第2章 きみのこと

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第2章 きみのこと

2-1. トラウマ 『ほら、もう行くぞ』 『……まだ行かない』 『俺は先に戻っているからな。ちゃんと帰ってこいよ』 『分かってる』  嫌な夢をみた。  今までの百五十年、あの日のことはなるべく思い出さないようにしてたから、ここ数十年間は夢にすら出てきたこともなかったのに。あいつにあの時のことや自分のことを話して以来、時たま油断するとこんなふうに記憶の蓋が勝手に開いて中からあの時見ていた景色が飛び出し、鮮やかな色を持って頭の中を埋め尽くすようになってしまった。 (……忘れたと、思ってたんだけどな)  今もまだこんなにも鮮明に俺の中に残っていたのかと驚くほど、その記憶はいつもはっきりとした形を持っている。  いつの間にかうつ伏せになって寝ていた身体をもそもそと起こすと、腰をテーブルの端に強打した。 「いてっ」  そうだ、こたつで寝てたんだっけ。腰をさすりながらこたつ布団の外に出ると、冷え切った部屋の空気に身体がぶるっと震える。部屋の中は真っ暗だった。あわてて壁の時計に目をやると、もうすぐあいつが帰ってくる時間だ。  寝過ぎたせいで軋む関節を伸ばし、開けっ放しのカーテンを閉めようと窓の前に歩み寄ると、カーテンの端が窓に挟まっていることに気付く。今朝窓を開けた時に挟んだのかな。窓をわずかに開けてカーテンを部屋の中に引き戻し、また閉めようとした時、何気なく見下ろしたアパートの前の道路にこっちに向かって歩いてくるあいつが見えた。 「……」  声をかけようとして、やめる。  今の俺はこの部屋に住んでいるわけではなく、相変わらずあの神社で寝泊まりしている。ここへ来るのも毎日というわけではなく、いわば半同棲みたいな状態だ。とは言え、部屋の広さからしておそらく単身者向けだと思われるこのアパートに男を連れ込んでることが周りにバレたら、あいつに迷惑がかかるのは避けられないだろう。 『あんたに迷惑は絶対かけない、約束する』  ああ言った手前、できる限りあいつの周囲に俺の存在を勘づかれないよう細心の注意を払う必要がある。  黙ってそっと窓を閉めると、なるべく音を立てないようにカーテンを閉めた。何となく急いで部屋の明かりをつけ、エアコンの暖房を入れる。もう少し早く起きて部屋の中を暖めておけばよかったかな、そう思ったのと同時に玄関からガチャンと音がした。何度も聞いた、あいつが鍵を開ける音だ。  さほどの距離もない玄関までの間を早足で駆けて、ドアが開いた瞬間言った。 「おかえり」 「……ただいま」  悠子は俺の顔を見つめたまま数秒間固まっていたけど、すぐにドアを閉めてため息をついた。 「今日、来ないかと思ってた」 「いない方が良ければ帰るよ」 「別にそうじゃないけど……」 「ん?」 「何でもない」  パンプスを脱いで部屋に上がり、悠子は俺をちらりとも見ずにさっさと行ってしまった。 (なんだ、あいつ)  またこたつに入ろうと部屋に戻った時、テレビ台の隅に置いてある小さな卓上カレンダーにふと目が向いた。ああ、今日は金曜日か。だからあいつ、今日は俺が来ないと思ってたのかな。  悠子は毎週末、土日には実家に泊まりで帰る。本人曰く節約のためらしいけど、その本人が部屋を空けている間に俺がここにいて電気だのガスだの水道だの使ってたら意味ないと思うんだけど、と前に聞いたことがある。するとあいつは『留守番しててほしいのよ』と言っていたっけ。  俺が悠子に面倒みてもらうようになって、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。俺がこの部屋に来るのは悠子が実家に帰る土日と、あとは平日の夜に俺の気が向いた時。平日の昼間は誰かに見つかると面倒だからなるべく来ないようにしてるけど、今日はあまりの空腹に耐えられずまだ日が高いうちに来てしまった。