第1章 狐の恩返し

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1-6. 狐の恩返し  一体どれだけ時間が経ったのか、まるで時間の感覚がない。この神社の中に漂う普通とは違った空気がそう感じさせているのかもしれない。  私たちはしばらく黙ったまま、ただぼんやりとそこに座っていた。だけど、しんと静まり返ったその空気には不思議と気まずさはなく、まるで一人でいるのかと錯覚しそうなほど心は穏やかだった。私も、そしてきっと狐も、それぞれがそれぞれの過去を思っているのだろう。 「どうするの? これから」  ほとんど独り言みたいにぽつりと聞いてみても、すぐには返事が返ってこない。返事を急かすでもなく、私はただ鳥居の向こうに見える景色をぼんやりと眺めていた。無視されてんのかな、そう思うくらい沈黙が続いた後、狐は座ったまま後ろに手をついて姿勢を崩しながらようやく答えた。 「んー……帰るよ、総本宮に。いい加減早く戻ってこいって、ずいぶん前から神様にも言われてるし」 「帰るって、この町を出てくってこと?」 「そうだけど」  いともあっさりと答えられて、思わず狐の方に身体ごと向けてしまう。 「さっき、ここを出ていくことできないって言ったのに」 「……」 「いいの? それで」 「いいも何も、仕方ないだろ。いつまでもこんな生活続けてられないし、願い事も叶ったしさ。いい機会なんだよ、きっと」  さっきから狐は私をちらりとも見ようとしない、ただぼんやりとどこか遠くを向いたままだ。一切の感情を覆い隠しているその狐面からは、狐の気持ちを推し量ることはできそうもない。だけど、今の私には分かる気がする。それは私の思い込みかもしれないし、勝手な想像だということは分かってる。それでも今の私が確かに感じ取っているこの気持ちは、きっと今の狐も同じはずだと、何故かそう確信することができた。 「仕方ないってだけで出て行けるなら、さっさと出て行けば良かったじゃない。それでもずっと一人でここにいたのは、それができなかったからでしょ?」  微かに狐が身じろぎしたような気がする。何故か震える指先をぎゅっと握りしめて、私は尚も続けた。 「本当は出て行きたくないんでしょ? この町にいたいんじゃないの?」 「……だよ」 「え?」  聞き返したのとほとんど同時に、狐がこっちを向いた。 「じゃあどうしたらいいんだよ。なあ、俺はどうすればいい?」  泣いているような声だ、そう思ったのは私の気のせいだったのだろうか。相変わらず狐面からは何の感情も読み取れないのに、今までいつもどこか冷めたような喋り方をしていた狐が初めて荒げた声に、私はただ驚いて何も言い返せなかった。 「出て行きたくない? この町にいたい? そんなの当たり前だろ。あんたに何が分かるんだよ、この百五十年間、俺がどんな思いでここにいたのか、あんたに分かるか?」 「……」 「どんなに願ったって、叶わないものは叶わない。時間は絶対に戻せないし、一度壊れたものは二度と元には戻らないんだよ。俺がどんなにこの神社の記憶にしがみついていたって、いつかここを出て行かないといけない日が絶対に来るんだ」  さっき感じていた直感は確かだった。やっぱり狐は、ここを出て行きたくないんだろう。それでもずっとこのままではいられないと、自分でも分かってるんだ。きっと、もうずっと前から。  もうどこにもないと分かっていても、二度と元には戻らないと知っていても、大切な場所があった町から離れることができなかったこいつの気持ちは痛いほどよく分かる。だって私もそうなのだから。  冷めた態度のほんのわずかな隙間に垣間見たような気がした、狐の本心。私はそこにひどく危ういような、もろいような、とても頼りなく弱々しいものを見つけていた。今の狐が自分の中で必死に気持ちのバランスを取ろうとしているような、足元のおぼつかない状態で必死に立とうとしているような、そんなふうに見えたのだ。  放っておいてはいけない。前にゴミ置き場で会った後も同じことを思った。  どうしてなのかはよく分からないけど、今のこいつを一人で放っておいたら、きっと私は後悔する。何故かそうはっきりと確信していた。  お父さんが死んだ時、お父さんの隣で座っていたお母さんの横顔を見たあの時と、今の気持ちはひどく似ている。