第1章 狐の恩返し

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1-2. 憐憫  あの日から人気のない夜道を歩くのが少し怖くなり、会社からの帰りはなるべく人通りの多い大通りを歩くようにしている。少し遠回りになるけど、またあんな目に遭うよりはマシだ。こういうのは自意識過剰なくらいがちょうどいいって言うし、しばらくは用心するに越したことはないだろう。  会社でも電車でも一日中人に囲まれて過ごした後は心身ともに疲弊していて、できれば帰り道くらいは人のいない道を歩きたいんだけど、身の安全には代えられない。だけど、近所にああいう変な人がいるってことがそもそも問題かもしれない。今度また見かけたら警察に連絡だけでもした方がいいかな。 (なんか疲れたな……今日はお弁当で済ませるか)  贅沢できない生活だからなるべく自炊するようにしてるけど、少しでもしんどい時は無理をしないのが私のポリシーだ。改札を出てそのまま駅ビルの中のお惣菜売り場へ直行する。揚げ物の何とも魅惑的な匂いに惹かれそうになるのをぐっと堪えて野菜多めのお弁当を買って帰ろうとした時、エスカレーターのすぐ横にある小さなたい焼き屋の前で立ち止まってしまった。数年前からここに出店している、私が世界一美味しいと思っているたい焼き屋だ。  焼きたての甘い香りが、疲れた頭から自制心を奪っていく。たまにはいいよね、疲れた時は甘いものがいいらしいし。必須の栄養素を摂取するだけだ、うん。 「すみません、あんことカスタードひとつずつください」 「はーい」  何とも言えない幸福な匂いだ。匂いだけじゃない、あのこんがりとしたきつね色……。 (……きつね)  ああ、また思い出してしまった。  目の前の幸福な色とは全く違う、まるで生気の感じられないあの真っ白な狐面が脳裏に浮かんでくる。  やめよう。考えてるとまた鉢合わせしそうな気がする。  お弁当とたい焼きの入った袋を提げて、今夜も人通りの多い道を歩いてアパートへと向かう。途中、居酒屋がいくつか並んでいるところがあって、仕方ないけどこの道はできればあまり通りたくない。ゴミ置き場が通りに面したところにあり見た目はもちろん臭いもあまり好ましいものではなく、金曜日の夜は酔っ払いが固まって道を塞いでいたりするからだ。今日はまだ水曜日だからそれほどひどい有様ではないけど、この場の空気がどうにも苦手なのだ。  さっさと通り過ぎようとした時、ゴミ置き場の隅に無造作に積まれている段ボールの塊が崩れ、上からひとつがこっちに転がり落ちてきた。 「わっ」  咄嗟に避け、空き箱はすぐ横にぺしゃんと落ちた。危ないな、空の段ボールだったから良かったけど、中に何か入ってたらどうなってたやら。だからここ通るの嫌なんだよね、明日からまた違う道で帰ろうかな。 「いって……」  崩れた山の中から、微かに人の声が聞こえた。  見ると、ゴミ袋と段ボールの隙間から人の足が伸びている。 (酔っ払いかな……まったく)  いつもなら無視するけど、あまりにも派手に段ボールが崩れたせいでその人はほとんど生き埋めみたいな状態になっているらしく、さすがに見て見ぬ振りをするのは憚られた。なるべく汚れてなさそうな段ボールを選んでいくつか退けてあげると、中にいたのは思ったよりも若い男の人だった。よれよれのグレーのパーカーに擦り切れたジーパン、そして履き古したサンダル。暗い栗色の髪は柔らかそうだけど、一本一本が細くていかにも傷みやすそうだった。 「あの、大丈夫ですか?」  正直、私が最も苦手なタイプの見た目をした人だけど、一応そう聞いてみる。両脇のゴミ袋に腕を置いて座り込んだまま、その人はゆっくりと私を見上げた。  さっきの雪崩れで乱れた髪の隙間からのぞく三白眼は少しつり目で、それを見た瞬間私は早くも声をかけたことを後悔した。人を服装や髪型ならともかく生まれつきの顔で判断するなんてとは思うけど、こういうキツめの顔立ちをした男の人って性格もキツそうに見えるからかどうしてもいいイメージが持てない。実際、顔のとおり性格もキツい人に今まで何度も遭遇したことがあるし。 「……腹減った」 「え?」  力のない声で呟くと、その人は下を向いてまつ毛をふせた。どうやら酔っているわけではないみたいだけど、何も食べてないのかな。  