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2-4. 秘密
「……ほら、起きてよ。こんなとこで本気で寝ないでってば」
肩をゆさゆさと揺さぶられ、一緒に頭がぐらぐらと前後に動いて軽く吐きそうになった。
「うえ……」
「ちょっと、吐かないでよ」
「……んだよ」
わずかに身体をひねって肩越しに見上げると、俺を見下ろす悠子とその後ろに立つ神様が視界に映る。どうやらまたしても眠っていたようだ。二人の会話を寝たふりして聞いていたのは覚えてるけど、どのへんで寝落ちしていたのかはまるで記憶がない。恐るべしこたつの魔力。まだぼんやりする頭がひどく重くて、できればこのまま眠ってしまいたかったけど、神様がコートを羽織っていることに気付いて上半身だけを起こした。
「あれ、帰んの?」
「ああ。もともと、そんなに長居するつもりではなかったからな」
「あっそ。じゃあな」
またこたつ布団に潜ろうとした俺の腕を、悠子の手がぐいっと強引に引っ張る。
「なに寝ようとしてんのよ! お見送りしなさいってば」
「ええ? いいよそんなの、寒いし……」
「構いませんよ、悠子様。そいつのことは放っておいてください」
「でも……」
神様は軽く会釈すると、すたすたと玄関へ向かって歩いて行った。
「ちょっとほら、本当に起きてよ。またしばらく会えないんでしょ?」
「うー……」
半ば悠子に引きずり出される形でこたつから出る。それまでこたつに温められていた身体は部屋の空気にさらされた途端、急速に冷えていく。
「さみっ」
時計を見ると、日付が変わってから少し経っているくらいの時間だった。
「神様、待ってください。今こいつも行きますから」
玄関に向かって声をかけながら、悠子は俺の腕を引っ張って強制的に足で立たせる。仕方なく、悠子の後について渋々玄関の方へ歩いて行くと、神様はちょうど靴を履いてこっちを向いたところだった。
「じゃあな、もう来るなよ」
壁に右肩だけで寄りかかり、できるだけ目を合わせないようにしながらそう言う。
「ふん。それは貴様の素行次第だな」
「はあ?」
神様は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。相変わらず鼻につく仕草だ。
「そうだ、聞こうと思っていたのだが貴様、あの面はどうした。この部屋に置いてあるのか?」
「え? いや、神社に置きっぱだけど」
「阿呆が! あれには貴様の神通力が封じ込められているんだぞ、肌身離さず携帯しろとあれだけ言ったのにまだ分からんのか!」
ああもう、また始まった。
「うるせーな、どうせあの神社には誰も入ってこられないから平気だって。それに神通力なんかなくたって、今の時代はこれさえあれば大抵のことはできるし」
言いながら、ケツのポケットから端末を引っ張り出してみせる。それを見ると、神様は目を伏せて大きなため息をついた。
「……貴様が少しでも利口になっていることを期待した俺が馬鹿だったな」
「はいはい、出来の悪い使いですいませんね」
それ以上は俺の相手をする気がないのか、神様は悠子の方に向き直って深々と頭を下げる。
「では悠子様、夜分遅くに突然失礼致しました」
「い、いえ。こちらこそ、何のお構いもしませんで……」
「ああ、そうだ。これを」
しどろもどろに答える悠子とは対照的に、神様は至って落ち着いた態度でスーツの内ポケットから何かを取り出して悠子に差し出した。名刺くらいの大きさのメモみたいだ。
「使いの者と帝都ホテルに部屋を取っています。この部屋に明後日の午前中まで宿泊しているので、何かあればご連絡を」
「てっ、帝都!? しかもスイート……」
受け取ったメモを見て、悠子は目を丸くしている。ホテルなんて一度も泊ったこともなければ立ち入ったことすらない俺でも名前を知っている、日本有数の高級ホテルだ。
「偉そうな口きいてる割に、神様がいちばん経済観念ないんだよ。そのスーツとコートだってオーダーメイドだろ」
精一杯の嫌味ったらしい言い方をしてやったのに、相変わらずこの堅物は表情ひとつ変えずにしれっとしている。
「賽銭には一切手をつけていない」
「当たり前だろ。民の信仰だの神の眷属としての自覚だの、言ってることはご大層なのに湯水のごとく金使うよなあ、昔っから」
ふと隣に目をやると、悠子は不思議そうな顔で俺と神様を交互に見ている。どうやら何を話しているのかさっぱり分からないようだ。俺は少しだけ身をかがめて、悠子にそっと耳打ちした。
「総本宮は結構由緒あるでかい神社だからさ、個人だけじゃなく日本中の大企業が商売繁盛の祈願に来るんだよ。あんまり公にはしてないけど、正月とかの行事がある度に賽銭とは別でとんでもない額が入んの」