子供だからと何もできないでいたあの頃の自分を私はもう何年もずっと悔やんできたけれど、それは仕方がなかったのだとずっと自分に言い聞かせてきた。どうすることもできなかったのは私のせいではないと。だけど、私がどうすることもできなかったのは変えることのできない事実で、それはあの時からずっと記憶の奥底にこびりついたまま消えることはなかった。  もう今の私は小さな子供じゃない。  今こいつを放っておいたら、私はまた同じことを繰り返す。何もできずに見ていただけの自分を、後になって何度も何度も思い出すことになる。もう嫌だ。  私はもう、二度と後悔はしない。 「なら、私のところに来ればいい」 「……は?」  狐は私を見たまま固まっている。 「部屋は狭いし、食費は毎月カッツカツだし、きっとあんたにとっては今より不自由な生活になるだろうけど……でも、この町にはいられるよ」  自分でも何を言ってるのか半分も理解していないかもしれない。何を血迷っているのか、と、頭の隅で冷静な自分が呆れているのが分かる。 「い、いやいや。ちょっと、待てって」  言っている自分がこんな状態なのだから、聞いているこいつはもうわけが分からないだろう。おそらく混乱して話が頭の中でまとまっていないのであろう狐は、私の顔の前に手のひらをかざして私がそれ以上何か言うのを制した。 「お前、頭おかしいんじゃねえの? 犬とか猫拾うのとはわけが違うんだぞ。俺が今までどんな生活してたか、ちゃんと聞いてないだろ」 「女の人に面倒みてもらってたって……」 「そういうの、この国では何て言うか知ってんのか?」 「ヒモ、とか」 「クズって呼ぶんだよ。そんな男と一緒に住んでるなんて周りの奴らに言ってみろ、男にモテなさ過ぎてクズに金出してまで相手してもらおうとしてる可哀想な女だって言われるだけだ」 「そんなこと……」  狐は髪を無造作にくしゃりとかき上げて、私から顔を逸らした。 「大体、あんたにも母親がいるだろ。そんなバカなことする女になってほしくて今まで育ててきてくれたんじゃないのに、こんなクズと住んでるなんて知ったら泣くぞ」 「もう子供じゃないんだから、誰と一緒に住もうが私の自由だよ」 「そういう言い方が子供なんだよ」 「自分だって子供のくせに、何言ってんだか……」 「あ?」  小声で呟いたつもりだったのに、狐は不愉快そうな声ですごんでくる。無視して階段から立ち上がると、まだ座ったままの狐の前に立った。狐は真っ直ぐに私を見上げている。 「いいから、おいでよ。そんなクズみたいなことしてまで百五十年もここに残ってたんでしょ? それだけ大事な場所なら、そんな簡単に離れちゃダメだよ。そんなに大切な思い出なら、ずっとしがみついて離れないでいればいいじゃない。どうして手放す必要があるの?」 「……」 「私は絶対に手放さない。この先、気持ちが変わることはあるかもしれないけど、少なくとも今は気の済むまで記憶にしがみついてるつもりだよ。だって、本当に大切な思い出だから」  そう、決めたのだ。  私はもう、絶対に手放さない。  私はもう、二度と後悔はしない。  それは後ろ向きな決意なのかもしれないけど、留まるどころか後退しているようなものなのかもしれないけど、それでもいい。だって、本当に大切な思い出だから。  もう二度とあの家には戻れないと分かっていても、あの家があったこの町に、この記憶にいつまでもしがみついていたい。決して忘れられない、忘れたくない、大事な場所だから。  だから、こいつにも手放してほしくない。大切な思い出を、大事な場所を想う気持ちを。ここを離れたくないと思う気持ちを、捨てないでほしい。  それにきっと今のこいつは、その気持ちを手放してしまったらどこにも行けなくなってしまう。たとえ作りものでもこの神社にしかいられないこいつは、ここを離れたらきっと生きていけない。自分の気持ちを手放すか持ち続けているかということですら迷っているような今のこいつを、このままこの場所から離してはいけないと、きっと私でなくても思うだろう。  狐はうつむいて、ぼそっと呟いた。 「……あんた、バカだろ」 「前にも言われた」 「バカにバカって言って何が悪い」  微かな夜風に金色の髪がさらさらと揺れる。その髪に隠れた狐面の奥から、押し殺したような声が聞こえてくる。 