第1章 狐の恩返し

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1-5. 執着 「実家? あんたのじゃなくて、親父さんの?」  狐の聞き返す言葉に小さく頷く。 「十年以上前に取り壊して土地も売って、今は不動産屋が建ってる。だけど、大切な場所なの」 「取り壊す時は誰も住んでなかったのか」 「おじいちゃんとおばあちゃんが住んでたけど、二人が亡くなったから売ったの」 「あんたの親父は反対しなかったのか? 自分が生まれ育った大事な家だろ」  もしかしたら、さっき神社のことを話していた時の狐もこんな気持ちだったのかもしれない。狐はただ疑問に思ったことを聞いているだけなんだろう、分かってる。さっきの私もそうだったんだから。だけど。 「……知らないよ。お父さんも死んじゃったから」 「え……」  狐面に隠れて見えないはずなのに、今の狐がどんな表情をしているのか何故か見えるようによく分かる。そんな私の直感を肯定するように、狐は真っ直ぐに私を見ていた。 「詳しいことは知らないけど、あの家が建ってた土地が駅に近くて立地がいいからって、売ってくれないかって言ってきた不動産屋がいたの。家の解体費用を負担してでもあの土地を欲しがってたみたいで、誰も住んでないのに放ったらかしておくよりはって売却したんだと思う」 「……」 「私は反対したよ。だけど、売却の話を進めてる途中でお父さんが病気で死んで……あの時のお母さん見てたら、どうすることもできなかった。何て言うか、目の前にやらなきゃいけないことがあり過ぎて、悲しんでる時間もない感じで。そんな時に、あの家を壊さないでなんて言えなかったのよ」  あの時のことは今までできるだけ思い出さないようにしてきた。もともと持病はあったけど、まるでおじいちゃんとおばあちゃんの後を追うように死んでしまったお父さん。横たわるお父さんの隣に座ってぼんやりしていた、お母さんのやつれた横顔。お父さんが死んだこと以上にその姿が私の頭に焼きついて消えなくて、私は何も言えなくなってしまった。  何もできなかった。まだ子供だった私には、どうすることもできなかった。  そう思っていたけど、もし今同じことが起こったとしても、きっと私は何もできないのだろう。私はお母さんにとって、死ぬまで子供のままなのだから。 「……よし、分かった」  狐の声にはっと我に返る。今までずっと閉じ込めていたあの光景をひどく久しぶりに手にとって眺めたような気がして、まだ気持ちが落ち着かない。  狐は私に歩み寄ると、右手を上げて私の額にふわりと触れた。 「ちょっ、何」 「動くな。あんたの記憶を読み取るんだよ」 「本当にできるの? もし嘘だったらちょっとした事案よ、この状況。分かってる?」 「あーもううるせーな。いいから口閉じろ、あと目も」 「なんで」 「余計なこと考えないようにするためだよ。ほら、深呼吸」  仕方なく目を閉じて、大きくゆっくり息を吐き出す。私の呼吸が落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、狐が耳元で囁いた。 「頭の中でしっかり思い出して。できる範囲でいいから、なるべく詳しく。それと、できるだけ強く」  これまで何度、思い出してきたか分からない。  もう二度と行くことはできないあの家を、私はゆっくりと思い出していく。  あの家の匂い、色褪せた壁紙、狭くて薄暗い階段の下から見上げる二階の廊下、お正月にみんなでごはんを食べた部屋の畳の色。おじいちゃんが読んでいた新聞の色、おばあちゃんが作ってくれた煮物の甘い匂い。  忘れるはずがない。今だって、まるでそこにあるように鮮明に思い出せる。  まるでそこに……。 「できた。もう目開けていいよ」  その声に、そっと瞼を上げる。  何度その景色を見たいと願っただろう。何度この空気に触れたいと思っただろう。  私と狐は、お父さんの実家の狭い玄関に立っていた。 「……うそ」  ふらりと後ろに倒れそうになった背中が、硬い何かに触れる。振り向くと、あの家の玄関の扉があった。何度も開け閉めした懐かしいドアノブに指先が触れて、その感触さえもまだはっきりと覚えてる自分に自分で驚いている。  ああ、そうだ。この少し凝った装飾のドアノブ、覚えてる。