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2-2. 神様
どうしてこうなる。
それほど大きくもないこたつテーブルを、俺、神様、悠子の三人で囲んでいるこの図は何ともシュールだ。テーブルの真ん中には、今しがた悠子が置いたばかりの見慣れた即席の鍋が陣取っている。
「あ、あの……どうぞ。本当に余りものしか使ってないので、とても人様にお出しするようなものではないんですけど」
沈黙に耐えかねた悠子がひきつった笑顔を神様に向けた。
「分かってんならせめて具材のバリエーションくらい増やせよ」
聞こえないように呟いたつもりだったのに、こたつの中で足を蹴られる。
「いってえな!」
「あんた自分の立場分かってんの? 誰のおかげで飢え死にしないで済んでると思ってんのよっ」
「はいはい、すーいませーん」
「ったく、これ食べたらさっさと帰ってよ!」
「言われなくてもそのつもりだって」
それまで俺と悠子のやりとりを黙って見ていた神様は、その時ふと下を向いてため息をついた。
「あ? んだよ」
「……本当に、申し訳ございません。悠子様、貴女には何とお詫びしたら良いのか」
「え、あっ、いえ、そんな。こんなのもう、いつものことで」
悠子はあわてて姿勢を正しているけど、その気の緩みまくった部屋着とすっぴんの顔じゃ全くもって意味がない。俺は黙って鍋から具材を自分の取り皿へ取り分けた。
「この百五十年間、連絡ひとつ寄こさず人間にたかってフラフラしていたこいつが、ようやく自分から近況を報告してきたもので、少し期待していたのです。やっとこの町から離れて私の元で真っ当に生きていく決心がついたのか、と。しかしとんだ期待外れでした、こいつは何ひとつ変わっていない」
「え、報告って……あんたが?」
悠子の指が、こたつ布団の中で俺の服の裾を掴んできた。
「人間に身の上話したの、お前が初めてだったからさ。一応報告くらいはしておこうと思って」
「いつの間に? って言うか……どうやって連絡取ったの? 念力とか?」
「いや、ラインで」
「ええ~……」
何かいろいろ言いたそうな顔をしているものの、少しの間の後に悠子は小さくため息をつく。
「そう言えば前から気になってたんだけど、あんたのスマホの料金って誰が払ってんの?」
「ちょっと前までは人間の女の子に払ってもらってたけど、今は神様持ちだよ。正確には総本宮の宮司が払ってる」
「え、それって……どういう」
まだ聞きたいことがありそうな悠子から顔を逸らして、取り皿からしなしなになっている白菜を箸でつまみ上げた。
「ここの住所までは教えてないのに、よく分かったな」
「GPSくらい切っておけ。それがなくても、貴様の居場所を突き止めることなど俺には造作もないがな」
ストーカーかよ。
「けどまあ、ずいぶんと久しぶりじゃん。ラインの返事もなかったし、もう俺のことなんて死んだものとして黙殺するつもりなのかと思ってたけど」
神様の眉がぴくりと動いたのを俺は見逃さなかった。
「たわけが、聞きたくなくても耳に入ってくるほどひどい噂になっているからな。貴様の素行が最悪なせいで周囲からの俺に対する評価まで下がっていることを理解しているのか?」
「まーたその話? しょうがねーじゃん、俺だって好きでやってたわけじゃないし。生きるために仕方なくやってただけだよ」
「自分の記憶に閉じこもっていたのは貴様が自分で決めてしていたことだろう。貴様の感傷に付き合わされて何も知らずに金を貢いでいた人間たちが不憫でならんわ」
バン、とテーブルを叩く音に、隣の悠子がびくりと肩を震わせる。しまったとは思ったけど、俺は神様の方へ顔を向けて言い募った。
「聞き捨てならねえな。俺だってタダで面倒みてもらってたわけじゃない、ちゃんとそれに見合った対価は払ってきたぞ。身体で」
「貴様のしていたことは神の使いにあってはならぬ行いだ。貴様には神の眷属としての自覚がないのか」