「自分一人食わせるのもやっとのくせして、こんなどうしようもない穀潰しなんか拾うとかさ。後悔しても知らないからな」  後悔なんかしない、そう言おうとしたけど、それより先に狐が続けた。 「今まで、俺の面倒みてたせいで婚期逃して後悔しながら年だけとっていった人間の女を何人も見てきたよ。あんたもそうなるかもよって言ってんの、分かる?」 「いい人が現れたら出てってもらうから、心配ないよ」 「そうじゃなくて、クズなんか飼ってる女のところにまともな男なんて最初から来ないんだって。そういう女だってこと、何も聞かなくても周りは雰囲気で分かるもんなんだよ。あんたまだ若く見えるけど、そろそろ将来のこと真剣に考えないとヤバい年なんだろ? 今だけの気の迷いで人生棒に振るつもりか?」  唐突に年の話をされてついカチンときてしまう。 「さっきからうるさいな。私の人生なんだから、私がやりたいようにやる、それだけだよ。結婚しないのも苦労するのも私の自由でしょ、あんたにどうこう言われる筋合いないわよ」 「まあ、そうだけど……」 「今あんたをほっといたら、きっと私は後悔するの。後悔するのが分かってるのに、来るか来ないかも分からないような自分の将来のためにあんたをこのまま放り出すことなんてできない」  しばらく狐は黙って下を向いていたけど、やがて狐面の奥から微かにため息が聞こえた。 「本当に、救いようのないバカだな」 「勘違いしないでよ、あんたのためじゃないんだから。私が後味悪い思いしたくないからよ」 「分かってるよ」  すると、狐はおもむろに後頭部に右手を回して、そこで結ばれている狐面の紐の端をするりと引っ張った。左手で狐面を顔からそっと外すと、その動きに合わせるように金色の髪が根元から暗い栗色へするすると変わっていく。前髪の隙間からあのつり目が覗いて、その目が私を捉えた瞬間ふと細められた。 「……ありがとう。本当に」  予想していなかった素直な言葉に面食らい、何も言えないでいると、狐はまつ毛を伏せて小さく笑った。 「この恩は絶対に返すよ。時間はかかると思うけど」 「恩って……大げさだって」 「何かしてもらうだけなのは気持ち悪いからな。フェアじゃないっつーの?」  言いながらゆっくりと立ち上がる。前に会った時も思ったけど、こいつ細いなあ。それなのにやたら背が高いせいか、ひょろりとしていてとても健康そうに見えない。透き通るような白い肌もどこか人間離れした雰囲気を醸し出していて、髪が栗色になってもひどく人目を惹く容姿をしていると思う。  ふと、その細い指が掴んでいる狐面に目が向く。 「不思議だったんだけど。どうして私、この神社に入ってこられたんだろう?」 「え?」 「あんた言ってたでしょ、人が簡単には外から入ってこられないようにしてたって。あんたがやったんなら分かるでしょ」  狐はしばらく何か思案するようにどこか遠くを見ていたけど、長くは考えずに答えた。 「さあ、俺にも分かんない」 「分かんないって……あんた、自分の能力とかこの空間とか、そういうものの仕組みちゃんと理解して使ってんの?」 「いや、さっぱり。使えるから使ってる、みたいな?」 「あっそ……」  何となくそんな感じはしてたけど。いろいろ深く考えるの、あんまり得意じゃなさそうだし。 「何でもかんでも分かってて説明がついてちゃ、世の中つまんないだろ。分かんないままの方がロマンがあって楽しいってことよ」 「何がロマンよ。大体ね、こんなとんでもない話はいそうですかってすんなり信じてくれる人なんていないんだからね」 「あんたは信じてくれたじゃん」 「わ、私は……実際にあんなもの見せられたら、誰だって」  何故か狐の視線を真っ直ぐに受け止めるのが気まずくて、つい目を逸らしてしまう。 「だからいいんだよそんなの、どうだって。今あんたが俺の話を信じてくれてんなら、それでいい」  すっと、狐の右手が私の方へ差し出された。顔を上げると、その三白眼とまともに目が合ってしまう。さっきまで金色だった栗色の髪のせいか、それとも狐面がないせいか、目の前にいるのは狐のはずなのにさっきまで話していたこいつとは別の人を見ているようで、何だか変な感じだ。  薄い唇の端がわずかに上がり、つり目がそっと細められる。