合鍵は渡されてるから、何か適当に食わせてもらったらすぐに神社に戻るつもりだったけど、こたつでうとうとしていたらつい夜まで眠りこけていたのだ。  そう言えば、金曜日の夜にこの部屋に来るのは今日が初めてだった。別にここに来る曜日を決めているわけじゃないけど、土日以外は何となく二日以上連続して来ないよう気を付けているからだ。あんまり頻繁に来てるとこいつにとって負担だろうし、これでも俺なりに気を遣っているつもりだってこと、悠子には伝わっているんだろうか。 「もうごはん食べた?」  洗面所で水を流す音に混じって、悠子の声が飛んでくる。 「まだ」 「ええ? もー、あんた今日は来ないと思ってたから、何も買ってきてないよ」  気付かれないようにそっと洗面所の前に行く。水音が止まり、悠子は俺に背中を向けたまま化粧を落とした顔をタオルで拭いていた。 「……」  前々から思ってたことではあるけど、なんでこいつはこんなにも俺を警戒しないんだろう。お互いの身の上を打ち明けたとは言え、こいつにとって俺は信用するに足るところがひとつもない赤の他人であることに変わりはないのに。腕力でも身体の大きさでも絶対に勝てないことが明らかな男とこんな狭い部屋に二人っきりでいて、ここまで無防備に背中を見せられるこいつが何を考えているのか、俺にはさっぱり分からなかった。  今まで俺の面倒をみてくれた人間たちはまあ、最初から俺にそういう関係を求めていたから、俺を警戒していなかったのは分かる。でもこいつは違う。今までの人間たちと違って、こいつは俺に面倒をみることへ対する見返りを求めていない。 『何度も言うけど勘違いしないでよ。私はあんたのことが好きなわけでも興味があるわけでもない、ただ一時的に面倒みるだけなんだから』  けど、それをはっきりとあいつの口から確認したわけではないのも事実だ。勘違いするな、とは言われたけど、手を出すな、と言われたことは今まで一度もない。 「なあ、悠子」  いきなり後ろから呼ばれてびっくりしたのか、悠子の手からタオルがはらりと床に落ちた。振り向く前に、そのまま後ろから抱きすくめる。 「ちょっ……なに!」  腕の中でもがいているものの、俺の力に勝てるわけがない。身動き取れないようにぎゅっと抱きしめたまま、その耳元で小さく呟いた。 「あのさ、しねーの? 俺と」 「はっ……はあ!? 何を」 「言わせるかなー、普通」  そっと視線を落とすと、悠子の耳は真っ赤になっている。意外だった、こいつでもこういう反応するんだ。 「言ったろ、何かしてもらうだけなのは気持ち悪いって。俺がお前に返せることって言ったら、文字通り身体で返すしか」 「いっ、いい加減にしなさいよ! あんたそんなこと考えてたの!?」 「男と二人で生活してて、そういうこと考えないお前の方がおかしいよ」 「冗談じゃないわよ、誰があんたと!」  至近距離でキンキン声で怒鳴られ、ムードもへったくれもない。予想通りではあるけど、本当にこいつは俺をそういう目で見ていなかったのか。生娘じゃあるまいし、この年でそれはいくらなんでもありえないと思うんだけど、つい考えるより先に聞いてしまった。 「まさかお前、処女じゃないよな?」  それまで俺の腕から必死に逃れようともがいていた悠子の動きが、ぴたりと止まった。 「え。……マジで?」 「死ね!」 「あでっ!」  怯んだ一瞬の隙を突いて、悠子の裏拳が俺の顔面にクリーンヒットした。顔を押さえながらよろけると、俺の腕から解放された悠子は俺から距離をとるようにあたふたと洗面所から出て行く。 「いってえな、何すんだよ!」 「うるさい! 変態! 色魔! 今度妙な真似したら叩き出すから!」 「しき……」  部屋の奥からクローゼットの引き戸をバンと乱暴に閉める音が響いてきた。