家が小さい分、こういうところにこだわっていたのはおじいちゃんだっけ。 「ほら、思う存分見てきな。三分間が限界だから、ゆっくりは見てられないと思うけど」 「あっ、そ、そうだ」  あわてて靴を脱いで家に上がる。床の感触もひどくリアルだ、私の記憶そのもの。  時間はどうやら夜みたいで、家の中は電灯がついていて明るい。玄関の明かり取りの窓から見える空は濃い藍色をしていた。 「いいか、ひとつだけ注意しておく。家の中に誰か人がいても、絶対に話しかけるな。触るのもダメだ」 「え、どうして?」 「気がふれるからだ。どうしてなのかは俺もよく知らないけど、とにかく誰かいても絶対に接触するなよ」  家の中はしんとしていて人の気配が感じられない。いつもこの家には誰かがいたから、何だか変な感じだ。 「見た感じ誰もいないみたいだし、大丈夫でしょ」 「……一応、注意はしたからな」  狐はそれだけ言うと、玄関の扉にもたれかかって腕組みをした。どうやらここで待っているつもりらしい。  私は家の中に向き直ると、そっと足を踏み出した。  誰もいないし人の気配も全くないけど、テーブルの上にはまだ準備をしている途中のような晩ごはんのおかずが並んでいて、美味しそうな匂いが漂っている。まるでついさっきまでここに誰かがいたみたいだ。  食器の素材やデザインにこだわりを持っていたおばあちゃんが大事にしていたあのお皿、一体何度見ただろう。台所のコンロには少し大きめの鍋が置かれていて、蓋の隙間からついさっきまで火にかけられていたみたいに湯気がほわほわと立ち昇っては消えていく。狭いけどおばあちゃんの好きなものが詰め込まれたその領域は、小さかった私にとって憧れの場所だった。私も大人になったらこんな台所のある家に住むんだって何の疑いもなく信じてて、その理想の風景をお絵描き帳に描いてそこに暮らす未来の自分を夢想するのが好きだった。 「……はは」  何故か乾いた笑いが出てくる。  目の前にあるのはずっと忘れられなかった過去の景色なのに、頭の中では妙に冷静に今の自分の生活を思い出している。快適ではないけどさほど不便を感じているわけでもない、見慣れた、それでいてこのお父さんの実家ほど愛着のない、ただ住んでいるだけの1Kのアパートの部屋。そんな場所で毎日同じように朝と夜だけ暮らしている今の自分は、あの頃の私が思い描いていた未来の自分とはあまりにかけ離れていて、その違いが自分でもおかしくなってしまったのだ。  自分が選んだお気に入りの食器とか、大好きなお茶とか、そういうものが詰まった台所を夢みて始めた一人暮らしだったはずなのに、今では疲れて帰ってくるとろくに料理もしないで適当に済ませてばかりの晩ごはん、食器や調理器具は引っ越した直後に間に合わせであわてて買い揃えた安物をずっと使っていて愛着なんてかけらもない。そんな今の生活を、私は今まで何の疑問もなく続けていたことに初めて気が付いた。  おばあちゃんの台所は私にとって夢と憧れの詰まった場所で、今の私に同じものを作り上げることなんてできるはずがないと、いつからか諦めてしまっていたのだろう。理想と現実は全く別のもので、一致するどころか近づくことすらありえない。そもそも、現実を理想に近づけようだなんて発想自体がもう今の私にはない。 「なに……やってんだろ」  誰に言うでもない独り言。いたたまれず、その部屋に背を向けて玄関に戻った。そのすぐ横には狭い階段があって、見上げる二階の廊下は薄暗く何も見えない。  扉にもたれかかって立っていた狐がふと顔を上げて、私の見つめる階段の先を向いた。 「あと一分と少しくらいで終わるぞ」 「え、もうそんなに経った?」 「隅から隅まで見るのは無理だからな、時間配分考えろよ」 「分かってるよ」  階段の途中の壁には変なお面がいくつか飾られていて、薄暗さも手伝ってか異様な雰囲気を醸し出している。子供の頃はこの階段を夜に上るのが怖かったけど、今もかなり怖い。でも時間がない、早く二階を見に行かないと。 「……よし」  小声で自分自身に気合を入れて、そっと階段の一段目に足を乗せた。ぎしっ、と嫌な音を立てて階段が軋み、その音は薄暗い空気の中へ溶けるように消えていく。  変な感じだ。あの頃と違って背も伸びているはずなのに、見上げる景色は子供の頃に見ていた目線と同じで、まるで今の自分もあの頃の小さな子供だった自分に戻っているような錯覚を覚える。