あのゴミ置き場で会った時からは考えられないほど優しい笑い方に、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような思いがした。 「よろしくな、ご主人サマ」 「……その言い方やめて」  だけどそれを悟られないよう、なるべく目をまともに見ないようにしながら、その手を右手で握り返す。想像していたよりもずっと大きな手のひらの中に、私の手がすっぽりと収まってしまう。その細い指先は少しだけかさついていて、私の指よりも少し熱い。さっき手首を掴まれた時は気付かなかったのに、その感触をはっきりと感じた瞬間、こいつが確かにここにいることを今になって初めて実感した。作りものではない、今ここにいる温度だ。  少し気恥ずかしかったけど、よろしく、と言おうとして、ふと気付く。 「そう言えば名前、まだ聞いてなかったよね」  そうだ私、こいつの名前をまだ知らない。聞くきっかけがなかったのもあるけど、それにしたって今の今までそれを気にしていなかったことにようやく気が付いた。  狐はきょとんとした顔で瞬きを繰り返している。 「名前? ないよ、そんなの」 「え、ないの?」 「うん」 「じゃあ、面倒みてくれた女の人たちには何て呼ばれてたの?」  いくらヒモとは言え、さすがに名前がないだなんて言う不審な奴の面倒なんて普通はみないだろう。 「あー、それな」  手をそっと離すと、狐は左手に持っている狐面の紐を指先にくるくると巻きつけ始めた。白い指に巻きついた紐の朱色が、夜の暗さの中でも鮮やかに浮かび上がって見える。 「知り合った時に相手の記憶を読み取って、その中にいる大切な人と同じ名前を名乗ってたよ。例えば、あんたの場合なら父親の名前を借りる。いかにも偶然って感じでな」 「ええ……えげつない」 「そうすると初対面でも話が弾むし、向こうも情が移りやすくなるのかな、話がすんなりまとまることが多いんだよ」 「あんたには良心ってものがないの? あんたの面倒みてた女の人たち、可哀想……」 「やりたくてやってたわけじゃない、食っていくために仕方なくやってたことだ。それに、向こうだって自分の大切な人と同じ名前の俺を飼ってる間は心が満たされてただろうから、おあいこだよ」  特に悪びれるような素振りも見せず、狐はふんと鼻を鳴らした。 「みんなそうだ。今目の前にいるのが誰かなんてどうだっていい、大事なのは記憶の中の誰かなんだ」 「……」 「あんただって、そうだったろ」  さっきの記憶の中でのことを言っているんだろう。確かに、そう取られても仕方ないのかもしれないけど。  きっとこいつは今までずっと、誰とも正面から向き合うことなく生きてきたんだろう。女の人たちが狐を通して記憶の中の誰かを見ていると分かった上で、それを利用することでしか築くことができなかった彼女たちとの関係は、一体どんなものだったのだろう。本当の自分を打ち明けることもできず、相手からも本当の自分を見てもらえず、そんなことを百五十年もずっと続けてきたこいつの胸の内は、私にはとても理解できそうにない。 「あんたはどうなの?」  それは聞いてはいけないことだったのかもしれない。だけどどうしてだろう、聞かずにはいられなかった。  狐の指先がぴたりと止まり、朱色の紐がするりと解ける。紐はまるで生きているように風に乗ってゆらゆらと揺れた。 「俺には大事な人なんていない」  妙にはっきりと言い放たれたその言葉には、それまで聞いた狐のどんな言葉よりも強い意思が感じられた。何故かひどく真剣なその目つきに何も返す言葉が見つからず黙っていると、ややあってから狐は少しだけうつむいて笑った。 「まあでも、今まで生きてきて自分の身の上を話した人間はあんたが初めてだよ。そういう意味ではあんたは特別かもな」  その喋り声はもういつもどおりの調子に戻っていて、さっきのは何だったのかと問いただすこともできなかった。 「あんたなら、俺に名前つけてもいいよ」 「……え、私が?」 「名前がないと何かと不便だろ? 俺は別にあんたの父親の名前でもいいけど、あんたからしたら微妙だろ」 「まあ……そうだね」 「好きな名前つけな。俺はもう、あんたの所有物みたいなもんだし。名前つけると愛着も湧くから」  どうしてそんなことを軽々しく言えるんだろう。