ウォークインクローゼットなんて呼ぶとちょっと聞こえがいいけど、実際は衣類以外にも掃除機だの電気ストーブだのを無理やり押し込んで収納しているその空間は人が一人入るともういっぱいになってしまう。部屋に俺がいる時、悠子はいつもその中で部屋着に着替える。 (……なんだ、そうだったのか)  どうやら、思いっきり地雷を踏んでしまったようだ。髪型とか服とか化粧とか、年相応に見えるようそれなりに取り繕ってはいるけど、どこか垢抜けないと言うか微妙に背伸びをしてるような雰囲気が拭えないと感じてたのは、もともとの顔が童顔だからというだけじゃなくてそういう事情があったせいだったのかもしれない。こればっかりは運と縁だからどうしようもないし、気にするなと言われても無理なのは分かるけど、あいつの時々見せる妙に卑屈な態度は、この年になるまで未だに誰とも深く関わった経験がないことに起因する自信のなさをこじらせた結果なんだろう。しかし、この部屋を出禁にされてはたまったもんじゃない。飼い主のコンプレックスをいじって俺が損することはあっても得することなんてひとつもない、今後は下手に接触するのはやめておこう。  大人しくこたつに入ってテレビをつけると、背後でガラッとクローゼットが開いて悠子が出てきた。変なロゴの入ったパーカーにゴムが緩みきったスウェット、いい加減見飽きたけどこいつの部屋着はいつ見ても本当に色気というものが微塵もない。 「もう面倒くさいから鍋ね、ごはん」 「また!? 先週から何連チャンだよ」 「嫌なら帰っていいのよ」 「……嫌とは言ってねーし」  悠子が作る鍋とは、土鍋に水と鍋つゆの素を入れて火にかけ、沸騰したら乾燥葛きりと冷凍庫に小分けにしてある肉や野菜を見栄えなぞお構いなしに適当にぶち込んでそのまま数分煮込んだだけの、手間を最小限に省いた名ばかりの鍋だ。本人に言わせると『鍋とはそういうもんだ』らしいけど、一度にまとめ買いした具材を何回にも分けて鍋にするもんだから、一週間、下手すれば二週間近く全く同じ中身が続くこともザラで、こんなこと言える立場でないのは重々承知しているけどもう飽きた。  悠子は米も一気にまとめて大量に炊き、それを小分けにして冷凍しているから、俺はこの部屋に来てから一度も炊きたての白米を食ったことがない。別に文句があるわけではないけど、今まで俺の面倒をみてくれた人間たちは俺の運がたまたま良かったのか料理好きな子ばかりで、同じ献立を二日続けて出されたことがなかったから、こいつの食に対する執着心のなさに最初はかなり面食らっていた。食費だけでなく生活費自体が常にカツカツだからか、そんなことまで気を回していられないんだろう。腹が満たされればいい、まさに食うために働いてる、悠子の生活は至ってシンプルだと思う。  狭いキッチンでガタガタと準備を始めた悠子に微妙な距離を置いてそっと近づく。 「なんか手伝うことある?」 「へえ、珍しい。明日、槍でも降るんじゃないの」  言われてみれば、自分から手伝いを申し出たのはこれが初めてだ。言い訳することを許してもらえるならここで弁解するけど、いつも俺がこたつでうとうとしてる間に悠子が手早く作り終えてしまうから今まで手伝う隙を与えられなかったというだけのことだ。 「簡単なことしかできないけど」 「料理しなさそうだもんね」  悠子はくすくす笑いながら水を入れた土鍋をガステーブルの五徳に置くと、ツマミを回して火をつけた。 「――あ……」  さっきこたつでみていた夢の片鱗が、突然頭の奥から鮮明に蘇ってくる。  忘れられない、思い出したくない、あの日のこと。  真冬の凍えるような、新月の夜だった。月の光すら差さないはずの真っ暗な深夜の空に、まるで生き物みたいに舞い上がって暴れ狂う炎の柱。肌を刺すような熱と、煙の嫌な臭い。無数の火の粉が花火のように落ちてきて、ただただ無我夢中で逃げた。ずっと握りしめていたはずだったのに、気が付くと俺の手は空を切っていた。  いつ、手を離していたんだろう?  振り向いたのとほぼ同時に、神社の柱が大きな音を立てて崩れ落ちた。