「うるせえな、食っていくためには手段なんて選んでられないんだよ。神様には分かんないだろうけどな、俺みたいな底辺には自覚だのプライドだの最初からねーっての」
「……呆れたな。たった百五十年でここまで落ちぶれるとは」
「悪いな、がっかりさせて。とにかくもう帰れよ。今の俺の主はこいつなんだからさ」
言いながら悠子の肩をこっちに引き寄せると、間髪入れずにビンタされた。
「いてっ!」
「何すんのよ!」
「お前なあ、こういう時は合わせろよ。空気読めって」
「何が空気よ、せっかくあんたのこと心配して様子見に来てくださったんでしょ? なのにさっきから黙って聞いてれば、うるせえだの帰れだの、一言くらいありがとうございますって言えないの? 子供じゃないんだから」
「前に俺のこと子供だって言ってたの誰だよ」
「だから、そういうところが子供だって……」
まずい、完全に売り言葉に買い言葉だ。悠子と言い合いになるとどんどん話が明後日の方向に脱線していって、最後には軌道修正が不可能になっていることがしょっちゅうで、それは俺も悠子もよく分かっているはずなのに。
「いい加減にしろ。貴様は今俺と話しているんだろう、悠子様を巻き込むんじゃない」
どう軌道修正すべきか考え始めたところで、神様が絶妙のタイミングで話に割り入ってきた。内心ほっとしながら悠子から離れると、悠子はこっちを見ないようにしてお茶を飲んだ。どうやら、悠子も心の中ではほっとしているらしい。
「それより、その頭はなんだ」
「え?」
安心したのも束の間、神様の小言はまだ終わっていないどころか新たな問題をほじくり返そうとしているようだった。
「貴様の髪の色はこの国だと目立つから染めろと、何度も言っただろう」
「ああ、これ? ちょっと前までは染めてたよ。でも地毛のままがいいって悠子が言うから、戻した」
何気なく指先でつまんだ前髪は、見慣れた白っぽい金色をしている。
そうなんだ。
『この色は、前まで面倒みてくれてた子の好み。あんたが嫌なら変えるよ。どうする?』
あの時そう言ったのに、それに対する悠子の答えは『どうでもいい』だった。自分の好きにすればいいと、何とも気のない返事にあの時ははっきり言って興醒めしたけど、今は感謝していたりする。正直あの時の茶色い髪は俺自身似合ってないとずっと思っていたけど、生活の面倒をみてくれている子がその色がいいと言っていたから逆らうことはできなかった。その前まではずっと黒い髪にしていたけどこれもまた似合ってなくて、周りの人間たちから浮かないためとか飼い主の好みに従うためとか、頭では分かっていても鏡を見る度いつも憂鬱だった。やっぱり生まれつきの色がいちばん俺に合っていると思う。
だから、悠子にああ言われた時は本当に嬉しかった。自分に興味のない女に飼われることは、こんなにも心地いいものなのか。それはそれで複雑ではあるけど、今まで感じたことのない居心地の良さに満たされている悠子との今の生活が、俺は嫌いじゃなかった。
「す、すみません……」
俺の隣で悠子が小さくなって頭を下げている。俺の髪の色のことを謝っているようだ。
「なに謝ってんだよ、いいんだよ。それに金髪が目立つって、それもう百年以上前の時代の話だろ? 今時、このくらいそのへんにいくらでもいるって。なあ」
同意を求めて悠子の顔を覗き込むと、じろりと無言で睨まれた。あわてて神様の方へ向き直ると、今度はそっちから説教が飛んでくる。
「そういうことを言っているんじゃない、貴様の心がけの問題だ。少しでも目立たないよう、自分の普段の振る舞いを考えろと言っているんだ」
「神様の方こそ、もう少し柔軟に物事考えた方がいいんじゃねーの? 世間の常識なんて時代の流れと一緒にどんどん変わっていくんだから。頭固すぎなんだよ、昔から」
「頭も下半身も緩い貴様に言われたくない」
「ああ? もっぺん言ってみろ!」