所有物とか、愛着とか、まるで自分を物みたいに表現するこいつの真意を確かめようとその目を見ても、相変わらず何を考えているのか分からない。口元は笑っているのに目は笑ってなくて、そこから狐の考えていることを推し量ることはできそうもない。狐面があってもなくても、こいつはいつもこんな感じなのかな。 「考えとくわ」 「ポチとかタマとかはやめろよ、周りに怪しまれるから」 「分かってるよ」  こいつが今までどんな生き方をしてきたのか、それは聞かされたこと以上の事情は分からないし、その中でこいつがどんな思いをしてきたのかも分からない。だけど、ひとつだけ分かることがある。  私と同じように、心に大切な場所を抱えているということ。  たったそれだけなのに、今まで会ったどんな人よりも自分と近しいところにいるような、そんな気がした。  見た目も、考え方も、性格も、きっと普通に生活していれば一生関わることのなかったタイプの奴だけど、大切な場所を想う気持ちだけは痛いほどよく分かる。自分の気持ちと同じように。同情や憐みではない、好意や興味とも違う、今までこんな気持ちを他人に対して抱いたことはなかった。  傍から見れば傷を舐め合っているだけのようなものかもしれないけど、確かにそういう部分もあるかもしれないけど、少しだけ違う。うまく言えないけど、今のこいつには私がそばにいないといけないような、他の誰にもその代わりはできないような、変な責任を感じるのだ。きっと今までこいつの面倒をみてきた女の人たちも大なり小なり同じようなことを思ったのだろう、何故かそれがよく分かる。ヒモを飼うような女の気持ちなんて私には到底理解し難いものだけど、まさか私がそんな関係を誰かと結ぶことになろうとは思ってもみなかった。 (まあ、この場合ヒモってのとは違うし……いいか)  この関係がいつまで続くのかは分からない。長くは続かない関係だと分かってる。  それでも、今のこいつには私がいなくてはいけない。そして、きっと今の私にもこいつが必要なのだろう。自分と同じように、心に大切な場所を抱えるこいつが。きっとそれは他の誰にも代わりはできなくて、こいつでないと分かってもらえないのだ。  この先、気持ちが変わることはあるかもしれないけど、少なくとも今は気の済むまで記憶にしがみついていようと思う。  こいつと一緒に。 「聞きたかったんだけど、あんたのその髪の色ってどうなってんの? どっちが地毛?」 「ああ、金髪の方が地毛だよ。このお面に神通力を封じ込めてあって、これを被ると本来の色に戻ってるだけ」 「よく分からないけど、今はなんで茶色にしてるの?」 「この色は、前まで面倒みてくれてた子の好み。あんたが嫌なら変えるよ。どうする?」 「……別に、どうでもいい。自分の好きな色にしとけば」 「ええー、反応薄っ」 「何度も言うけど勘違いしないでよ。私はあんたのことが好きなわけでも興味があるわけでもない、ただ一時的に面倒みるだけなんだから。ただの同居人の頭が何色してようが、本っ当にどうだっていいことよ」 「まあ、そうだな。俺もそのくらいあっさりしてる奴の方が楽でいいし」 「その代わり、あんたも私の生活に口出ししないでよ。そんなことできる立場じゃないのは分かってると思うけど」 「はいはい、りょーかい。お互い干渉しないで適度な距離感でいきましょう、って感じ? いいねいいね、あんたイイ女だなあ」 「言っとくけど、変なイザコザに私のこと巻き込んだらその場で追い出すからね。女遊びするのはあんたの自由だけど、私に迷惑のかからない範囲でやってよ」 「あんた、俺のことどういう目で見てんだよ」 「女にたかって百五十年生きてきたヒモが言えたこと?」 「……まあ、分かったよ。あんたに迷惑は絶対かけない、約束する」 「分かればいいの」  お金のこととか、こいつの節操なさそうな倫理観とか、初めての他人との共同生活とか、不安要素はいくつもあるけど、今の私とこいつにはこの町を離れることはできない。先のことなんて何も分からないし、いつかは私達に心境の変化があるかもしれないけど、とりあえず今はここにいたいという思いだけは一致している。  私とこいつを繋ぐものは、ただそれだけだ。 「それじゃとりあえず、あんたの名前教えてくんない?」
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