第2章 きみのこと

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2-5. きみのこと  こたつで寝直そうと思ったものの、変な時間に起こされたせいか眠気がどこかに行ってしまったようだ。キッチンで皿洗いをしている悠子を尻目にこたつでぼんやりしていても一向に眠くならない、それなのに頭も身体も妙に気だるくて動くのが億劫だ。アルコールのせいか、それともこたつで温まり過ぎたせいか。少し夜風に当たってきた方がいいかもしれない。  重たい身体を引きずるような気持ちでこたつを出ると、窓に歩み寄って音を立てないようそっと開ける。冷たい夜の空気が火照った頬を優しく刺した。 「さみ……」  でも、意外と心地いい。やっぱり温まり過ぎてたみたいだ。  ベランダに出て静かに窓を閉める。手すりに肘を預けて、物音ひとつしない夜の住宅街をぼんやりと眺めた。あたりの家やマンションに明かりの漏れている部屋はなく、ただ街灯の無機質な光だけが道路を冷たく照らしている。  そう言えばもう日付変わってたっけ。そろそろ俺も帰らないと。 「何やってんの? こんな寒い中」  背後から声がして、ふと振り向く。いつの間にそこにいたのか、半分だけ開いた窓から悠子がこっちを見ていた。 「酔い覚ましてんの」 「あんた、言うほど飲んでないでしょ」 「……うるせえな」  ふいと顔を背け、またベランダの外に目をやる。そのまま部屋に引っ込むと思ったのに、悠子はこっちに出てきて俺の隣に立った。ちらりと視線だけをそっちに向けると、カーテンの隙間から漏れる部屋の明かりが悠子の髪をぼんやりと照らしている。他にはまるで生き物の気配が感じられないほどしんとした夜の闇の中、その髪の色だけがやけに鮮やかに見えた。 「満月だね、今日」 「あ、ホントだ」  言われて初めて気が付く。悠子から視線を外して夜空を見上げると、どこも欠けていないまん丸の月が白く冴え冴えと輝いている。冬の夜の澄んだ空気の中、その光は怖いほど冷たくて、そして綺麗だった。 「あんたの髪ってさ、あの月の色と同じだよね」 「え?」  声といっしょに漏れた息は熱く、冷えた空気の中で白く靄のように漂って消えていく。一瞬だけ霞んだような視界の中、月を見上げる悠子の横顔を見つけて少しだけほっとする。 「ほとんど白に近い、綺麗な金色。どっかで見た色だなってずっと思ってたんだけど、今やっと分かった」 「ふーん……」  不意に悠子がこっちを向いて、目が合ってしまう。咄嗟に逸らそうとしたけどその目が今まで見たことないほど優しくて、俺はただアホみたいに悠子の目をぼんやりと見ていることしかできなかった。 「その色がいちばん似合ってるよ、やっぱり」 「……あ、そ」  そんなこと自分がいちばんよく知ってるのに、他人に面と向かって言われると何だか妙に気恥ずかしい。そう言えば人間にこの髪の色を見られたのは初めてだったな。自分の本当の色を誰かに見せて、それがいいと肯定してもらったのも多分これが初めてだった。神様は何かと言うとお前の髪は目立つから黒くしろとうるさかったし。  考えてみれば変な話だよな、俺は生まれつきこの色なのに、どうしてわざわざ違う色に変えないといけないんだ。そんな当たり前のこと、悠子に出会うまで疑問に思ったことすらなかった。自分を自分ではない色に変えることを嫌だとは思っても、それは仕方のないことだと諦めて、それ以上は何も考えてなかったような気がする。 「なあ、悠子」 「ん?」 「お前さ、まだ決まんないの? 俺の名前」  さっきの神様との話を聞いてたことはとっくにバレてるし、もういいか。俺も今までずっと聞きたかったことだし。 「え? ああ、うーん……考えてはいるんだけど」 「ホントかよ? なんかもうどうでもいいと思ってない?」 「違うって。そうじゃなくて……」  悠子は何か言おうとしてたけど、その先はすぐには出てこなかった。やっぱり、どうでもいいと思ってたのかな。 「……やっぱりさ、そんな簡単に名前なんてつけられないよ」  ようやく出てきた悠子の言葉に、思わず首を傾げてしまう。 「ええ? 今更?」 「だってそうでしょ? あんた、ペットじゃないんだよ?」 「悠子は考えすぎなんだよ。もっと軽く考えていいんだって」 「軽くなんかない、そんな簡単なことじゃないよ。あんたは自分のこと、私の所有物みたいなもんだって言ってたけど、私はそんはふうには思えないから。私のものなんかじゃない、あんたはあんただよ」 「そんなの、俺だってちゃんと分かってるよ」  思いのほか真剣な回答をされてしまい、正直面食らっていたけど、俺は努めていつもどおりの顔で返す。 