第2章 きみのこと

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2-3. 後悔  ……頭が痛い。  重い瞼を半分だけそっと上げると、こたつ布団で視界が覆われている。いつの間にかこたつで眠っていたらしい。酒に強い方ではないけど、缶ビール一本で寝るほど弱くもなかったはずだ。やっぱり、このこたつの魔力のせいなのだろう。ほどよく温まった身体はいつもよりアルコールの巡りが早いような気がする。  起き上がろうとしてやめた。俺が背中を向けている方から、ひそひそと囁くような話し声が降ってきたからだ。 「あの、気になってることがあるんですけど」 「何でしょう?」  寝たふりを続けたまま、二人の話に耳を傾けた。 「神様は事情があって正式な名前を言うことができないと、さっき言ってましたよね。どういうことなんですか? こいつも名前がないって言ってたから、ちょっと気になってて」  悠子の声だ。考えてみれば、俺よりも悠子の方が神様に聞きたいことがたくさんあるだろうに、さっきは悠子に質問させる隙も与えずに俺と神様が口論してたから何も聞けなかったのだろう。悪いことしたな。今俺が起きて話に加わっても同じことの繰り返しになるだけだろうし、黙ってこのまま狸寝入りしてた方が良さそうだ。 「私共にとって、名前とはただ単に個人を識別するためにつける呼称でしかないというわけではありません。本来、名前は自分以外の誰かからもらうもの。そしてその名前を自ら名乗るということは、その誰かとの関係に自分が特別な意味を持っていると示す行為でもあるのです」  相変わらず回りくどいご高説を垂れている。もっと分かりやすく言えないのか。 「はあ……」  悠子の気のない返事からも、俺と同じことを思っているのが窺える。つい笑ってしまいそうになるのを必死に堪えながら、静かに寝息を立てた。 「例えば私が自分の名前を名乗ることができないのもそれが理由なのです。私を神として祀る神社は日本全国に数多あり、その土地によって呼び名や出自にまつわる伝承が無数にあるのです。それなのに私を信仰する民のうち一部の特定の者たちだけがそう呼ぶ名前を私が自ら名乗ってしまったら、私を他の呼称で呼ぶ民の信仰心を裏切ることになってしまう。だから私には名前がないのです、表向きには」 「呼び名はたくさんあるけど、本当の名前はないってことですか?」 「そのように解釈してくださって結構です。私の呼称のひとつも総本宮の名前もおそらく悠子様はどこかで一度は耳にしたことがあるかと思いますが、ここで私がそれを自ら名乗ることはできないということだけは、どうかご理解ください」  悠子は何も言わなかったけど、おそらく無言で頷いているんだろう。俺に負けず劣らず、悠子も考えるのが苦手なのはよく知ってる。普段は偉そうなこと言ってるくせに、実はかなり大雑把であんまり深く考えずに物事を判断するし、人の話も聞いてるようで聞いてないってことも。大丈夫かな、こいつちゃんと神様の言ってること理解できてるのか? 「ただ、こいつは違います。こいつは神ではなく神使なので、ちゃんと名前があります。ただ名乗らないだけで」 「どうしてですか?」 「それは、貴女もご存知かと思いますが」 「え……?」 「人間にたかる時、こいつが自分の名前をどうしていたかは聞いていますか」 「あ、はい。女の人の記憶を読み取って、その中にいる大切な人の名前を名乗ってたって」 「やり方に問題がありますが、それも同じことです。面倒をみてもらう間だけその人間たちから名前をもらい、その名前を名乗る間だけはその人間との関係に忠実でいると、それを示すためにそんなことをしていたのです。……とは言え、こいつが本当にそこまで理解した上でそんなことをしていたのかは、甚だ疑問ではありますがね」  分かってるっつーの。  まったく、せっかく悠子の好きなように名前をつけさせようと思ってたのに、あっさり種明かししやがって。  本当は今すぐにでも起きて神様の口を塞ぐべきなんだろうけど、今まで寝たふりしてたことがバレるのはなんか嫌だ。 