子供の目線で見ていた記憶を再現してるからなのかもしれない。  一段、一段、ゆっくりと階段を踏みしめる度に呼吸を整えようとしても、さっきから心臓が異常な速さで脈打っている。壁に手をかけると、その壁紙の手触りも記憶の中に微かに残っていた感覚そのもので、胸の奥がぎゅっと締めつけられたように苦しくなる。手で触れた瞬間、今の今まで忘れていたあの頃の記憶の片鱗が唐突に蘇ってきて、一瞬めまいを起こしたように足元がふらついた。  それはただ過去を懐かしむなどというような穏やかなものではなくて、今の自分を何もかも力任せに足元からひっくり返されるような、ひどく荒々しく、そして痛みを伴う感覚だった。こんなはずじゃなかった。狐に記憶を再現してやると言われた時、私が想像していたのはもっと優しく、静かに懐かしさを眺めるような、そんな時間だったのだ。忘れられない思い出だけじゃなく、忘れていたと思い込んでいた記憶まで全て、何もかもを目の前に突きつけられる。それがどういうことなのか、私は全く何も考えていなかった。  忘れたくない思い出と、思い出したくない記憶。綺麗な部分だけを切り取ってこれが私の思い出だと言って心の中に飾っていた自分を、今になって初めて自覚した。思い出したくないことはみんな箱に入れて蓋を閉じて、二度と目に映らないようにしていただけだったのに。それは忘れたわけでも消えてなくなったわけでもない、今も私の中に確かに残っている。そして一生消えることはないのだろう。  階段の上の突き当たりにある部屋の襖が開いていた。二階の電灯は廊下も和室もついていなかったけど、窓の向こうから漏れてくる外灯の明かりでかろうじてあたりの様子がぼんやりと見える。  部屋の奥、窓ガラスの前に誰かが立っている。 「……」  こっちに背中を向けて、窓の向こうに広がる夜の町を見ている。動かすとガタガタ音がしてすんなり開けられた試しが一度もない木の窓枠、そこに手を置いて、その人は微動だにしない。  どくん、と心臓がひときわ大きく脈打った。  薄暗くてよく見えないはずなのに、その髪が白髪交じりなのを私はよく知ってる。すらりとした体格なのにちょっと猫背な姿勢。  吸い寄せられるように階段を上りきり、部屋の中へ足を踏み入れる。その人は私に気付いているのかいないのか、こっちに振り向く気配すら感じさせない。心臓の音が速すぎて、胸を突き破ってしまいそうだ。何かに操られているんじゃないかと思うほど、私の手は私の意識とは無関係にその人の背中へ伸びていった。 「お父さ……」  不意に誰かの手が私の手首を掴んだ。 「ストップ」 「あっ……」  その瞬間、目の前に白く厚い靄が立ち込め始めた。視界をその靄が埋め尽くす直前、その人が窓の前でこっちを振り返ったような気がする。いてもたってもいられなくて、私は声を限りに叫んだ。 「お父さん!」  その声が届いたのかどうかは分からない。瞬きをして次に目を開けた時はもう、私はまたあの神社の境内に立っていた。  すぐ隣に立つ狐が私の手首を掴んでいる。 「言っただろ、触るなって」  夢から醒めたばかりのようにふわふわした気分のまま、ぼんやりと狐面を見上げる。相変わらずこっちを見ているのかいないのか分からない。 「ごめん……」  そう言えば注意されてたっけ、誰かいても絶対に話しかけるなって。狐はじっとこっちを向いていたけど、しばらくしてその狐面の奥からぽつりとほとんど聞き取れないほど小さな声がこぼれてきた。 「……泣くなよ」 「え?」  私の手首を掴んだままの狐の指に、ぽたりと雫が落ちた。 「あ……あれ」  それが私の涙だという事実に自分でびっくりして、あわててもう片方の手で自分の顔に触れる。いつからか頬に涙の流れた跡ができていて、触れた指先を生温い水が濡らした。人前で泣くなんて、一体何年ぶりだろう。いや、そもそも泣くこと自体がずいぶんと久しぶりだ。  涙は後から後から溢れてきて、一向に止まる気配を見せない。その時、急に狐がぐいと私の手首を引っ張った。抵抗する間も与えられず、そのまま狐の胸に顔を押しつけてしまう。 「ちょっと、何すんの」  口をついて出た声の最後が震えて、しまったと思った。 「めんどくせー女だな」  気付いているはずなのに、狐はそのことには触れずに悪態をつく。 