汚れてなんていない

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汚れてなんていない

 薫の父親から昔の話を聞いて以来、魁斗は薫に会うたびそのことを考えた。小学校低学年でそんな酷い目に遭えば、心が歪んでしまうのも当然かもしれない。魁斗はそう思ったし、以前、薫にとって自分は何人目なのかと考えなしに訊いたことを後悔した。薫を抱くときは、壊れものを扱うような気持ちで優しく接した。  魁斗は腕の中で寝息を立てる薫の頬をそっと撫でた。 「ん……?」  薫が目を覚ました。 「眠っちゃった……」  魁斗の部屋のベッドの中だった。 「まだ眠っててもいいよ」 「ううん。春って眠くなるんだね……」 「春眠暁を覚えずって言葉もあるしね」  薫は魁斗の顔を見て尋ねた。 「新しい生徒さん見るの、いつから?俺の枠が空いたでしょ?」 「4月から。高2の子を受け持つことになってる。今受け持ってる生徒さんのうちの一人は中3になるし、受験生を見るのは毎回プレッシャーだね」 「俺のときも、そうだった?」  薫がそう尋ねると、魁斗は頷いた。 「薫は優秀だったけど……志望校が難関だったからね、やっぱりそれなりにプレッシャーはあったよ。それに家庭教師だけで受験対策する生徒さんって、あんまりいないし」  かもねと薫は頷いた。 「クラスメイトもみんな塾に行ってたし。塾と家庭教師ってヤツも中にはいたけど」 「薫は不安じゃなかった?俺だけで」 「魁斗は教えるの上手だし……塾に行くより全然いい」  薫が少し険しい顔をしてそう言った。魁斗は信五の言葉を思い出した。  塾の講師に乱暴されて……。  魁斗は詫びた。 「……ごめん」 「どうして謝るの?」 「いや、その……薫は塾嫌いだって前にお母さんから聞いてたし」  薫は魁斗の頬を撫でて笑った。 「理由……訊かないんだね」 「嫌いなものは嫌いだろ?理由なんて……」 「レイプされたんだ」  薫はそう言ってうつむいた。 「若い講師だった。たまたまその日、迎えが来るのが遅れて……教室で二人きりなって。それで無理矢理……」  冬だったから、破れた服もコートで隠せた。でも母さんは知ってるし、父さんもわかってるはず。薫はそう言って笑った。 「初めてレイプされたのも……冬だった。アイツら、ちゃんとわかってやってるんだよ。どうすれば自分がしたことバレずに済むかって」  薫は魁斗にしがみついて続けた。 「初めてのときは……終わった後に言われた。誰かに言ったら……殺すって」  魁斗は愕然とした。 「今から思えばただの脅しだけど……喋ったら本当に殺されるって、そのときは思った」  薫は目を閉じた。 「だから……家に帰って母さんに誰にこんなことされたのって訊かれたけど……怖くて言えなかった」 「薫……もういい」 「ソイツからはそれからも何度もレイプされて……でも二度目からは制服を破るようなやり方はしなかった。言うこと聞かないと殺すって。ナイフちらつかせて脅されて……」 「薫……もういいから……!」  胸が苦しくなって、魁斗はそう言うと薫をきつく抱きしめた。 「辛いこと思い出させて……ごめん」  薫の頬を伝う涙を指先でそっと拭って魁斗は詫びた。 「忘れようとしたんだ」  泣きながら薫は呟いた。 「あれは事故みたいなものだったんだって、思い込もうとした。でも……忘れられなくて。あのときの怖い思いがどうしても忘れられなくて……」  それなのに男と寝るなんて矛盾してるよねと薫は言った。 「俺……誰のものにもならないって、ずっと思ってた。それがアイツらに対する抵抗だって思ってた。俺を物のように扱うヤツらのものなんかには絶対ならないって」  薫は魁斗の胸に顔を埋めて言った。 「譲に対してもそう思ってた。