「お見受けしたところ、悠子様はまだこいつに名前をつけていないようですね」 「あ、ええ……まあ。どうも上手い名前が思い浮かばなくて」 「人間の姿をしている者に名前をつけるのは抵抗があるでしょうが、どうかこいつに名前を与えてやってください。そうすることが、こいつのためでもあるのです」  俺たちにとって名前というものが特別な意味を持っていることくらい、俺だって知っている。だけど俺自身は、自分の名前にさほど大した意味を感じていなかった。  それに今まで俺の面倒をみてくれた人間たちは、俺がそいつらの記憶から拾った名前を名乗るとみんな嬉しそうな顔をしていたし、実際喜んで俺の面倒をみていた。だからそうした方が向こうにとっても俺にとってもいいことなのだと思っていた。  俺が本当は誰かなんて、どうだっていい。  あいつらは俺を通して、自分の記憶の中にいる誰かを見ているだけだ。  その誰かと同じ名前を名乗る俺の世話を焼くことで、自分の心を満たしているだけだ。  だから俺は今までずっと、誰にも自分のことを話そうとは思わなかった。だって、話してそれが何になる? 「あの、でも……神様は、こいつを総本宮に連れ戻すために来たんじゃないんですか?」  悠子が遠慮がちに質問を投げかけている。  そう言えばそうだった。神様も事あるごとに『戻ってこい』って俺に言ってきてたし、今日はわざわざ自分から出向いてくるなんて、とうとう強硬手段に出たのかと思っていたことをすっかり忘れていた。 「そのつもりでしたが、それはこいつの気持ち次第です。こいつが今まで自分のしてきたことを悔い改め、これからはまた私の使いとして周りに恥じない生き方をする覚悟ができているのなら、連れて行くつもりでした。ですが、こいつは何も変わっていない」  悔い改めって、まるで俺が罪を犯したみたいな言い方するな。起き上がって反論しそうになる自分をすんでのところでどうにか堪え、気付かれないように拳をぎゅっと握りしめる。俺が寝てると思って、さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。 「そんなことないんです。変わったんですよ」  意外にも、悠子は神様の言葉を否定した。 「え……」  神様も予想外の反応だったのか、戸惑ったような声だけが返ってくる。何が起こっているのかすぐには分からなくて、俺はただ耳をそばだてた。 「今までのこいつは、早くあの生活を終わらせなきゃって焦ってました。それでもどうしてもあの場所を離れられなくて……ずっと苦しんでたんです。だけど今は違いますよ」 「と言うと?」 「離れられないなら離れなくていい、離れたくないって自分の気持ちに向き合うようになったんです。自分の気の済むまで思い出にしがみついていよう、そんな自分を受け入れよう、そう思ってここで生活してるんです。明らかに今までとは違います」 「……」 「あ、でもこれ、全部私の想像でしかありませんけど。こいつが本当はどんな気持ちでここにいるのかは、こいつ本人に聞かないと分からないし」  あわてて訂正しているその声はいつもの悠子だったけど、俺は正直かなり意外だった。  確かにあの時、今までずっと思ってたことは話したけど、それが余すことなく全部悠子に伝わっているとは思っていなかったからだ。それに悠子は忘れっぽいし、話の半分も覚えているかどうかも怪しいとさえ思っていたくらいだ。  そうじゃなかったんだ。こいつ、俺の言ったことをこんなにしっかり聞いてくれて、忘れないで覚えていてくれてたんだ。  境遇がちょっと似てるとか、悩んでることがちょっと似てるとか、ただそれだけで、それ以外には何もないのに。  しばらく、妙な沈黙が流れた。俺の(演技の)寝息だけがやけに部屋に響いている気がして、わざとらしくならないよう匙加減に気を遣うので精一杯だ。  これ以上この静けさが続くとそろそろまずい、と思った時、微かなため息が聞こえてきた。 「こいつが何故、今になって唐突に連絡などしてきたのか。少し分かったような気がします」  ため息の主は神様だった。