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1-4. 記憶
いつものようにアパートへと戻る、日曜日の夕方。
日没前に行くつもりだったのに、西の空に見える夕日は今にも沈みそうだった。少しだけ早足であの神社への道を急ぐ。まだ何もはっきりしていないこの状況であの場所へ行って、何も起こらないとは言い切れない。得体の知れない人がいるかもしれない場所へ日が沈んでから丸腰で行くのはどう考えても軽率な行為だけど、怖いと思う気持ちよりもこの頭の中のもやもやを晴らしたい気持ちの方が勝っている。
それに、ほんの少しの好奇心。こんな気持ちは久しぶりだった。
いつもは真っ直ぐ進む交差点の先を直進せず、そのまま右に曲がって、更にその先を進む。新しいけどどれも似たような見た目をした家ばかりが建ち並ぶ道の向こうに、高い木立の群れが見えた。
あった。あそこだ。
鼓動がドクンと大きく響く。
やっぱりある、見間違いなんかじゃない。
小走りでそこに駆け寄ると、あの日見たのと全く同じ光景が広がっていた。鬱蒼と生い茂る木立がわずかな残照さえも遮り、その奥にひっそりとある古ぼけた社。
あの時と同じように鳥居の前で軽く一礼し、中へと足を踏み入れる。
相変わらず参道の石畳は隙間から雑草がぼうぼう生えていて、真っ直ぐ進むことができない。手水舎はやっぱり水一滴なく、柄杓がまるで転がっているみたいに置かれている。
あの日と同じ、全く生き物の気配がない。物音ひとつしないこの空間はひどく不気味で、時間が止まっているみたいだ。
「それ、返して」
いつからいたのだろう。
手水舎から社の方に向き直ると、社の横にあのゴミ置き場で座っていたつり目の男の人がいた。
今日はこの間と違う、上下とも黒い部屋着みたいな格好をしてる。その服を別の人が着ていたのを最近見たような気がする。
「……」
目を逸らさず、無言で一歩後ずさる。栗色の髪の隙間から、三白眼のつり目がこっちをじっと見ている。
「持ってんだろ? 返せよ」
「……これ、あんたのお面なの?」
「そうだよ」
バッグの底からそれを引っ張り出した。ゴミ置き場で拾った狐面。
「どういうこと?」
私の問いかけには答えず、その人はすたすたとこっちに歩いてきた。思わずまた後ずさりしたけど、その時にはもう私の目の前まで来ていて、逃げ場がないと分かった途端また足が動かなくなってしまう。
その人は私の手から狐面をひょいと取り上げると、私から離れて社の前にある賽銭箱の横で立ち止まった。手にした狐面を顔に当て、頭の後ろで紐を結ぶその時、私は目を疑った。
「あ……」
その人の栗色の髪が、みるみるうちに根元から金色に変わっていったのだ。
ほとんど白に近い、色素の薄いブロンド。
その時ようやく気付く。黒い長袖のTシャツに、下は黒いブカブカのジャージ。今この人が着ている服、前にこの神社で見たあの人と同じ格好だったんだ。髪の色が違うし狐面もしてなかったから気付かなかった。
「たい焼き美味かったよ。ごちそうさま」
狐面の向こうから聞こえる声は、ゴミ置き場にいたあの人の声だ。
「なんで……」
何から聞いたらいいのか分からず、続く言葉が出てこない。その人の細くて白い指が金色の髪をくるくると巻き取るようにいじっている。
「あの時は本当に死ぬかと思ってたから助かったよ。ちょっと前まで面倒みてくれてた子が『他にも女がいるだろ』って暴れ出したもんで逃げてきたところでね。無一文で二日くらい何も食ってなかったからさ」
髪の色と狐面のせいか、その人の纏う空気はあまりに異様で浮世離れしていているのに、さっきから妙に馴れ馴れしいこの喋り方のせいで違和感がひどい。それがなくても、私はさっきの髪の色が変わったことに対してただただ呆然とするばかりで、その場に突っ立っているのがやっとだった。
「おい、聞いてんの?」
私がなんの反応も返さないことに苛立っているのか、その人は腕組みをして首を傾げている。相変わらず顔が見えないから、どんな表情をしているのかは分からないけど。
「……あんた、何なの?」
何とか絞り出した声でそう聞いてみる。
「大体、この神社は何なの? このあたりには家と駐車場くらいしかなくて、神社なんかないって……」
「なんだ、知ってたのか」
すると、その人は腕組みを解いて片手を少しだけ上げた。その手は何も持っていないのに、何かを手のひらの上で転がすような奇妙な動きをした途端、突然周りの空気が渦巻くように強い風が起こった。びっくりして髪を手で押さえ、目をぎゅっと瞑る。ほんの一瞬だけの出来事だったはずなのに、次に目を開けた時思わず息を飲んだ。
「な……」
あたりの景色が一変していたのだ。
それまでの薄暗く光の差さない神社の境内ではなく、私は広々とした駐車場の真ん中に立っていた。木立は一本もなく、頭上にはオレンジ色の夕方の空が広がっている。