けど……魁斗のものにならなってもいいって……誰かのものになりたいなんて、初めて思った……」 「薫……」 「自分でもよくわかんないけど……魁斗のこと、たまらなく好きなんだ……」  魁斗は薫の身体を抱き寄せた。 「多分……俺にとって、魁斗が初めてのひと……こんなに誰かを好きになったの、初めて……」  薫は両手で魁斗の頬を包んで、キスをした。 「ごめんね。俺、身体はこんなに汚れちゃってるけど……心は……初めてだから……」 「汚れてるなんて、言わないで……」  魁斗は抱きしめる腕に力を込めてそう言った。 「薫は汚れてなんていない。綺麗だよ。すごく綺麗だ……」  薫の涙で濡れた頬を優しく撫でながら、魁斗は囁いた。  薫の通う学校は3月半ばが卒業式だった。薫のクラスメイトたちは春休みに卒業旅行などを楽しんでいた。薫はそんな彼らが少し羨ましかった。自分も魁斗と旅行に行けたら楽しいだろうなと思った。魁斗にそう言うと、じゃあ俺たちもどこか行こうかと言われた。 「そんなの……無理だよ。父さんたちがいいって言うはずない。ちょっと言ってみただけ」  魁斗は薫のお父さんに訊くだけ訊いてみるよと言って微笑んだ。 「もうすぐ薫の誕生日だし……お祝いも兼ねて、ね?」  その日、薫を駅前まで送ってマンションに戻ると、魁斗は薫の父親の信五に電話を入れた。3コール目で繋がった。 「小早川です。今、お話ししても大丈夫でしょうか」 「どうしたんだい?」 「薫くんが……僕と旅行に行きたいと。叶えてやりたいと思っていて……お許しいただけないでしょうか」 「それは構わないが……シーズンだし、旅行に行くと言っても今からでは宿が取れないだろう?」  魁斗は確かにそうだとそこでようやく気づいた。 「考えてみたら、そうですね……」  意気消沈したような声で魁斗がそう言うと、信五は笑った。 「宿は私のほうでなんとかしよう。行き先の希望はあるかい?」 「そんな……そこまでしていただく訳には」  魁斗はそう言って、一つお願いがと言った。 「僕の部屋に……薫くんを泊めても構いませんか?一泊でいいんです。お願いします」  信五は笑って何泊でも構わないよ、君は信用残高があるからねと言った。 「では……二泊させてください。薫くんに、少しでも旅行気分を味わってもらいたいんです」 「薫も喜ぶだろう。よろしく頼むよ。日程は?」 「大学の入学式もあるので……来週の金土日と考えています」 「妻にも伝えておくよ」 「ありがとうございます。感謝します」  通話を終えると、魁斗は薫に電話を入れた。 「お父さんの許可が降りたよ。来週末、金土と泊まりにおいで」 「父さんが……いいって?」 「うん」 「どうやって交渉したの?まさか父さん……俺と魁斗のこと、知ってるの?」 「黙っててごめん。実は以前、お父さんに訊かれて打ち明けたんだ。薫とのこと……咎めるつもりはないって言われてる」  魁斗がそう言うと、薫はそうなんだとだけ答えた。 「旅館とかホテルとかは今からじゃ無理だけど……どこか近場で行きたいところがあれば……」 「来週末でしょ?それまでに考えておく」  薫がそう言った。 「うん、薫の好きなところ、連れて行くから」 「……魁斗」 「うん?」 「ありがとう……楽しみにしてるね」 「うん、俺も楽しみにしてる」  ぷつりと音がして、通話が切れた。早く薫の喜ぶ顔が見たかった。  3月の最終の週末になった。初日は薫の希望で横浜まで行くことになった。魁斗はレンタカーを借り、金曜の午前中に薫の自宅まで迎えに行った。 「予算の都合であんまりいい車、借りられなくて。乗り心地は良くないと思うけど……」  一般道から高速に乗ると、魁斗は申し訳なさそうにそう言った。 「ううん。魁斗と一緒ならなんでもいい」  薫が微笑んでそう言った。少し元気がないように感じた。 「体調、良くない?」 