その声にはそれまでの硬さが感じられず、いくらか柔らかくなったような気がする。見えないけど、今の神様が少しだけ笑っているのが目に見えるようだ。きっと悠子も。 (あの堅物が笑うとか、今までだったらありえなかったけど……)  何となく、本当に何となくだけど、その場の空気も少しだけ柔らかくなったような気がした。 「先ほども申し上げたとおり私を祀る神社は数多ありますが、その全てが何の問題もなくその地の人間たちの信仰の拠り所となっているわけではありません。かつてこいつがいた神社のように災害に見舞われたまま忘れ去られたり、神社を管理する人間がいなくなってしまったりすることは決して珍しいケースではなく、そこにいた使いの者たちが居場所をなくして俗世に下り、人と交わって暮らすうちに神の眷属としての徳を失う事例が後を絶たないのです」  悠子に気を許したのか、神様はいつになく饒舌になっている。 「こいつにはそうなってほしくなくて、総本宮へ早く戻ってくるよう再三言ってきたのですが、こいつは聞く耳を持たなくて。やっと連絡を寄こしてきたかと思ったら、今度は貴女のような聡明な女性にたかっているとは……全く」 「いえ、そんな。こいつ毎日ずっとここに入り浸ってるわけでもないし、思ってたより負担になってないんですよ。野良猫がたまに遊びにきてるみたいな感覚で」  こいつ、俺のことそんなふうに思ってたのか。悠子に少しでも負担をかけないよう、俺がどれだけ気を遣ってるかも知らないで、よくもまあそんなことが言えるもんだ。俺もこんなこと言えた立場じゃないけど。 「野良猫の方がよっぽど良かったでしょう。こんな図体だけでかい男が何もせず部屋にいたのでは、悠子様が寛ぐ暇もないでしょうし……せめてこいつが家事のひとつもできるようなら、少しはお役に立てたかもしれないのですが」 「それは思いますけど、こいつにそこまで期待してないから平気ですよ」  こいつら、また俺のこと言いたい放題言いやがって。人なんて当人がその場にいなければ陰で何言ってるか分かったもんじゃないな。きっと俺も総本宮の奴らにとんでもなくこき下ろされているんだろう。そう思うと、それをいつも黙って聞いているしかないであろう神様がほんの少しだけ気の毒に思えた。 「こいつ、家事の中でも特に炊事は一切できないでしょう?」 「え? あ、はい……そうですね。私がいない時も電子レンジくらいしか使ってないみたいですし」 「でしょう。では、こいつが火を扱ったことは?」  火。その単語が神様の口から出た瞬間、俺は神様が何を言おうとしているのかすぐさま分かった。 「いえ。その……火、苦手みたいで」  さっきのことを思い出したのか、悠子は歯切れの悪い答え方をしている。 「その様子だと、何か思い当たることがあったようですね」 「仕方ありません。火事なんかにあったら普通、誰だって一生忘れることができませんよ。こいつは私に何も話しませんけど、よっぽど怖い思いをしたんじゃないでしょうか」  いつからか、俺は寝息を立てることを忘れていた。あわてて寝たふりを保ったまま、こたつ布団に顔を押しつける。今の俺、わざとらしく見えたかな。ちゃんと寝ているように見えるだろうか。そんなこと本当はどうだっていいのに、何とか必死でそれだけを考えようとしていた。 「それもあるのですが、こいつはあの大火で妹を亡くしたのです」  頭から冷たい水を浴びせられたようだった。潮が引くように身体中から感覚が抜けていく。 「え……いもうと? こいつ、妹がいたんですか?」  困惑した悠子の声が、ひどく遠くから聞こえてくる。すぐ隣に座っているはずなのに。 「ああ、やはり話していなかったのですか。そんなことだろうとは思っていましたが」  やめろ。  やめてくれ。  あいつの話をするな。 「こいつには双子の妹がいて、かつては私の使いとして二人であの神社を守っていたのですが……あの日、逃げ遅れて」 「……」 「どうすることもできなかったのです、それはこいつも私もよく分かっています。