐっと堪えた。  怖いくらいの幸せ、なんて言葉を聞く度に、幸せの何が怖いのかちっとも分かんなくて不思議だったけど、今はその意味がすごくよく分かる。  こんなに大きな幸せを手にしたら、この先にはもうどんなに小さな幸せも見つけられないかもしれない。  いつかこの幸せを手放したら、オレはその時どうなっちゃうんだろう。  そんなふうに先のことばっかり不安になっちゃって、でもそれじゃダメだよね。だって今ここに確かにある幸せは、夢でも幻でもなくて紛れもない現実なんだから。それをしっかり離さないように抱きしめていれば、どんな未来でもきっと大丈夫。大きすぎて一人じゃ抱えきれない幸せも、おにーさんと二人なら抱えられる。 「……ね、おにーさん」 「ん?」 「一回しか言わないから、よく聞いててね」 「うん」  座ったままのオレと目の高さを合わせてくれてるおにーさんを、真っ直ぐに見つめる。普段は恥ずかしくてとても言えないような言葉も、今なら素直に言えそうな気がする。 「ふつつか者ですが、末永くよろしくね。拓海」  おにーさんは瞬きを繰り返して、ぽかんとした顔でオレを見てる。 「え……」 「……えへへ。もう言わないよ」 「あ、あの……最後のとこだけ、もう一回」 「だめー。もう言わないもん」 「えっ、あ……絢斗」  やっぱり恥ずかしいや。顔赤くなってんの分かるから、それを隠すためにおにーさんに抱きついた。 「お願い、もう一回だけ」 「もー、しょうがないなあ。あと一回だけだからね」  おにーさんの耳に唇を寄せて、そっと囁く。他の誰にも聞こえないほど小さな声で、おにーさんだけに届くように。 「オレ、拓海のことだいすき。あいしてるよ。拓海のことすきになって、ホントによかった」  おにーさんの手が、オレの背中と頭をぎゅっと抱き寄せてくれる。 「うん……俺も」  満たされる幸せで胸がいっぱいで、息ができなくなりそうだ。  オレは金魚で、おにーさんは海だ。  金魚は海の中では生きていけないけど、オレは限りある命を一日でも長くおにーさんのそばで生きたい。 「えへへ。オレはもう、とっくに幸せだよ。だからね、この先もし不幸になっても大丈夫」 「……それって、どう受け取ればいいの?」 「あんまり頑張らなくてもいいよってこと。おにーさんってすぐ無理するから。一人で何でも頑張って背負い込もうとしないで、つらい時はオレにちゃんと話してね。おにーさんが思うほど、オレ弱くないから。しんどい時はオレに頼ったり甘えたりしてね。そのために一緒に暮らすんでしょ」  今まで自分はすごく弱い生き物だと思ってた。それは事実で今も変わらないのかもしれないけど、おにーさんと一緒にいてオレは少しずつ強くなれてるってちゃんと分かる。おにーさんのためなら、オレはきっと強くなれるから。 「ありがとう……本当に。愛してるよ、絢斗」  めでたしめでたしの、その向こうにある物語。それを誰も教えてくれないのは、それがヒロインと王子様だけの秘密だからなんだ。  心も身体も結ばれたその先には、二人しか知らない世界がどこまでも広がってる。オレとおにーさんしか見ることができない、二人だけの秘密。  ドキドキして、くらくらして、ぎゅーってなる。嬉しいのに寂しくて、笑いたいのに泣きたくて、身体の奥がじんじんして、胸の奥がふわあ~ってなる。  おにーさんしか見えなくて、頭ん中おにーさんでいっぱいで、時々不安で怖くてどうしようもなくなるけど、抱きしめられるとほっとする。きっとこういうのが、幸せっていうんだろうな。  おにーさんの隣で生まれて初めて知った幸せを、オレは一生離しはしない。おにーさんの夢が叶う瞬間を、それまでの道のりを、ずっとそばで見守っていたい。おにーさんが描くキラキラした夢みたいな世界を、ひとつでも多くこの目で見たい。  それこそがオレの生きる意味だって、今ならはっきりと分かる。 「えへへ、これからは毎日エッチなことできるんだね」 「いや、その前にやらなきゃいけないことがいっぱいあるだろ。気が早いよ」 「もー、そういうことは後で考えればいいの。とりあえずさ、今日は早く帰ろ! で、いっぱいエッチしようね。オレ、頑張っちゃうよ!」 「ば、バカ! だからそういうこと、デカい声で言うなって」 「ほらほら、早くおんぶしてよ。おにーさんだって早くしたいんでしょ?」 「ああもう……分かったって。ほら」  オレとおにーさんしか知らない、めでたしめでたしの向こう側。  それはきっと、今始まったばかりだね。
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