夕日に照らされた白い狐面がこっちを向いていた。
「これのこと?」
突然開けた視界にただ呆然としていると、その人はまた片手を上げて小さく振った。するとあたりに薄い靄のようなものが立ち込め、やがて少しずつゆっくりと風に乗って消えていく。次に視界が晴れた時には、私とその人はまたあの薄暗い神社にいた。
「見てのとおり、この神社は現世には存在しない。ここは、あんたが普段いる世界とは違うところだ。平たく言うと異次元、みたいなもんか?」
「異次元……」
「厳密に言うとちょっと違うけど、そう考えていいよ。ここだけ空間を歪めてあるから、普通は誰も入ってこられないはずなんだけど」
「……何言ってんの?」
頭が状況に追いつかない。
「あんた、何なの?」
さっきも聞いたことをもう一度口にすると、その人は狐面の奥でくつくつと笑った。
「よっぽど俺に興味があるんだな」
茶化すような口調が少し気に障ったけど、なんとか堪えてじっと次の言葉を待つ。まるで狐面そのものが私をせせら笑っているようで、それ以上は何かを質問する気にはなれなかったのだ。
「俺は、狐」
「キツネ?」
思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまう。
「昔、この神社で祀られてた神様の使い。って言ってもここは総本宮の分社で、俺は使いの中でも底辺の下っ端だけどな。前はほら、あそこに座ってた」
言いながらその細い指が私の後ろを指差した。振り向くと、鳥居の前に石造りの台座が両側に立っている。ここに来る時にもその前を通っていたはずなのに、今まで全く気に留めていなかった。
「見たことあるだろ、狛犬とかが鳥居の前に座ってるの」
そうだ、どうして今まで気に留めていなかったのか。台座の上に何も乗っていなかったからなんだ。言われてみれば変だとは思う、何も乗っていないただの台座だけが鳥居の前に並んでるなんて。
改めてまじまじとその人を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように眺めていると、その人は少し大げさな仕草で首を傾げてみせた。
「納得してないって感じだな。まあ、普通そう簡単に信じないか。あんたみたいないい大人がこんな話ホイホイ信じてたらその方がヤバいし」
「とりあえず、人間ではないってこと?」
「え、なに信じるの? あんた、よく変な男に引っかかるだろ」
「バカ言わないで、全部は信じてないわよ」
「全部は? じゃあ、一部は信じてんのか」
「嘘言ってるようには見えないから」
「……」
自分でもよく分からない。こんな胡散臭い不審者の言うことなんて信憑性のかけらもないのに、何故だかどうしてもこの人は嘘を言っているような気がしないのだ。狐面に隠れたその目や口元が私を嘲笑っているかもしれないのに、何故だかそうは思えない。そういうことをするような人には見えない。そう思う根拠や理由が自分でも分からないのが何とも気持ち悪いけど、強いてそれに名前をつけるとするなら直感みたいなものなんだろう。
「……まあ、いいや。全部信じろとは言わないけど、とにかく話聞いてくれる気はあるみたいだし」
妙な沈黙の後、その人はまた髪を指先でいじりながらぼそっと言った。
「今あんたが見てるこの神社は、俺の記憶を元に再現した映像みたいなもんだよ。でもちゃんと触れるし、匂いも温度も感じ取れる。これが俺の持ってる、唯一の能力」
言いながら、その人は自分のすぐ横の賽銭箱を指でコツコツと軽く叩いてみせる。
頭上で折り重なるように生い茂っている木立をふと見上げてみると、葉と葉が擦れ合う微かな音が風に乗って聞こえてくる。その葉っぱの色も、風の音も、五感で感じる何もかもが現実そのものだ。
「実際は、ないってこと?」
「そうだよ。ただの作りものだ」
「でも、あんたの記憶を元にって……この神社、昔はあったの?」
すぐには答えが返ってこなかった。私はただ疑問に思ったことをそのまま聞いただけだったから、その妙な間の意味を聞き返すつもりでその狐面をじっと見つめる。小さなため息が聞こえたような気がしたけど、気のせいだったのかもしれない。
「今から百五十年くらい前、このあたりで大火があったんだ」
「たいか?」
「でかい火事ってことだよ。ひどいもんだった、三日も火が消えなくて、人も動物もたくさん死んだ。ここにあった神社は全焼して、後には瓦礫しか残らなかった」
「え……」
その人は賽銭箱の縁を手でゆっくりと撫でながら話していた。壊れやすいものに触るように。
「神社を再建しようって話はあったよ。でもあの頃このあたりは本当にひどい田舎だったし、生き残った住民たちもその日その日を食っていくだけで精一杯で、とても新しい神社なんか作るような余裕はなかったんだ。結局、神社は焼け落ちたまま、時代の流れで住民たちの子孫もどんどんよそに出て行って、そのうちこの神社がここにあったこと自体が忘れ去られたってわけ。興味があるなら古い記録でも漁ってみるといい。まあ、何も残ってないと思うけど」
