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ご褒美の中身
5月半ばの日曜日、薫は模試を受けに行った。模試は午前中から行われ、終わったのは20時を回っていた。マーク式だったし手応えはあった。成績が返ってくるまでひと月かかった。
結果は志望校8校のうち、全てが合格率80%以上のA判定だった。魁斗の訪問日に薫は結果を報告した。
「良かったね!これで第一志望を変えずにそのままいけそうだね」
魁斗は我が事のように嬉しかった。結果を眺めながら今後の対策を講じていこうと考えた。
「魁斗先生」
薫は椅子に座ったまま上目遣いに声を掛けた。
「ご褒美のこと、忘れてないよね?」
「ああ、俺からしかもらえないモノだったっけ」
魁斗がそう答えると、薫は椅子から立ち上がって魁斗に近づいた。
「ホントに……くれる?」
「俺にあげられるモノなら何でもいいよ?」
薫は魁斗の目を見つめて言った。
「……キスして?」
「えっ?」
思いもよらぬことを言われて、魁斗の思考は停止した。
「俺が欲しいって言ったら……くれるって言ってくれたよね?」
薫は魁斗の両腕を掴んで訴えかけるようにそう言った。魁斗は慌ててこう言った。
「いや、確かにそうは言ったけど……キスなんて、冗談やめてくれよ」
「冗談なんかじゃない。魁斗先生の……キスが欲しい」
「それは……できないよ」
魁斗は薫から目を逸らしてそう言った。
「男同士だから?それとも先生と生徒だから?」
「……両方だよ」
薫は悲しそうな顔をして、魁斗の腕から手を離した。
「じゃあ……せめて、ハグして?それならいいでしょ?」
そう言って魁斗の身体に抱きつき背中に腕を回した。
「ぎゅっとして……?」
魁斗は戸惑いながらも薫の細い身体に腕を回すと、そっと抱きしめ返した。
「もっと……ぎゅっとして……?」
魁斗は妙な気持ちになるのを感じながら、薫の言われるままに抱きしめる腕に力を込めた。心拍数が上がるのを感じた。
「このままずっとこうしてたい……」
薫は目を閉じると、魁斗の鼓動を感じた。
「魁斗先生……ドキドキしてる」
そう指摘され、魁斗は喉元にカアッと熱い何かが込み上げてくるのを感じた。慌てて抱きしめる腕の力を緩め、薫の肩を掴んで身体を離した。
「こういうご褒美は……今回だけだから」
「でも……魁斗先生、ドキドキしてたよ?」
誘うように薫は言った。
「もっと先まで……したくなった?」
「なに言って……」
「俺は……もっとしたい」
薫は背伸びをして、素早く魁斗にキスをした。魁斗は固まって何も言えなくなった。
「ご褒美、もらっちゃった」
ふふっと笑って薫はそう言うと、椅子に腰掛けて机に向かった。
「魁斗先生、模試の結果、持ち帰って分析してくれるんでしょ?」
「ああ……うん」
夢から醒めたような顔をして、魁斗は頷いた。
「じゃあ今日は何ページから始める?」
涼しい顔をして、何事もなかったかのように薫は訊いた。魁斗は頭が混乱し、その日はまともに勉強を教えることができなかった。
秋津家を出るとき、いつものように母親の綾乃が玄関まで見送ってくれたが、魁斗はまともに顔を合わせることもできなかった。罪悪感のようなものを覚えた。教え子を抱きしめてあれほどまでにドキドキした自分がどうかしていたのだ。しかも相手は高3の男子生徒だ。魁斗は駅まで帰る道すがら何度も頭を振った。しかし薫を抱きしめた感触はずっと腕に残って消えなかったし、薫の柔らかな唇の感触も残っていた。あの瞬間、心地よいとさえ感じた自分は異常なのではないかと思った。
魁斗は中高と男子校で、女子のいない男子校ではそういう趣味のある生徒も少数ではあったが存在したし、噂も聞いた。実際バスケ部の後輩から告白された経験もあった。もちろん断ったが、やはり共学にはない独特の雰囲気が男子校にはあった。薫は小中高一貫の男子校育ちだ。そういう趣味があってもおかしくはない。今後どのように薫と接したらいいのかわからず魁斗は途方に暮れた。しかしいまさらこのタイミングで受験を控えた薫の指導を放り出す訳にもいかなかった。キスをしたあといつも通りの薫に戻ってくれたことが唯一の救いではあった。こちらもあれはなかったことにして、今までどおりに接していけばいいのかもしれない。そんなことを考えつつ電車に乗り最寄駅のコンビニで弁当を買いマンションに帰った。味もよくわからず弁当を食べ、寝支度をしてベッドに横たわった。
もっと先まで……したくなった?
