意外な誘い

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意外な誘い

 3月の始めに薫の両親から会食に招かれた。格式高いフレンチレストランだった。魁斗はきちんとスーツにネクタイ姿で行った。 「小早川先生には本当にお世話になりました」  秋津信五はにこやかに礼を述べた。気まぐれで我儘な薫に付き合うのはご苦労があったでしょうと言われ、魁斗はいえそんなことはと首を振った。 「第一志望に無事に合格できたのも、先生のおかげです」  母親の綾乃も頭を下げた。 「この子は本当に気まぐれで……でも小早川先生に来ていただくようになって、我儘も減りました」  薫は自分が話題に上っていることなど気にする様子もなく、涼しい顔で料理を口に運んだ。 「小早川先生は、教員免許をお持ちだとか」  信五がそう訊くと、ええ免許は取得しましたが指導経験はありませんと魁斗は答えた。  なぜ教師ではなく家庭教師に?そう尋ねられ、魁斗は言った。 「教育実習に行った先の高校で……まあいろいろありまして。僕の教育に対する理想が高すぎました。教員になるのは諦めて塾講師を三年ほど……それから家庭教師に転向しました」  そうでしたかと信五が言った。 「教師をおやりになるつもりはない?」 「そうですね……家庭教師のほうが、生徒さん一人一人としっかり向き合えますし、性に合ってる気がします」  魁斗が笑ってそう言うと、いえねと信五が言った。 「私の知人が私立校の理事長をしていて……小早川先生の話をしたら、とても興味を持ったようで」  信五は魁斗に言った。 「一度、会ってみてはいただけないかと」 「そんな……僕が教員免許を取得したのはもう7年も前のことですし……いまさら現場で通用するとは、とても……」  魁斗が戸惑いながらそう言うと、信五はそうですかと言いながらも諦めきれない様子だった。 「家庭教師より私学の教師のほうが待遇もいいし、収入も安定するのではないかと……」 「父さん。魁斗先生に失礼だよ」  薫が口を挟んだ。 「それに魁斗先生、教師になるつもりはないって言ってるじゃない」 「おっと、確かに。失礼した」  信五はそう詫びると、もし気が向いたらいつでも私に連絡をと言って名刺を差し出した。頂戴しますと魁斗は言って受け取った。裏面に携帯番号が記されていた。 「オフィスでも構わないし、その携帯番号でも」 「ありがとうございます」  魁斗は礼を述べ名刺を胸ポケットに収めると、慌てて自分も名刺を差し出した。名刺交換など滅多にしないので、タイミングがズレてしまった。  和やかな雰囲気で会食を終え店を出ると、信五からタクシーチケットを渡された。いただけませんと魁斗は言ったが、今日は私たちが招待したのでねと言って魁斗の手にチケットを握らせた。 「遠慮しないで。ゆっくり帰って?」  薫がそう言って笑った。  では我々はこれで。そう言うと信五たちは運転手付きの黒塗りの車に乗り込み、レストランを後にした。  魁斗は駅前まで歩いてチケットを使いタクシーに乗った。やはり薫とは住む世界が違うのだなと改めて実感した。言い出したらキリがないし薫を傷つけるだけだが、それでもやはりそう思わずにはいられなかった。  数日後、魁斗のスマホが振動した。覚えのない携帯番号からの着信だったが、応答した。 「はい」 「小早川先生ですか?秋津です」  薫の父親からだった。 「突然失礼。少し君と話したいことがあって、連絡させてもらった」 「先日のお話でしたら、僕はやはり……」  魁斗が口を開くと信五は笑ってこう言った。 「その話はいいんだ。薫のことで……会って話したいことが」 「薫くんに何か……?」  魁斗は信五の意図がわからず、そう尋ねた。 「会った時に話をさせてほしい。都合は合わせるよ。ああ、でもできれば夜のほうがいいな。どうだろう?」 「ちょうど春休みの時期なので、僕はいつでも構いません」 「では金曜の夜、20時に銀座で。マリオンの時計下まで出てこられるだろうか?」 「わかりました。20時にマリオンですね」 「ああ、このことは薫には内密で頼むよ?」 「……わかりました」  通話を終え、魁斗は首をひねった。薫に内緒で薫の父親が自分に会いたがる理由がサッパリわからなかった。  金曜の夜、一応スーツを着て魁斗は銀座まで出た。20時きっかりにマリオン前に信五が姿を現した。 「私も時間には正確だが、小早川先生も正確だなぁ」  信五は感心したようにそう言って笑った。 「人を待たせるのが苦手なので」 「少し歩くけど、構わないか?」 「はい」  信五は先に立って歩き、並木通りにある高級クラブに入った。魁斗はスーツを着てきて良かったと胸を撫で下ろした。VIPルームに案内され腰を下ろしたが、こんな店に入るのは生まれて初めてだったし、およそ落ち着けそうになかった。 「小早川先生は、酒は……」 「少し飲みます。嗜む程度ですが」  美しい夜の蝶たちが優雅に水割りを作ってくれた。信五は人払いをすると、薫のことなんだがと切り出した。 