第1章 狐の恩返し

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1-3. 狐面 『じゃ、明日の今ぐらいの時間に、またここ来て。お返しするから』  別に自分のしたことに対する見返りが欲しいわけではないけど、お礼をすると言っている相手の申し出を無下に断る理由もない。それに、何となくあの人は放っておいたらいけない人のような気がする。どうしてそう思うのかと聞かれると答えられないけど、あのキツそうな顔立ちの割にふわふわとつかみどころのない雰囲気が何故だか気にかかって仕方なかったのだ。  次の日の帰り道、私はまたあの居酒屋のゴミ置き場に立ち寄ってみた。当然と言うか思ったとおりと言うか、そこには誰もいない。 (ま、そりゃそうか……)  あの後ゴミは一度回収されたのか、昨日の夜よりはいくらかゴミの量は減っている。あの人が昨日座っていたあたりにはもう新しいゴミ袋が積まれていて、それをぼんやりと見ているとため息が出た。  居酒屋の裏の出入口から出てきた従業員の人が私を怪訝そうに見たものの話しかけてくることはなく、そのまま手にしていた空の段ボールをゴミの山にぽんと無造作に置いてまた店の中へ戻っていった。 (……帰るか)  胸の奥に何故かやるせないものを感じながらも、私は踵を返した。  その時、視界を何かが一瞬だけ掠めていき、続いてバサッと音を立ててゴミ袋の上にその何かが落ちてきた。 「えっ……」  ゴミを漁りにきたカラスかと思いビクッとして目を瞑って身構えたけど、それっきり動く気配がない。おそるおそる目を開けゴミ袋の上に落ちているものを見た時、私はその場に凍りついた。  狐。  あの時神社にいた人が被っていた、狐のお面が落ちていたのだ。 (……これ)  上を見上げてもそこに誰かがいるはずもなく、ただすぐそばに立っている街路樹が夜風に葉をさわさわと揺らしているだけだった。その葉と葉の折り重なっているところに誰かがいないか目を凝らしてみても、人どころか生き物の気配すら感じない。  腰をかがめてそっとお面を拾い上げてみる。木製のそれは軽そうな見た目に反して意外と重量があり、思わずもう片方の手を添えてしまう。  ……どういうことなんだろう?  昨日のあの人が今日ここに来いと言って、来たらこのお面が落ちてきた。何か意味があるのは確かなんだろうけど、その意味を理解するにはあまりに手がかりが少なすぎる。 『来たくなきゃ来なくてもいい。俺は待ってるから』  そう言ったあの人の目は、私をからかったり騙そうとしているようには見えなかった気がする。少なくとも、あの時は。 「……」  夜風が髪を揺らす。頭上から一枚の木の葉がひらりと舞い落ちてきて、狐面の耳の部分にほんの少しだけ触れてどこかへひらひらと飛んでいった。  どういうことなのかは依然として全く分からないけど、とにかくこれは持ち主に返そう。このお面の持ち主のところに行けば昨日のあの人との関連も分かるだろうし、もし何の関係もなかったとしても、このお面の持ち主のことは何か分かるかもしれない。  得体の知れない靄がかかったような不安を覚え、胸の奥がざわざわする。狐面をそっとバッグにしまうと、私はそこを離れた。  *  その足でその日のうちに行こうと思った。けど、いざあの神社へ向かおうとするとあの時の狐面の人と鉢合わせした自分が指一本動かせなかったことを思い出して足が止まった。いくらあの狐面をこうして手にしているとは言え、これの持ち主が得体の知れない不審者であることに変わりはないのだ。  それを思うと、こんな夜更けに一人であの神社へ行くのはいくらなんでも軽率すぎる気がして、私はその日は一旦保留として部屋に帰った。  せめて、日没前に行こう。周りに誰かがいるような時間帯なら、向こうだって変な真似はできないはずだ。まだ日が出ているうちに行ける日となると平日の帰りは無理で、週末まで待つしかない。