記憶を辿っても、お父さんやおじいちゃんからそんな話は聞いたこともない。おじいちゃんはずっとこの町に住んでいたわけではないってことはいつか聞いたような覚えはあるけど、いつどこから引っ越してきたのかまでは聞いていない。
私、何も知らないのかもしれない。お父さんのことも、おじいちゃんとおばあちゃんのことも。そして、この町のことも。
「百五十年前って、あんたいくつなの?」
「ええ……そこ? 普通さ、こういう時は俺の境遇に対して憐れみの目とか向けてくれるもんじゃない?」
「だってあんた、誰かに憐れんでもらうの嫌いなんでしょ」
「結構根に持つタイプだな、あんた」
その人は首を横に何度か振って肩をすくめた。
「年齢なんて気にするのは人間だけだ。もう俺は自分の年なんて分からないよ」
「ふーん、羨ましい限りだわ。どうせあれでしょ? 百年単位でその二十代の容姿のままとか、そういうこと言い出すんでしょ」
「俺は生まれた時からこうだし、死ぬまでこのままだよ」
聞くんじゃなかった。
「大体あんた狐じゃなかったの? なんで人間の格好なんかしてるのよ」
「本来は狐だけど、この姿の方が何かと都合がいいからな」
「なに、都合って」
狐は社の柱に背中を預けてもたれかかった。
「人間みたいに一日三食なんて食わないけど、俺たちもそれなりにメシ食わないと死ぬ。神社がまだあった頃は参拝客の賽銭があったから食うには困らなかったんだけど、今はないだろ。だから腹が減ったら現世に下りてきて、人間の女にいろいろ世話してやる代わりに金の工面してもらって、何とか食い繋いできたんだよ」
「いろいろって……」
「持ちつ持たれつってやつよ。ああでも、上手くやらないとこの前みたいなえらい目に遭うから、そのへんは気を付けないとダメだけどな。ほんと、人間の女はおっかねーよ」
「一体、何やったの?」
「俺は何もしてない。俺は去るもの追わず、来るもの拒まず、それだけだよ」
ため息が出た。あきれて怒る気にもなれない。
「……あんた、いつか刺されても知らないわよ」
「ご心配なく。もうこの生活やめるつもりだからさ」
「え?」
もたれかかっていた柱から身体を離すと、狐は急に神妙な声色になった。
「話しすぎたな。そろそろ、あんたにこの間の礼をしないと」
そう言えばそんなこと言ってたっけ、すっかり忘れてた。
「さっきも言ったとおり、俺は無一文で何もできない。持ってるのはこの能力くらいだ。でも、この力で叶えられる願い事ならどんなことでも叶えてやる」
「どんなことでも、って」
そんなはずはないのに、その狐面の目が笑ったように見えた。
「あんたにもあるだろ? 大事な記憶。もう一度五感で感じ取れるように再現してやるよ。ただし、三分間だけ」
大事な記憶。
その言葉を聞いた時、頭に浮かんだ場所はたったひとつだった。
「なんで三分間なのよ、この神社みたいにずっと再現し続けられないの?」
「これは俺自身の記憶だからだ。他人の記憶を正確に読み取って再現するのには限界がある」
そんなもんなのか。
改めてあたりを見渡してみる。いつの間にか日は沈んでいたようで、ただでさえ薄暗かった境内は夜のしんと冷えた空気に満ちていて、物の輪郭が夜の闇に溶け込んだようにぼんやりとして見える。暗さに目が慣れているからかろうじて見えるものの、普通なら目を凝らさないとすぐそこに立っている狐の姿も見えないかもしれない。
木も、社も、鳥居も、どう見てもそこにあるのに、これがみんな作りものだなんて今でも信じられない。そうだ、私はまだこの狐と名乗る不審者の話を完全に信じているわけではない。
でも、もし本当だとしたら?
この人の言うとおり、この狐には記憶を再現する能力が本当にあって、その力で私の記憶の中にしかない場所を再現することができるのだとしたら。
ただ頭の中で思い出すだけじゃなく、目で見て、耳で聞いて、匂いを嗅いで、手で触れることができるの?
もう一度。あの時みたいに。
狐は腕組みをして、私をじっと見ている。
「どうする? やるか?」
「私は……」
もしそんなことが実際にできるのだとしたら、その場面を思うだけでひどく高揚していく気持ちを抑えることはできそうもない。騙されていたとしても今はそんなことはどうでも良くて、この気持ちのまま狐の話に早く乗りたくて仕方がなく、もはやまともな判断力などそこにはかけらも残っていなかった。
そのあまりに抗い難く魅惑的な誘いを断ることなど、私には最初からできるはずもなかったのだ。
「もう一度、お父さんの実家に行きたい」
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