「離してよ」 「こういう時は気が済むまで泣いてりゃいいんだよ」 「……」  こいつなりに、私に気を遣ってくれてるのかもしれない。そう思うとそれまで強張っていた身体から力が抜けて、ほっとため息が出る。  声を上げて子供みたいに泣けたらきっとすっきりすると思ったけど、いくらそうしようとしてもできない。声が出ない。泣くって、どうやればいいんだっけ。 「……っく」  仕方なく声を押し殺すようにして泣くと、狐の手が私の頭をゆっくりと優しく撫でるのが分かった。  *  どれくらい時間が経ったんだろう。ようやく涙が止まる頃には何だか顔中の筋肉や喉の奥がひどく疲れていて、とにかく私はものすごく体力を消耗していた。 「気が済んだか?」 「……疲れた」  かすれた声で答えると、狐は私の肩を押して身体を離した。 「泣くだけで疲れるのか……あんたいくつだよ」 「うるさいな」  適当に顔を拭いながら狐から離れ、社に歩み寄って階段にそっと腰掛ける。さっき記憶の中で脱いだ靴がすぐそこに転がっていることに気付いて、そそくさと履いた。  もうあたりは真っ暗で、神社の中も外からも物音ひとつ聞こえてこない。しんと静まり返った空気が、冷たい夜風をいっそう寒く感じさせる。涙の流れた跡に夜風が触れて、そこだけが頼りないほど冷たかった。 「本当言うとさ、人間にはなるべくこの能力使うなって言われてんだよ。神様に」  私の隣にすとんと座ると、狐は神社の外を見ながらつぶやいた。 「そうなの?」 「昔のことをリアルに思い出させると、そこから出たくなくて本当に出てこられなくなるんだってさ、心が。記憶の中に誰かがいても話しかけるなってのも、神様に言われてんの。どうしてなのか今まで分かんなかったけど……あんた見てたら、分かった気がする」  わざと音を立てて鼻をすすった。こいつの前で泣いたことが、今になって何となく気恥ずかしくなってくる。 「私は別に昔に戻りたいとか、もしあの家を壊さないでいたらとか、そんなことは考えてないんだ。形のあるものはいつか必ず壊さなきゃいけない時が来るし、あの家にそれほど思い入れがあるってわけでもないし」 「ふーん……」  興味なさそうな相槌が、何故か今は心地よく感じる。こいつがわざとそんな態度で返してることは、いくら私でも分かる。こんなこと今まで誰にも、お母さんにも話したことはなかったのに。 「だけど、なんでだろう。時々ね、ふっと、無性に帰りたくてたまらなくなるの。あの家の匂いとか、色褪せた壁紙とか、狭くて薄暗い階段の下から見上げる二階の廊下とか、お正月にみんなでごはん食べた部屋の畳の色とか……そういうものが、頭の中で思い出すだけじゃなくて、実際にもう一度見て、触って、五感で感じたくてどうしようもなくなる」 「……」 「変だよね、あの家は私の家じゃないのに。どうしてこんなにあの家が恋しいのか、自分でもよく分かんないんだけど。給料安いのに無理して家出てお父さんの実家があったところの近くで一人暮らしまでしてさ、意味分かんないでしょ」  狐は何も言わなかった。ただ黙って、じっと鳥居の外を見ている。  何言ってんだろうな、私。こんなこと話すつもりじゃなかったのに。きっとこいつもまた『めんどくせー』とかって思ってそう。 「……分かるよ。すごく」  拍子抜けした。想像していたのと真逆の反応を返されたから。  びっくりして横を見ても、狐は相変わらずどこか遠くを見たままだった。 「俺もそういうことある。この神社がまだ焼け落ちる前の時のこと、時々思い出す。周りの住民たちが毎日参拝に来て、神様に願い事をしたり、願いが叶った奴はその礼をしていってさ。神社の手入れもされてて、参道はこんなふうに雑草なんて生えてなくていつも綺麗だった」  狐は今、何を見ているんだろう。半分狐面に隠れた横顔からそれを窺い知ることはできなくて、それでも私は黙ってその横顔を見ながら狐の話に耳を傾けた。 「本当に幸せな毎日だったよ。だけど、あの頃は何とも思ってなかった。だってそれが当たり前すぎて、これからもずっと続いていくんだって思ってたから」 「……」 「あんたがさっき言ったこと、本当によく分かるよ。俺も別にあの頃に戻りたいなんて思ってないし、この神社に未練なんてない。瓦礫を全部撤去された日、さっさと出て行って総本宮に帰ろうと思ってたんだ」  ふと、狐の顔がわずかにうつむく。