ふと、手にしている袋に目をやる。どうしようかな、さっきは勢いでたい焼き二つ買っちゃったけど、これ結構大きいし、一人では食べ切れないかもしれない。ひとつだけあげようか。 「あの……これ」  袋の中からたい焼きの紙包みをひとつ取り出して、そっと差し出した。『あんこ』と書かれた包みを見て、その人は瞬きを二、三度繰り返してからまた私を見上げた。 「……なに」  つり目のせいではなく、明らかに私を非難するような目つきだった。 「二つあるから、どうぞ」 「いや、そうじゃなくてさ……」  何か言おうとして、やめる。わざとらしく大きなため息をついて、その人は私を軽蔑するような目で見上げて口元だけで笑った。 「あんた、バカだろ?」 「……え」 「普通さ、ゴミ捨てに落ちてるこんな汚ねえ奴に食いもんなんかやるか? ドブに捨ててるようなもんだよ、金」  ここまであからさまに悪意を投げつけられたことは、少なくとも大人になってからは一度もなかった。どう答えていいのか分からず黙っていると、その人は私の手からたい焼きの紙包みをすっと取り上げて、自分の顔の前にかざすようにして眺めた。 「それとも何? 俺のこと可哀想なゴミだと思って憐れんでくれてんの? もしそうなら、あんまりこういうことしない方がいいよ。逆切れするバカの方が多いから」 「……」 「それにおねーさん、割とキレイだしね。勘違いして変な気起こす奴もいるだろうし」  明らかに私の神経を逆撫でしようとしているその声色は、わざとそうしているのが簡単に分かるほどひどく耳障りだった。私がしたことは偽善だったのかもしれないけど、それでも自分の差し出した厚意を他人に踏みにじられるのはひどく不快で、胸の奥がざわざわと粟立つような感じがして気分が悪い。  いつもならそのまま放置して帰り、何も見なかったことにしていただろう。だけど、今日の私はどうしてもこのまま引き下がることができなかった。 「いらないなら返して。私が食べるから」  きっとその人も、私がそんなことを言うとは思っていなかったんだろう。その目には微かに動揺の色が走っているのを私は見逃さなかった。 「さっきから何言ってんだかよく分からないけど、そのたい焼きは私が世界でいちばん美味しいと思ってるたい焼きなの。嫌々食べるような人に食べてほしくない」  言い終わらないうちに、その人の手からたい焼きを取り上げようと手を伸ばすと、触れる寸前で包みが引っ込められた。 「ダメ。俺が食う」 「嫌なら食べなくていいよ」 「嫌なんて一言も言ってねーだろ」  言いながらその人は紙包みを開けて、中から顔をのぞかせたたい焼きに頭からかぶりついた。このたい焼きは頭から尻尾まで中身がみっしり詰まっている。噛み切ったたい焼きを頬張ると、さっきまで死んだ魚みたいに生気のなかったその目がわずかに見開かれた。しばらくその人は無言でもぐもぐと咀嚼していたけど、やがてごくんと飲み下すとほうとため息をつくのが聞こえる。 「……おねーさん、明日も仕事?」  こっちを見ないまま、唐突に聞かれる。 「そうだけど」 「じゃ、明日の今ぐらいの時間に、またここ来て。お返しするから」 「いいよ、そんなの」 「来たくなきゃ来なくてもいい。俺は待ってるから」  するとその人は残りのたい焼きを口に咥えて、ゴミ袋の山の中からゆっくりと立ち上がった。途中でいくつかまたゴミが雪崩れを起こして落ちてきたけど、器用にそれを避けて真っ直ぐ立ったその人の顔は私より頭二つ分くらい上にある。 「じゃあね」  たい焼きを咥えたまま、つり目をにっと細めて笑ったその表情は言いようのないほどの妖しさを纏って見えて、思わず息を飲んでしまう。何か言い返す前にその人はふらりと歩き出し、居酒屋の裏の薄暗い路地に消えて見えなくなった。  どうも今月は変な人との遭遇率が高い。人通りの多い道を選んで歩いててもまた変なのに絡まれるとは。いや、今日のは私の方から声かけたんだっけか。  今後はああいうのがいても、むやみやたらに話しかけるのはやめよう。 (……帰ろ)  手に提げていた袋を持ち直した時、まだひとつ残っているたい焼きが少しだけ冷めていることに気付いた。
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