「それでも俺は、悠子に名前つけてほしかったんだけどな」 「……」  少し卑怯だったかもしれない。でもこれが、今の俺の本心だ。  悠子に名前をもらわないと、俺は悠子との関係に忠実でいることを示すことができない。悠子のものになれない。俺みたいな、人でもなければ神使としての資質もないに等しいようなどっちつかずな存在は、誰かに所有されないと現世で生きていくことができない。神様が言っていたとおり、悠子から名前をもらうことは俺のために他ならないのだ。 「自分が誰かに所有される、誰かのものになるって、必ずしも不幸なことでもないと思ってるよ。俺はね」 「……私には分かんない」 「自分がそばにいたいと思える奴なら、そいつのものになるのは幸せなことだろ。俺は誰かに所有されないと生きていけないけど、誰に所有されるかは自分で選んでる。至って簡単なことだよ」  肘に片側の頬を乗せて、わざと悠子の顔を覗き込むようにして言ってみせると、悠子は居心地悪そうに俺から顔を逸らした。 「あのさ、ここまで言ってもまだ分かんない?」 「何が」 「さっきから俺、難しいことはひとっつも言ってないつもりなんだけど」 「私には、さっきからあんたが何言ってるか全然分かんないよ」  嘘つけ。だったらどうしてこっち見ないんだよ?  悠子が本当は俺の言ってることを分かってることも、月を見てるふりをしながら必死に俺の視線から逃げようとしていることも、俺には手に取るように分かった。胸の奥がちりちりと焼けつくような、今まで感じたことのない不快な気分。ゆっくりと顔を起こして、ほんの少しだけ悠子との距離を詰めてみる。悠子はやっとこっちを向いたけど、何も言わなかった。もう少しだけ近づいてみると、肩と肩が触れ合う。わずかにビクッと震えた悠子の肩は想像していたよりもずっと細くて小さくて、ずっと頼りなく感じた。  こういう時はどうすればいいんだっけ。今まで俺の面倒をみてくれた人間の女たちにならどうすべきか分かるけど、悠子に対してだけはどうすればいいのか分からない。人間の女はどんなことをすればどんな反応を返してくるのか、今までそんなことで迷ったことなんてなかったのに、今の俺は悠子に何をすればいいのかさっぱり分からなかった。 「……」  あまりに近すぎる距離で目が合う。部屋から漏れてくる明かりが悠子の瞳の端で揺れていて、その中央にいるのは間抜け面でぽかんとしている俺の顔。  どう考えてもこれが正解でないことは分かってたけど、他にどうするべきか思いつかない。目を閉じてそこにいる自分の顔を見ないようにしながら、俺はそっと悠子の唇に唇で触れた。  触れるだけ。  一瞬だけ触れてすぐに離れたはずなのに、後になってからやけに長い間そうしていたような、妙な錯覚を覚える。  悠子の唇の感触はまるで覚えていない。本当に触れたのかどうかすら疑うほど、それはあやふやで頼りない記憶だった。つい今しがた触れたのに。  悠子はやっぱり驚いたように目を丸くして俺を見ていた。自分に何が起きたのか、分かってないみたいだ。何だかとてつもなく悪いことをしたような気分になってしまい、俺は悠子から離れた。 「ひねくれ者」  俺の言葉に、悠子は下を向いて呟く。 「……あんたほどじゃない」 「俺がひねくれ者? こんなに分かりやすい奴、滅多にいないと思うけど」  わざとおどけたように笑ってみせると、悠子は顔を上げて俺を正面から睨みつけた。  あ、怒ってんのか。 「あんたは勘違いしてるだけだよ。初めて人間に自分のこと話したから、私が他の人間と違うとか、特別だとか、そう思い込んでるだけで」  どうやら、そういうわけではないらしい。少しだけほっとして目を伏せる。 「悠子は特別だよ」 「そういうの、私はいいって言ったでしょ」 「なんで分かってくんないの? どうすれば分かってくれんの?」 「分かってないのはあんたの方だって。どうして分かんないの?」  返事に詰まると、悠子は身体ごとこっちを向いた。 「あんたは誰でもいいのよ。あの時神社に入ってきたのがたまたま私だったから、ただそれだけのことなの」 「そんなの、初めて会う時は誰だってそうだろ。出会った瞬間あなたしかいないとか言われたら怖いし」 「だから、そうじゃなくて……」 「最初は確かにそうだったよ。別に悠子じゃなくても良かったんだと思う。でも今は違うだろ? それとも、そう思ってるのは俺だけなの?」  どうして俺、こんなにイライラしてるんだろう。  って言うか俺、さっきから何言ってるんだろう。  悠子の言うこと全てに反論したくて仕方がない。悠子の言葉に逆らえれば何だって良くて、さっきから思ってもないようなことばっかり口走ってるような気がする。