そのはずですが、こいつは妹を救えなかった自分をずっと責め続けているようです。いずれ時間が解決するだろうとは思っていますが、百五十年ではあまりにも短い」 「そんなこと……こいつ、今まで一言も」 「こいつは普段はこんなですが、あの神社での大火の記憶に今も囚われたままなのです。生まれた時からいつも一緒にいて、とても仲が良かったので、無理もありません。こいつがあの神社の記憶に閉じこもっていたのも、妹のことが原因のひとつだったのだろうと思うと、私も胸を痛めていたのですが」  また、ため息が聞こえた。それは神様のものなのか、悠子のものなのか、分からない。 「昔からこいつは頑なな性格で、何を思っているのか私には絶対に話そうとしない。もう少し素直になってくれれば私も力を貸すことができるのですが……特にあの神社が大火に見舞われてからは、前にも増して私の言うことを聞かなくなってしまって」 「頑な……です、か? こいつが?」 「ええ」 「お言葉ですけど、私にはとてもそんなふうには」 「だから私も驚いているのですよ、悠子様。こいつがあんなふうに私に面と向かって反論したり、他人のすぐ横で泥酔して眠ったり、以前は考えられないことでした。しかも自分のことを人間に話したとは、一体こいつにどんな心境の変化があったのかと、連絡を受けた時はいてもたってもいられなかったのです」  神様にも話したことのない、あの日のこと。  あいつはあの時逃げ遅れたんじゃなくて、俺が手を離してしまったから死んだんだ。燃え盛る社から逃げ出した時は確かに握っていたあいつの手は、逃げている途中でいつの間にか俺の手から離れてしまっていた。それに気付いた瞬間のことは、今でも忘れることができない。立ち止まって振り向いたのとほぼ同時に、社の柱が大きな音を立てて崩れ落ちた。誰かの悲鳴が聞こえて、頭の中が真っ白になり、それでも妙に冷静に予感している自分がいたのをよく覚えてる。  取り返しのつかないことをしたのだと。  この光景はきっと一生俺の記憶から消えず、死ぬまで俺を縛り続けるのだろうと。 「……知りませんでした、何も」  悠子が力なく呟く。当たり前だ、悠子には今まであいつのことは一度も話してないし、今後も話す気はなかったんだから。 「知る必要はないのです」 「え?」 「貴女がこいつの面倒をみているからと言って、こいつの過去にまで責任を感じる必要はないのですよ。本来であれば、そもそも私がこんなことを貴女に吹き込むべきではないのです」 「じゃあ……どうして、教えてくれたんですか」 「さあ、どうしてでしょう?」  珍しく、少しだけおどけたような声色で神様が返した。 「よく分かりませんが、貴女には話しておきたいと思ったのです。個人的に」  でも次の言葉を紡いだ声は、いつもどおりの堅物な神様の声だった。 「私がこんなことを言うのもおかしいのですが……こいつを、よろしくお願いします」 「あ、あの、頭上げてください。分かりましたから」  どうやら、悠子に頭を下げているようだ。神様が人間に頭を下げるなんて、総本宮の奴らが見たら失神しかねないな。俺も見えてないけど、見えなくて良かったのかもしれない。  どうすることもできなかった。  神様がさっき言ったことを、俺はあの日から百五十年間ずっと自分に言い聞かせてきた。  どうすることもできなかった。  あいつが死んだのは俺のせいじゃない。  繰り返し、繰り返し、何度も、何度も。あまりに何度も繰り返したせいかその言葉はいつか意味を失い、もはや今の俺の中ではただの言葉の羅列でしかなくなっている。それでも俺は、自分に言い聞かせるのをやめなかった。  どうすることもできなかった、と。  悠子は今、どんな顔をしているんだろう。気にはなったけど、目を瞑って寝たふりを続ける俺にはそれを窺い知ることはできない。  きっとまた、俺を憐れむような目で見ているんだろう。普段は俺に対して同情心なんてかけらも見せないけど、俺には分かる。こいつはそういう奴だから。
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