頭に血が上り、テーブルに身を乗り出した俺を後ろから悠子が制した。
「ちょっ、やめてよ! あんまり騒ぐとお隣さんに迷惑だから……」
「申し訳ございません」
神様は襟を正しながら俺から目を逸らした。悠子に腕を引っ張られ、俺は黙って元の位置に座り直す。
まったく、本当に昔から全然変わってないな。頑固で堅物で融通利かなくて、いつも俺の神経を逆撫でするような言い方しかしない。正論しか認めず、もっともだと思うようなことしか言わない神様が、俺は昔から大の苦手だった。まともに話し合いなんてできた試しがなくて、腹を割って話したところでどうせ向こうは俺みたいなちゃらんぽらんの言うことなんかに最初から耳を貸す気がないのは分かってたから、いつからか俺はできる限り神様と話すことを避けるようになっていた。そんな俺の態度に気付いているのかいないのか、神様は忙しい人だから滅多に顔を合わせることもなくなり、俺たちは次第に必要最低限の話しかしないようになっていって、そんな時にあの大火が起こったんだ。
あの神社は神様が普段いる総本宮の分社で、しかも当時はひどく貧しい田舎に建っていたから、あの時も神様はあの場所にはいなかった。あの場所にいたのは、俺と、あと。
『ほら、もう行くぞ』
『……まだ行かない』
三日間も狂ったように燃え盛っていた炎がようやく鎮火された夜明け、瓦礫から立ち昇る細い煙をただ茫然と見ていた俺の横で、神様はしばらく黙って立っていた。どれくらいの間そうしていたのか、ようやく神様の方から声をかけてきたけど、俺は煙から目を逸らさずに返す。あの時の俺は髪も顔も服も煤で真っ黒になっていて、いつもの神様だったら早く洗えだの着替えろだのやかましく言ってくるはずだったけど、あの時はそんなことは一言も言わなかった。ただ、
『俺は先に戻っているからな。ちゃんと帰ってこいよ』
それだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
『分かってる』
それっきり、俺と神様はこの百五十年間ずっと会っていない。俺が飼い主を変える度にどこで嗅ぎつけてきたのか知らないけど神様からは何度か手紙や電話があったし、今俺が使っている端末も元は神様が送ってきたものだ。連絡を寄こせ、という意味だったんだと思うけど、俺の方からは一度も連絡をしないまま百五十年が経った。
別に、神様との間に険悪な何かがあったというわけではない。この百五十年、目まぐるしく変わる現世で人と交わって暮らすうち、俺の中であの時のことがひどく遠い昔にあったことみたいに感じられるようになり、思い出すことがほとんどなくなってきたという、ただそれだけのことだ。あの大火が起こる前まで神社で暮らしていた時の俺と今の俺では時間に対する感覚が明らかに違っていて、多分これは人間の感覚に近づいているということなんだと思う。神様が心配しているのも本当はそれなんだって知ってる。俺が人間に近い存在になっていくことを、ずっと気にかけているって。
「……悠子、冷蔵庫に入ってるビール飲んでいい?」
ふらりと立ち上がると、悠子は少し困惑したような目で俺を見上げた。
「え? うん、いいけど……」
「悠子も飲む?」
「私はいらない」
「ん」
二人の視線を背中に感じながら、キッチンに向かう。神様は何も言ってこなかった。
だから来てほしくなかったんだ。神様を見ると、あの時のことを嫌でも鮮明に思い出す。ただでさえここ最近はあの夢をまたみるようになって参っているというのに。
嫌なことを一時的にでも頭から追い出すためにアルコールに逃げるのは不本意だけど、今はこれしか方法がない。
ほんの一秒でもいい、あの時のことを忘れたい。
冷蔵庫を開けると、冷たい白い光がビールの缶を照らしている。無機質なその光の色に、何故かほっとした。
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