こんなことが言いたいんじゃなくて、ただひとこと『違う』って言えばそれで済む話だった。だけど、どうしてだろう。それだけじゃなくて。 「もしあの時、神社に入ってきたのが悠子じゃない別の人だったらとか、そういうことって今になって考えてもどうしようもないだろ。だってもう、俺は悠子と会ったんだから。今の俺には悠子しかいないんだから」 「え……」  悠子の戸惑った表情を見て、俺は自分が言葉の選択を誤ったことに気付いた。 「あ、飼い主がって意味でな」  取ってつけたように訂正したけど、俺と悠子の間には変な空気が流れている。アルコールのせいか、さっきから頭がぼんやりとしている。頬が熱い。何となく悠子の目をまともに見られなくて、わざと視線をベランダの外に向けた。  何なんだよ、これ。  こんなこと言うつもりじゃなかったのに、何言ってんだろう。  似たようなことは今まで数えきれないほど口にしてきたけど、それはいつも予め用意されたセリフみたいで、俺自身の言葉ではないと思ってた。 『お前は特別だよ』 『俺にはお前しかいないよ』  そんなこと思ってもいないのに、自分でも怖いほどすらすらと淀みなく言うことができた。俺がそのセリフを口にすると人間たちはいつも喜んでいたから、意味は分からないけどこれが正しい言葉なんだって思ってた。  だけど、今は分かる。これは、そんな簡単に口にしていい言葉じゃなかったんだって。  そして、さっき悠子に言ったのはセリフじゃないってことも。もしそうだったとしたら、訂正なんてする必要もなかったはずだ。 「あのさ、悠子」  まだ悠子の顔を見られない。街灯の冷たい光を見つめながら、なるべく淡々と言葉を繋げた。 「俺はお前のこと何も知らないけど、知らないままこうして一緒に暮らしていこうとは思ってないよ」 「……なに、それ」 「最初はそれでもいいと思ってた。だけど、今は……何て言うか、その」  ああ、やっぱりダメだ。いつもみたいに言葉が上手く繋がってくれない。やっぱり今の俺、相当酔ってるんだろうな。でなきゃあんなこと口走ったりしないし、きっと今もただ単に呂律が回らないだけだ。  あ、そっか。どうせ酔ってるんなら、何言ってもいいよな。明日になって問いつめられても、覚えてないって言えばいいんだし。 「お前が話したくないなら話さなくていいけど、俺はもっと知りたいって思ってる。お前のこと」  正直、これが正しい言い方だったかは分からない。これで俺の言いたいことが悠子に伝わるかどうかも分からない。もっと他の言い方があったのかもしれないけど、今の俺の頭では回りくどい言い回しが思いつかなかった。  夜風がさっきよりも冷たく感じる。火照った頬に気持ち良くて、思わず目を閉じた。 「一緒に住んでるからって、相手のこと何から何まで知ってなくてもいいと思う」  返ってきた悠子の声は、ひどく落ち着いていた。そっと目を開けて悠子を見ると、悠子は俺を見ていなかった。月でもなく、街灯でもなく、どこか遠くをぼんやりと見ている。 「それに、どうせ……あんたはずっとここにいるわけじゃないんでしょ」  ああ、まただ。こういう時、どんな顔すればいいんだろう。どんな顔をすべきなんだろう。 「……そうだな」  とりあえず笑っておこう。それが正解じゃなくても、少なくともこの胸のもやもやしたものは悟られずに済むだろうし。 「悪い、変なこと言って。全部忘れて」  悠子はこっちを見た。今の俺、ちゃんと笑えてんのかな。やっぱり狐面持ってくれば良かったかもしれない。悠子に顔を見られてなければ、もっと上手く話せたような気がする。手すりから手を離して、悠子の視界から逃げるように開けっ放しの窓へ歩み寄った。 「俺、もう帰るわ。おやすみ」 「……おやすみ」  アパートから神社のあった場所へはそんなに離れていない。  前に世話になっていた女に買ってもらった上着で身を包み、神社への道を歩いていると、寒さで次第に頭が冴えてくる。 (何言ってんだろうな……)  今になってようやく恥ずかしさが込み上げてきた。でも、それだけじゃない。さっきからずっと胸の奥で渦巻いている、このもやもやした変な気持ち。正体が分からないのに無視できないほど大きなそれは、時間が経っても薄まるどころかどんどん膨れ上がってきて、不快で仕方ない。  何なんだろう、これ。今まで感じたことのない、惨めな気持ち。いや、惨めってのとはちょっと違うか。でも、そう表現するのがいちばん近い気がする。  俺が悠子のことを知りたいと言ったのに、悠子はそれを拒んだ。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにイライラしてるんだろう。ああ、腹が立つ。何なんだ、あいつ。今まで人間の女に拒まれたことなんてなかった、それどころかいつも向こうから寄ってきてたのに、あいつだけはいつまで経っても俺になびかない。きっとそれもこのイライラの原因のひとつなんだろう。 「……んだよ」  独り言は白い蒸気になって霧散した。今の自分が明らかに冷静さを欠いているのを自覚して、ため息が漏れる。自分の思いどおりにならないからイラつくって、これじゃ人間と変わらないな。きっと神様も呆れるだろう。  俺とあいつを結ぶ紐は、あまりにも細くて、もろくて、頼りない。少し軽く引っ張っただけで簡単に切れてしまいそうなほど。だから、今までなるべく触らないようにしてきた。切れないように、壊さないように。  あいつと一緒にいる時間が増えれば、その紐はもっと太く、強くなるんだろうか。そんな簡単なことではないような気もするけど、俺とあいつに今いちばん足りないのはどう考えても『時間』なのだ。それは事実だ。  俺とあいつで時間をかけて話して、時間をかけていろんなものを見て、時間をかけていろんなことをすれば、いつかはどんなに強く引っ張っても決して切れない、そんな関係に俺たちはなれるんだろうか。特別なことは何もしなくても、ただ一緒にいる時間を重ねていけば。  俺と比べると人間たちの命はあまりに短くて、そんな関係を人間との間に築くことなんて無理だと思っていた。だから今まで、誰とも真っ直ぐに向き合ってこなかった。だってそんなに長い間一緒にはいられないから。いつかは何も言わず、黙って離れなければならないのは分かっていたから。  そんな俺の生き方を、あいつは憐れんだりしなかった。ただ単に俺に興味がないだけなのかもしれないけど、俺にはそんなあいつの隣がひどく心地よくて、きっと生まれて初めて思ったんだ。ずっとここにいられたらって。  過去を知られている分、余計な詮索をしてこないあいつが楽だから? 下手に同情しないあいつの隣にいると自尊心を傷つけられることがないから?  そうかもしれないけど、でも、それだけじゃない。  あいつは俺に何も聞かないし、何も見返りを求めない。今まで一緒に暮らしてきた人間たちはみんな、俺がどこから来たのか知りたがっていたし(最初のうちだけだけど)、面倒をみることに対する対価を求めてきたのに、あいつは俺に何も要求してこない。俺に何も期待していないし、何も知ろうとしていない。  人間と一緒にいて、こんなに気を張らずに生きていられるのは初めてだった。  俺に何も聞こうとしない、俺に何も求めない。そんなあいつに、俺の方から何かを聞いたり、何かを求めることはできない。  あいつのことをもっと知りたい、だなんて、そもそも望んではいけないことだったのに、どうして俺はあんなことを口走っていたんだろう。  少しくらいなら話してくれるかも、と期待していたのに、あいつはどんなに些細なことも俺に話す気がないのだろう。考えてみれば当たり前だ、こんな得体の知れない男に自分の素性を何から何まで話すバカはそういないだろう。分かってるけど、ほんの少しでも期待している自分がいたことは否定できない。  どうして悠子は俺を拾ってくれたんだろう。自分とちょっと境遇が似ててほっとけないから、本当にそれだけなんだろうか。悠子が本当は何を考えて俺と一緒にいるのか、考えてみると俺は何も知らない。  あたりはしんと静まり返っていて、人の気配が感じられない。はあっと吐き出した白い息がひんやりとした夜の空気に立ち昇って消えていくのをぼんやりと見上げた時、さっきベランダで悠子と見ていた月がそこにあった。凛とした白い光を放つ月は相変わらず怖いほど綺麗で、じっと見ていると自分が今ここにいることを忘れてしまいそうになる。 (月は、変わらないのにな)  形あるものは、いつか必ず壊れる。命あるものは、いつか必ず死ぬ。  いつまでも終わることなく続くものなんて、この世にはひとつとしてないはずなのに。  あの月だけはいつ見上げても同じように空にあって、もしかしたらあの月はいつまでも消えることがないのかもしれない、なんて思ってしまう。もしそうなら、いつまでも終わることなく続くものがこの世にあるのだとしたら。 「……」  何考えてんだか。そんなもの、あるはずがない。終わらないものなんて、この世にはないんだ。  いつか必ず終わりが来るんだ、俺たちの関係にも。  俺はそれを決して忘れてはいけない。  どんなに居心地が良くても、ずっと悠子の隣にいることはできないのだと。
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