「ううん、そんなことない。ベイブリッジ、観たいな」  了解、安全運転で行くからと魁斗は行った。  高速を降りパーキングに車を停め、山下公園まで歩いた。 「ベイブリッジ、夜のほうが綺麗だけど……暗くなるまで待つ?」  魁斗がそう尋ねると、うん、せっかく来たし綺麗なとこが観たいと言って薫は頷いた。時間をずらして近場のカフェで昼食にした。オープンサンドのセットを頼んだ。薫は半分ほど食べてもうお腹いっぱいと言って残してしまった。 「美味しくなかった?」  魁斗がそう尋ねた。舌の肥えた薫にとっては口に合わなかったのかもしれないと魁斗は思った。 「ううん、そんなことない。美味しかったよ?」 「じゃあ……俺、残り食べてもいい?残すのは……もったいないから」 「うん、食べて?考えてみたら……残すのはお店の人にも失礼だもんね」  薫はうつむいてそう言った。やはりいつものような元気がないなと魁斗は思った。  店を後にして二人は公園の中を散策した。春休み中とあって多くの学生風の若者で賑わっていた。 「疲れてない?大丈夫?」 「うん。……ああ、見て。だんだん陽が傾いてきたよ」  二人は早めにベンチに腰掛け、陽が落ちるまで待った。 「今日の薫……なんだか元気がないね」 「そんなことないよ。魁斗の気のせいだよ」 「……そう?」  薫は笑って言った。 「なんたって俺、魁斗の気まぐれ猫だからね、こういう日があってもいいんじゃない?」  魁斗も笑った。 「そうだ、薫は俺の気まぐれ猫だったね」  そんな話をしていると、日没になりライトアップが始まった。18時だった。 「綺麗……」  薫がそう言って魁斗の肩にもたれかかった。 「俺……レインボーブリッジより、ベイブリッジのほうが好き。静かな感じがして、シンプルで……綺麗」  小一時間ほどベイブリッジを眺め、そろそろ帰ろうかと言ってベンチから立ち上がった。車に戻り、高速に乗った。 「魁斗。車……返しに行こう?」  助手席の薫がぽつりと言った。 「え?だって明日は?」 「明日は魁斗の部屋でゆっくりしたい。……ダメ?」 「やっぱり薫は気まぐれ猫だなあ」  魁斗は笑ってそう言った。 「わかった。じゃあ高速降りたらスタンドに寄って、そのまま車、返しちゃうね。……ああ、その前に夕食どうする?」 「魁斗のマンションの近くに、ラーメン屋さんがあるでしょ?あそこに入ってみたくて」  えっ?と魁斗は言った。 「俺は構わないけど……ラーメン屋なんて薫、初めてじゃない?」 「ラーメンは食べたことあるけど……中華料理のお店で」  魁斗はハハッと笑って、入口にでかい龍の置物があるような本格的な中華料理の店でしょと言った。 「そういうとこじゃなくて……普段、魁斗が行ってるお店に行きたいの」 「……了解。中は狭くて汚いけど……味は保証する。ラーメンとチャーハンが美味いんだ」  高速を降りスタンドでガス満にすると、レンタカーを返しに行き、薫の要望どおり駅前のラーメン屋に入った。薫はラーメンを頼み、魁斗はラーメンと半チャーハンのセットを頼んだ。 「チャーハン、ひと口ちょうだい?」 「いいよ」  薫はレンゲですくってチャーハンを口にした。 「どう?」 「美味しい!ご飯パラパラしてる!」 「もっと食べてもいいよ?」  魁斗が勧めると、ううん、ラーメンが入らなくなるからと言って、ラーメンを啜った。 「うん、美味しい!スープあっさりしてて、チャーシューも柔らかくて美味しい!」  薫は満足げにそう言って、スープも飲み干し綺麗に食べ切った。 「美味しかった!お腹いっぱい!」 「口に合ってよかった」  魁斗は微笑んでそう言った。元気がないと思ったのは気のせいだったかと思った。
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