「……そういうの、喋っていいの?」
「悠子、神社の名前は聞いてないんだろ? ならセーフ」
「おい、聞こえてるぞ。むやみやたらに余計なことを話すな」
俺は肩をすくめて、聞いてないふりをした。
「神社を管理する人間の中でも、宮司とごく一部の人間は神様がこうやって人の姿で現世に時々下りてくることを知ってる。その時に着るスーツだの宿泊先の手配だのは、その限られた人間たちが手を回してるってわけ。俺から言わせれば、いくらなんでも甘やかしすぎだと思うけどな。まあ神様だし……仕方ないっちゃあ仕方ないけど」
「貴様には分からんだろうがな、ある程度の立場にある者は適当な格好や立ち居振る舞いができないのだ。必要経費だ」
「はーいはい。俺みたいな底辺の下っ端にはとても理解できない世界の話だな。さすが神様、気苦労が絶えなくてご苦労なことで」
神様はまたしてもため息をついている。また何か言われるかと思ったけど、それ以上は俺に何も言わずコートの襟を正して悠子を真っ直ぐに見た。
「こういう奴ですが、どうかよろしくお願いします。こいつに悪気はないんです、ただ少し教養が足りなくて……」
「は、はい」
「あーもう、うっるせーなあ。いいからさっさと帰れって。悠子も困ってんだろ」
このままだといつまで経っても話が終わりそうもない。俺は二人の間に割って入ると、ドアの鍵を開けた。
「いいか、くれぐれも失礼のないようにするんだぞ! 悠子様、こいつのせいで何か困ったことがありましたらすぐにご連絡ください。飛んできますから」
「はい。あの、ありがとうございました。お気を付けて」
ちらりと悠子を見ると、目が合った。なんだよ、ありがとうって。神様、何か礼を言われるようなことしてたっけ?
まさか、俺が寝てる間にまた何か妙なこと吹き込んだんじゃないだろうな。問いただそうとするより先に、ドアが開いて神様が外へ出た。
「また様子を見に来る。それまでに少しは素行を改めておけ」
俺の反論を聞かないつもりなのか、そのまま外からドアがバタンと閉められる。急に部屋の中がしんと静かになった。
「聞いてたんでしょ、さっきの話」
こたつに戻ろうとした時、不意に悠子が呟いた。
「え……」
びっくりして振り向くと、悠子はこっちに背中を向けたままドアに鍵をかけている。
「狐が狸寝入りとか、シャレにもなってないからね」
「あ、ああ。なんだ、バレてたんだ?」
乾いた笑いで誤魔化したつもりだったけど、悠子は相変わらず俺を見ようとしない。だから今どんな表情をしているのか、俺には見えなかった。
「別に私は、あんたに同情なんかしてないよ」
それは、悠子なりの気遣いのつもりだったんだろう。悠子だって別に俺のことなんて興味もなければ知りたくもないだろうに、あんな話を聞かされたばっかりに俺に気を遣う羽目になってしまったのか。そう思うと、自分で話したわけではないとは言え、悠子のことが気の毒に思えてきた。
「ん、分かってるよ。悠子はあっさりしてるからな」
「……バカ」
くるりとこっちを向いた悠子は、心なしか少しだけ怒ったような目をしている。何故か何も言えなくて突っ立っていると、悠子は俺の横をするりと早足で通り抜け、部屋に戻ってしまった。
黙っていればいいものを、わざわざ俺に言わなくていいのに。何も聞かなかったことにだってできたはずなのに、どうしてバカ正直に言うんだよ。お互い干渉しないで適度な距離感で、そう約束したのに。
『貴女がこいつの面倒をみているからと言って、こいつの過去にまで責任を感じる必要はないのですよ』
神様だってああ言ってたし、俺もそのとおりだと思う。
一緒に住んでる、ただそれだけ。俺と悠子は恋人でも、友達でも、家族でもない。相手のことを隅から隅まで知る必要もないし、自分のことを一から十まで話す必要もない。
それに、中途半端に昔の話をして、つらかったねとか、かわいそうにとか、そんなふうに憐れまれるくらいなら死んだ方がマシだ。それなら最初から何も話さないでいた方がお互いのためだって、そう思ってたのに。悠子だってそんなこと、分かってると思ってたのに。
本当のことを知ったら、悠子は俺を軽蔑するだろうか。
あいつを火の中に置き去りにして逃げてきただけではなく、俺のせいではないと自分に言い聞かせながら百五十年もあの場所に閉じこもっていた俺を、もし打ち明けたら悠子はどんな顔をするんだろう。
考えたくもない。
だから言えるはずがないんだ。本当の自分のことなんて。
こんな俺を軽蔑しない奴なんて、こんな俺の隣にいてくれる奴なんて、いるはずがないのだから。
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