あの時、悲鳴を上げたのは誰だったんだろう。 「ちょっ……どうしたの?」  両足に力が入らない。気が付くと背後の壁にもたれかかったまま、その場にぺたんと座り込んでいた。五徳の奥で青い火が命をもった生き物のようにちらちらと揺れていて、その動きから目を離すことができない。床についた指先が震えているのが分かる。嫌な汗が背中から噴き出してきて、異様な速さでドクンドクンと脈打つ自分の心臓が耳の中にあるんじゃないかと錯覚するほどひどくうるさい。 「大丈夫? 顔、真っ青……」  悠子が俺の前に座り込んで、俺の視界から青い火が消えた。 「……あ」  大丈夫、と言ったつもりだった。だけど自分の口から出てきたのは、かすれたような声だけだった。  そんな俺を戸惑ったように見ていた悠子は、ふと気が付いたように後ろを振り返り、またこっちを向く。俺が何も言えないでいる間に悠子はすっと立ち上がると、ガステーブルの火を消した。それを見た途端、それまで異常なほどに激しかった動悸が少しずつ収まっていくのが分かった。 「……もう大丈夫だから」  ささやくように呟いて、悠子は俺の背中に手を回してくる。その小さな手がぽん、ぽんとゆっくり背中を叩くと、自然と小さなため息がこぼれた。  まったく、情けないな。未練がないとか、戻りたくないとか、偉そうに言ってたくせにこんなんじゃ。  もう大丈夫だって思ってたのに、俺は今でも火が怖い。  今まで料理上手な女やタバコを吸わない女のところにばかり転がり込んできたのも、本当はそれが理由だった。コンロの火も、ライターやマッチの小さな火もダメで、ストーブもできれば近寄りたくない。そうやってしばらく火を見ない生活を続けていれば、いつかは時間が解決してくれると思っていたんだ。  火を見たのは何年ぶりだったろう。もう思い出せないけど、この火に対する恐怖心は全く寛解などしていなかったことを思い知らされた俺はただ愕然としていた。 「……悪い」  ようやく絞り出した声に、悠子の手がふと止まる。 「手伝わなくていいから、向こうでテレビ見てなよ。すぐできるから」 「うん……」  まだ微かに震えている足をそっと立たせて、のろのろと部屋に戻った。  こたつに潜ると、テーブルに頬を押しつけて目を閉じる。  あんな情けない姿を女に見られて、いつもなら自己嫌悪で消えたくなっているはずなのに、俺の心は不思議と落ち着いていた。あいつは俺の過去に何があったかを知ってるし、俺があの神社にいる理由も分かってる。だからなのかもしれない。  悠子はあれ以来、俺に昔の話を聞こうとしない。ただ単に俺に興味がないだけかもしれないけど、そんなあいつと過ごすこの部屋は本当に居心地が良すぎて、俺はいつも必要以上に油断してしまうんだろう。普段の俺なら、火を扱う場所になんて近寄らないはずなのに。今日だって本当は悠子が帰ってくる前に適当に何か食って帰ろうと思ってたのに、この部屋のあまりの居心地の良さについ夜までうたた寝なんかしていた自分が今でも信じられない。 (気、許しすぎだよな……これ)  悠子にとって俺は得体の知れない赤の他人だけど、それは俺にとっても同じことだ。あいつとはまだ知り合って間もないし、境遇がちょっと似てるとか、悩んでることがちょっと似てるとか、そんなあまりにも些細な理由で一緒にいるだけに過ぎないのに。たったそれだけのことなのに、どうしてあいつの隣はこんなにも居心地がいいんだろう?  お互いの身の上や過去を打ち明けたもののそれ以外には何もない俺たちには、ここまで気を許している俺を説明できるだけの理由がひとつもない。 「ちょっと、寝ないでよ。もうすぐできるから、そこに鍋敷き置いといて」  いつの間にか部屋とキッチンを隔てるドアのところに悠子が立っている。俺はテーブルに顔の片側だけを伏せた姿勢のまま、そっちを見ないで呟いた。 「この部屋、気を遣わなくていいから落ち着く」 「はあ? 