今週末も例によって実家に帰るつもりだし、そこから帰る時に行ってみよう。 「ただいまー」 「お帰り。手洗っておいで」  そして迎えた土曜日。  玄関のドアを閉めると、子供の頃からずっと変わらないお母さんの声がキッチンから聞こえてくる。平日は一人暮らししててもこうして毎週末帰ってきてるし、まだ実家で親の脛かじってるようなものだから仕方ないけど、昔から変わらないこのやりとりに内心ほっとしている自分もいる。大人になった今だから思う、きっと私はお母さんにとっては死ぬまで子供のままなんだろう。  荷物や上着を今もまだ昔のままの自分の部屋に置くと、言われたとおり洗面所で手を洗う。洗面所を出てキッチンに立つお母さんの後ろを通り過ぎ、慣れた手つきでポットからお湯を急須に注ぎながら、ふとあの神社のことを思い出した。 「そう言えばさ、この間アパートの近くで結構古い神社見つけたんだよ」  お母さんはじゃがいもの皮をむく手を止めず、何かを思い出すように少し間を置いてからぽつりと呟いた。 「神社? あのへんにあったかね……」 「何となく遠回りして帰ったら見つけたの。ほら、コンビニがある交差点で真っ直ぐ行かないで、右に曲がった先にある」 「ええ? あのへんは確か家と駐車場があるだけで、神社なんかなかったと思うけどねえ」 「え……」  急須を置いて、お母さんの方を向く。 「最近になって建てられた家がいっぱい並んでるところでしょ?」 「そ、そう。途中で曲がったりしないで、そのまま真っ直ぐ行ったところにあるでしょ? 古い神社」  ようやくお母さんは手を止めて、私の言ったあたりの風景を頭の中で思い起こしているようだ。でもそう経たないうちに、お母さんの表情から記憶の中にあの神社がないことが分かってしまう。 「知らないねえ。そんなに古い神社ならお父さんの実家に行った時に一度くらいは見たことあるはずだけど、覚えてないな」 「……」  また包丁を持つ手を動かしながら、お母さんは小さな子供みたいにくすくすと笑った。 「狐に化かされたんじゃないの? 疲れてるのよ」 「きつね……」 「昔はあのへん、家なんかほとんどなくて畑ばっかりだったのよ。最近は行ってないからよく知らないけど、何年か前に駐車場ができてたと思うわよ」  お母さんの言うとおり、あれだけ古い神社なら一度は見たことがあるはずだ。だってあのあたりは、お父さんの実家があった場所のすぐ近くなのだから。  それなのに今までそんな神社は見た覚えがないと言うお母さんは、嘘をついているようには見えなかった。 (……どういうこと?)  確かに私はあの場所で、狐面を被ったあの人を見たのに。  お母さんの思い違いとか、ただ単に覚えてないだけとかってことも考えられるけど、それだけでは説明のつかないような何とも言いようのないもやもやした疑念が頭の中を埋め尽くしている。  そうだ、今になって思うとあの神社は何だか変だった。手水舎に水がなかったり、参道や屋根に雑草が伸び放題だったり、とても誰かが手入れをしているようには見えなかった。それどころか、生き物の気配が不自然なほど感じられなかったのだ。だからあの狐面の人が突然出てきた時、私はあんなに驚いたんだ。  どこが変でどうおかしいのか、と聞かれるとうまく答えられないけど、あの神社の雰囲気と言うか、あの神社を取り巻く空気と言うか、そういうもの全てが何となく異様な何かを纏っていたような気がする。霊感みたいなものは私にはかけらもないけど、それでもあの神社に満ちていた異様な空気だけははっきりと感じ取っていた。  行けば分かる。  どのみち行くつもりではあったけど、この頭の中のもやもやしたものの正体も、あの狐面の人のことも、あの神社へもう一度行けばきっと分かる、そんな気がする。  湯呑みに注いだお茶がゆらりと揺れて、湯気が立ち昇るのをぼんやりと見ていると、あのゴミ置き場にいた人の顔が浮かんで消えた。
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