「薫が……人と違っていることは、知っているね?」 「え……?」  意味がわからなかった。魁斗が戸惑った顔をすると、信五は魁斗の目を見てこう言った。 「君も、人とは違っていることを、私は知っている。君と薫が、どういう仲なのかも」 「それは……」  突然そう指摘され混乱し、魁斗は頭が真っ白になった。 「それを咎めるつもりはない。薫には正直、手を焼いている」  信五はため息をついた。 「薫が人とは違っていることを知ったのは……ずいぶん昔だ。初等部の……2年生だったか3年生だったか」  冬場だったと思う。家に帰ってきてもコートを脱ごうとしない薫を不思議に思って妻が脱がせたら……制服は破れてボタンは飛んでいて……何があったかすぐにわかったと。信五はそう言った。魁斗は愕然とした。 「誰にこんなことをされたのかと訊いたが、薫は押し黙って話そうとしなかった。結局、相手はわからずじまいだったが……一度きりではなかった」  信五はそう言って顔を覆った。 「あのとき……恥だと思わず、学校に抗議すれば良かったのに……私たちは薫に起こったことを隠した。薫を守ってやれなかった……」  それから薫は変わってしまった。男子校ということもあったが……誰彼かまわず男と寝るようになった。信五は顔を歪めて水割りを煽った。 「薫はああいう見た目だから……合意なく関係を持った相手もいたようだが……薫が塾嫌いになったのも、そのせいだ。塾の講師に乱暴されて……それで家庭教師をつけることにした。家の中なら安全だと思ったからね」  信五はそう言うと魁斗の顔を見た。 「誘ったのは……薫からだね?」  魁斗はどんな反応を示せばいいのかわからず、否定も肯定もしなかった。 「まあどちらでもいい。ともかく君と薫がそういう関係だってことは……認めるんだね?」 「いつ……お気づきに?」 「確証はなかったが……去年の夏前辺りからだろう?違うかな?」  薫の機嫌が妙に良くなったのはその頃からだからね。毎日楽しそうで……頻繁に外出するようにもなったし。それでピンときた。信五はそう言って笑った。 「さっきも話したが……それをどうこう言うつもりはない。ただ……君に頼みがあって、今日は呼び出した」  信五は魁斗を見てこう言った。 「薫の……目付役を君に任せたい」 「……目付?」 「もう、訳のわからない男を取っ替え引っ替えするくらいなら……身元の確かな君に薫を任せたほうがいい」  お言葉ですがと魁斗は言った。 「薫くんは、誰でもいい訳じゃない。彼には彼なりの基準があって、ちゃんと相手を選んでる」  魁斗は父親にさえ誤解されている薫が酷く不憫に思えてそう言った。 「確かに合意のない関係もあったかもしれないけど……それは事故みたいなものだと薫くんは言っていました。誰彼かまわずとか、そういうのとは違います。それに……」  魁斗は赤くなりながら言った。 「自分から誘うことはそうはないとも……言っていました」  信五は笑った。 「薫のことをよくわかってるじゃないか!君ほど目付役に適任者はいない!」 「それは……お断りします」  魁斗はうつむきながらもきっぱりそう言った。 「僕も薫くんも……好きだから一緒にいる、ただそれだけなんです。誰かに言われてとか頼まれてとか……そういうのは……違うと思う」  信五はしばらく黙り込んで、それから声を出して豪快に笑った。 「小早川くん、君のことが気に入ったよ!私にこんなにはっきりものを言う相手とは、久しぶりに出会った!」  いやあ、痛快だ!信五は嬉しそうに笑った。 「長く社長なんてやってるとね、周りにはイエスマンばかりが増える。君みたいに気骨のある社員がウチにも欲しいよ!」 「失礼をお許しください。ただ、薫くんのことを誤解してほしくなくて……僕は、ただそれだけで……」  魁斗がそう詫びると、信五は真顔で言った。 「いやいや、構わないよ。薫の人を見る目は正しかったってことだ。こちらこそ目付役だなんて、無礼なことを言ったね。許してほしい」 「そんなことは……」  信五は頭を下げてこう言った。 「薫のこと……よろしく頼む。我儘で気まぐれで、扱いにくいとは思うが……私と妻にとっては、それでも大事な一人息子なんだ」 「顔を上げてください。僕にとっても……薫くんは大事な人ですから。大切にします。お約束します」  魁斗は真顔でそう言った。  店を出ると並木通りまで黒塗りの車がやってきて、送って行こうと信五に言われたが、魁斗は丁重に断り礼を述べた。 「お気持ちだけで充分です。今日はありがとうございました」 「こちらこそ、ありがとう。君と話せて良かったよ」  信五はそう言って車に乗り込み、薫のことをよろしく頼むと言った。運転手がドアを閉め、車は走り去って行った。  魁斗はため息をつくと、駅に向かって歩き出した。薫の過去の話を聞きショックを受けたが、それでも薫を大切に想う気持ちになんら変わりはなかった。
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