金色の髪がさらりと揺れて、夜の闇の中まるで光を放っているように見えるそれは、この世のものとは思えないほど綺麗だった。 「だけど、できなかった。どうしてもここを離れられなかった。だから、仕方なくこうやって自分の記憶の作りものなんかに閉じこもってるわけ。バカみたいだろ、こんなことしたって、もうこの神社はないのに」  あの夜のゴミ置き場で会った時の狐からは想像もできないほど、その声は悲痛だった。生気のない死んだ魚みたいな目をして、私をバカにしたように笑っていたこいつが、胸の内でそんなことを思っていたなんて。そしてもっと信じられないのが、そんなこいつの言っていることが痛いほどよく分かる自分自身だ。 「正直言って、どうすればいいか分からない。ここを出て行くことはできないし、かと言ってあの頃とそっくり同じような神社をまた現世に作ることもできない。それに、そんなことしたって意味がないし」  狐は膝に頬杖をついて、どこかをぼんやりと見ている。きっと、ここではないどこかを。 「新しい神社をまた作ればいいんじゃなくて、俺は……あの頃の神社がいいんだ。俺の記憶の中の、この神社が。そうじゃなきゃ、意味がないんだ」  そう。分かるよ。だって私もそうだから。  たとえあの土地にあの家とそっくりな家を建てても、それじゃ意味がない。私はあの頃の、私の記憶の中の、あの家がいいんだ。  だけどそれはもうできない、もう二度とあの家に行くことはできないと知ってしまった今だからこそ、余計にそう思うんだろう。自分が大切な場所にいたのだという事実は、いつだって後になって知る。失って初めてそれがかけがえのない、大切な場所だったと気付く。そして、二度と元には戻らないと。 「この間あんたがここに来た時、心臓が飛び出るかと思ったよ。ずっと俺の願いだった、あの頃の神社に参拝客が来るところを見られたんだから。……もう、誰も来ないって思ってたのに」 「そうだったの?」  あの時のことを思い出してみても、特に驚いてたような感じはしなかったけど。 「あれ、じゃあ……ゴミ置き場で座ってたのは?」 「あそこであんたに会ったのは偶然だよ。まあ、また会いたいとは思ってたけど」  ようやく狐はこっちを向いた。 「あの時たい焼きを恵んでもらったのもあるけど、それよりも俺はあんたにこの神社へ来てくれたことに対して何かお返しがしたかったんだ。百五十年間ずっと待ってた俺の願い、叶えてくれたから」  そう言えばこいつ、とんでもなく長い間ここにいるんだったっけ。まだ狐の話を全部信じてるわけじゃないつもりだけど、百五十年もずっとここに一人でいるってどんな気持ちだったのかな。想像しようにもそのあまりに長い時間は私の想像できる範囲を超えていて、簡単に『分かるよ』なんて言えそうもなかった。 「どんな形であれ、いつか願いが叶ったらこの生活をやめようと思ってた。でもここを離れるのが嫌で、わざとこの神社の周りの空間を歪めて、人が簡単には外から入ってこられないようにしてたんだよ」 「矛盾してない? それ」 「分かってるよ。俺はただ、ここにいつまでもずっといたかっただけ」  狐はまた私から顔を逸らして、神社の外を向いた。 「だけど、そんなの無理なんだよな。ホント言うと、ここに来たあんたを見てすごくほっとしたんだ。ああ、この生活やっと終わりにできるって。自分で決めて閉じこもってたのに」 「終わらせたかったの? 本当は」 「……さあ、そうなのかも」 「そうなのかもって、どっちなのよ」 「どっちだっていいよ、そんなこと」  自嘲気味な言い方が、かえって痛々しい。だけどかける言葉が見つからない。 「ここにいられなくなるとしても、俺は誰かがこの神社へ参拝に来てくれるところをもう一度見たかった。だから、俺の願いはもう叶ったの」 『ご心配なく。もうこの生活やめるつもりだからさ』  さっき言ってたのは、こういうことだったのか。こいつはこの神社から出て行くつもりなのかな。  でも今の狐はどう見ても、自分の気持ちに区切りをつけられているようには見えない。願いが叶ったって、それならどうしてそんな寂しそうな話し方をするんだろう。  狐面に隠れて見えないはずのその目が、どこか遠い思い出の向こうを見つめているような気がした。
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