恐ろしく綺麗な顔をした薫の誘うような囁きが蘇ってきて、また喉元まで熱い何かが込み上げてくるのを魁斗は感じた。同時に下半身が反応してきて自分は一体どうなってしまったのかと戸惑った。その夜、魁斗は我慢しきれず薫のことを考えながら自分自身を慰めた。こんなことをしている自分はどうかしていると思いながら。
翌日は土曜で休みだった。スマホが振動する音がして目が覚めた。幼馴染の菜月からのメッセージだった。百貨店に勤めている菜月は魁斗の三つ下で、子供の頃からよく一緒に遊んだ仲だったし、今もこうして付き合いがある。相談したいことがある、仕事から上がったら会えないかとのメッセージだった。いいよわかったと返信をし、21時過ぎに菜月の勤める百貨店近くの居酒屋で会う約束をした。
時間に少し遅れて菜月が店にやって来た。
「ごめんね急に呼び出して」
菜月はそう言いながら、先に中ジョッキで生ビールを飲んでいた魁斗の向かいに腰掛けると、店員に生くださいと声を掛けた。
「腹減ってるだろ?適当になんか頼むか?」
メニューを開いて魁斗がそう尋ねると、うんそうだねと言って生ビールを運んできた店員に何点か料理を注文した。
「相談したいことって?」
魁斗が訊くと菜月は生ビールに口をつけてから切り出した。
「実は……海藤さんから、付き合ってほしいって言われて」
「渉が?」
海藤渉は魁斗の大学時代からの友人で、在学中から女性関係が派手なことで知られていた。高身長で人気俳優似の渉は引く手数多で、絶えず女性を連れ歩いていた。
渉と菜月は魁斗を介して知り合い、渉からも菜月のことが気になるという話は聞いていたが、いつものように遊びだと思っていた。魁斗は大事な幼馴染の菜月にちょっかいを出すなと釘を刺したのだが、今回はどうやら遊びではなく本気のようだった。というのも、渉から交際を申し込むことなど今までなかったからだ。自分からアプローチをせずとも、周りの女性が渉を放っておかず、来るもの拒まずな渉はいつもそれに乗っかるだけだった。
「最初はメッセージとか電話だったんだけど……近頃は勤め先まで来て……付き合ってほしいって」
魁斗は運ばれて来た料理に箸をつけながら、菜月はどう思ってるのと訊いた。
「魁斗の友達だし……悪い人ではないと思う」
「まあね、女関係は派手だし、取っ替え引っ替えしてはいたけど、二股かけてたことは一度もないし、別れる時も綺麗に別れてた。それに菜月の言うとおり、悪いヤツじゃない。いいとこもたくさんある」
菜月も料理を口に運びながら頷いた。
「それに俺の知る限り、アイツ自分から告白することなんて……多分、今までなかったんじゃないかな」
魁斗はそう言って生ビールを飲んだ。
「渉は菜月に本気だと思う」
「うん……」
頷きながらも浮かない顔をしている菜月に魁斗は尋ねた。
「菜月は……渉のことが、好きじゃない?」
「嫌いじゃないよ?でも……なんていうか、お付き合いとかそこまでは……」
「誰か、他に気になるヤツがいる、とか?」
魁斗は微笑んでそう訊いた。
「菜月ももう26だもんな。そういう相手がいたって不思議でも何でもない」
「うん……」
「渉には、そう伝えて断ればいいよ。曖昧にしてるよりよっぽどいいし、アイツもあっさりサッパリなタイプだから、わかってくれると思うよ?」
ジョッキのビールを飲み干して、魁斗は店員に生くださいと声を掛けた。
「菜月は?ビールぬるくなっちゃっただろ?何か他のもの頼む?」
「そうだね。じゃあグレープフルーツサワーお願い」
魁斗は生ビールを運んで来てくれた店員にサワーを追加で注文した。渉の話はそれで終いにして、互いの近況報告などした。
「そっか。受け持ちの生徒さん、そんなに頭がいいんだね」
薫の話をすると、菜月は感心したようにそう言った。「模試でオールA判定なんて……魁斗の指導がいいのもあるんじゃない?」
「俺が教えなくても、教科書と参考書と、普段の学校のカリキュラムで充分な気もするけどね。ただ……」
「なあに?」
「いや、小中高一貫の男子校に通ってると……まあいろいろあるみたいで」
酒の勢いも手伝って、魁斗は薫からキスを迫られたことを菜月に話した。
「えー?それで、どうしたの?」
「もちろん断ったよ。まあ……断りきれなくて、ハグはしたけど」
そのあと唇を奪われたことはさすがに言わなかった。
「難しい年頃だもんね。周りに女の子がいない環境が12年間も続いたら……そりゃそういう感じになるのも不思議じゃないね」
菜月は両手を組んで顎を乗せてそう言った。
「でも……魁斗はやっぱり優しいね。その状況下でハグしてあげるなんて、普通できないよ?」
魁斗は普通はできないと言われ、ドキッとした。
「そうかな?」
「そうだよ。誤解させちゃうかもしれないし……でもそういう魁斗、私は好きだな」
菜月がそう言うと、魁斗は惚れるなよ?と笑って言った。
店を後にして、二人は駅で別れた。菜月は魁斗の後ろ姿を見送りながら小さく呟いた。
「魁斗のバカ。……鈍感なんだから」
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