少しは遣ってよ」  さっきの優しい声はどこへやら、悠子は吐き捨てるようにそれだけ言うとさっさとキッチンに引っ込んでしまう。  もそもそとこたつから手を伸ばして、すぐ横にある木製の小さなラックの下段からコルクの鍋敷きを引っ張り出した。悠子の部屋は、頻繁に使用する道具はこたつからなるべく移動せずにワンアクションで手に取れるよう、実に緻密に計算し尽された配置計画のもとレイアウトされている。多分これも居心地の良さの理由のひとつなんだろう。  テーブルの中央に鍋敷きを置いた時、玄関からインターフォンのチャイムが響いてきた。 「あれ、誰だろ? こんな時間に」 「なんか通販で買ったのか?」 「ううん、買ってないけど」 「じゃあ出なくていいだろ。アポなしの訪問は居留守、一人暮らしの常識」 「そうだけど、たまに大家さんが来ることがあるんだよね」  言いながら悠子はドアモニターを覗いて、訪問者の顔を確認している。 「知らない人だな……」 「出なくていいよ。変質者かもしれないし」 「でも、結構ちゃんとした格好してるよ?」 「お前は人を見た目だけで判断すんのか? ちゃんとした格好で頭のおかしい奴なんてそこらじゅうにゴロゴロいるだろ」  だんだんイライラしてきて立ち上がり、何か言いたそうな悠子を押しのけてドアモニターの映像を見た。あまり鮮明ではないその画面には、黒いコートの下にスーツを着込んだ一人の男が映し出されている。オールバックの黒髪をかっちりと固めていて、眼鏡の細い銀色のフレームが不鮮明な画面の中でも光っているように見えた。 「……え」  その眼鏡の奥の目を、俺は知っている。いかにも神経質そうな、いつもこっちを監視しているような目。 「なに? あんたの知り合い?」  悠子が隣から不安そうに聞いてくる。俺はそれには答えず、玄関まで早足で歩いて行った。ドアの鍵を開けてそっと押すと、真冬の刺すように冷たい夜風がひゅうっと吹き込んでくる。  そこに立っていたのは、俺より少しだけ背の高い男だった。スーツなんか着たことない俺でも一目で高そうだと思うような、シワひとつないグレーのスーツ。その上に羽織っている黒いコートもいかにも上等そうだ。 「……何しに来た」  俺を見ても顔色ひとつ変えないその男に向かって、なるべく声を抑えて問いただす。 「ご挨拶だな、連絡を寄こしてきたのはそっちだろう」  ほんの少しだけその目が細められ、落ち着き払った声が返ってきた。俺はわざと聞こえるようにチッと舌打ちしたけど、相変わらずそいつは微動だにしない。 「来いとは言ってねーだろ、帰れよ」 「そういうわけにはいかん。ここの家主はどこだ?」 「あの……どちら様で」  はっとして振り向くと、少し離れたところで悠子が困ったように俺たちの様子を窺っている。来なくていい、と言おうとした時、俺の横をすり抜けてそいつが玄関に上がり込んできた。バタンと目の前でドアが閉まる。 「なっ、おい!」 「夜分遅くに失礼致します。私、神と申します。以後お見知りおきを」 「うわあ……」  悠子はあからさまに不審者、いや、変質者を見る目つきになった。 「あっ、申し訳ございません! きちんと名乗りたいのはやまやまですが、事情があって正式な名前を言うことができなくてですね」 「いえ、言わなくていいです。いいので帰ってください」 「信じてください、怪しい者ではありません。私はこの男の知り合いです、話は聞いているのでしょう?」  俺とそいつを何度か交互に見た後、悠子は困惑しきった目で俺を見た。 「ちょっと、どういうことよ?」  ため息が出た。もうどうにでもなれ、と半ばやけくそな気持ちで、腕組みをしてうつむく。 「神様だよ、あの神社が祀ってた」 「……え、ええっ!?」  悠子の口はしばらくの間、あんぐりと開いたままだった。
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