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賢い猫
「じゃあ、反発係数が1より小さいときはどうして運動エネルギーが保存されないかというと……」
魁斗が先を続けようとすると、薫がつまらなさそうに答えた。
「衝突時に物体同士の摩擦等により運動エネルギーが熱エネルギーに変換されるから、でしょ?」
「うん、正解。だから運動エネルギーの合計で見ると衝突前後でエネルギーが減ることが分かるよね?運動量は保存するけど運動エネルギーが保存されないものが試験にはよく出題されるから、気を付けていこう」
魁斗は腕時計を見た。21時前だった。今日はここまでにしようかと言った。
教え子の薫は飲み込みが早く、賢い。自分が家庭教師をする必要はないのではないかと思うことすらある。薫は塾が嫌いで家庭教師がつくようになったのは小学校中学年の時からだと聞いているが、果たしてその必要があったのかも疑問に思う。大学入試を来年に控えた薫だが、受験生にありがちなピリピリとした雰囲気も全く感じられなかった。
「魁斗先生」
薫が参考書を閉じながら言った。
「今度の模試の結果が良かったら……何かご褒美くれる?」
「ご褒美か。残念だけど僕は薫くんが欲しがるような物は買ってあげられないよ。ねだるならご両親にねだって?」
魁斗は笑ってそう言った。薫の家庭は裕福で、父親の秋津信五は大手商社の社長だ。欲しい物があるなら親にねだったほうが確実なのは明白だった。
「魁斗先生からしかもらえないモノもあるんだよ」
薫はふふっと笑って言った。
「俺が欲しいって言ったら……それ、くれる?」
「え?俺からしかもらえないモノ?何だろう?」
魁斗は首をひねって考えた。
「さっぱりわからない。薫くんの欲しいものって?」
薫はまたふふっと笑うと、結果が良かったら教えてあげると言った。
荷物をリュックに収めると、じゃあまた、今度は水曜日の19時からだねと言って魁斗は薫の部屋のドアを開け廊下に出た。シャンデリアのついた吹き抜けの階段を降りると、薫も後を追うように降りてきた。薫の母親の綾乃が奥のキッチンから出てきた。
「小早川先生、今日もありがとうございました」
「次回は水曜日の19時からです。よろしくお願いします」
「薫の勉強のほうは、どうですか?」
綾乃がそう尋ねると魁斗は笑顔でこう言った。
「飲み込みが早くて、とても優秀です。僕も教え甲斐があります。この調子でいけば、第一志望も問題ないでしょう」
綾乃は微笑んで言った。
「薫、小早川先生のことが好きみたいで。こんなに長く同じ先生に見ていただくの、実は初めてなんですよ」
「そうなんですか?」
綾乃は薫のほうを振り返ってからこう言った。
「この子、気まぐれで我儘で。小3の時から家庭教師の先生についていただいてるんですけど……気に入らないとすぐに代えてほしいって、我儘ばっかりで」
「相性ってあるでしょ?」
薫が笑ってそう言った。
「魁斗先生とは気が合うから、チェンジしたいなんて思わない」
「それは嬉しいな。これからもよろしく」
魁斗は笑顔でそう答えると、じゃあ僕はこれで。失礼しますと言って靴を履き玄関を出た。高級住宅街の一角に秋津家はあった。敷地には車が三台ほど置けるガレージがあり、二台の外車が止められていた。自分には縁のない世界だなと、秋津家に来るたび魁斗は思った。
曲がりくねった坂道を下り、駅前に出た。改札を抜けホームで電車を待っていると、ポケット中のスマホが振動した。薫からのメッセージだった。
「結果良かったら、俺の欲しいモノ、ちょうだいね」
魁斗先生からしかもらえないモノもあるんだよ。
先ほどの薫の言葉を反芻したが、さっぱりわからなかった。わからないながらも返事をした。
「わかった。薫くんの欲しいモノ、成績良かったら贈るから」
きっとだよと返ってきた。了解と返しているとホームに電車が滑り込んできた。乗り込んで反対側のドア傍に立つと扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
今年29になる魁斗は大学在学中に教師を志していたが、教育実習に行った先の高校で理想と現実のギャップを思い知らされた。問題のある生徒の対応に追われ、ストレスでノイローゼになる教員もいると聞いたし、実習生である自分もヤンチャな生徒たちの洗礼を受けた。心根が優しく真面目な魁斗は自分にはとても務まらないと思い、教員免許は取得したものの教員採用試験は受けず、学習塾の講師になった。そのほうが教師になるよりも気が楽だった。三年塾講師を務め、プロの家庭教師に転向した。塾講師は比較的若い人材が重宝され、長く勤めることは難しいことが予想されたからだ。生徒は派遣会社が紹介してくれるので、自分で見つける必要もなかった。
家庭教師になり三人目の生徒が秋津薫だった。当時高1だった薫に初めて会ったとき魁斗は、ずいぶん綺麗な顔をした子だなという印象を強く受けた。顔が小さく手足が長く、もう少し身長があればモデルかタレントになってもおかしくないくらいのルックスだった。そして恐ろしく頭が良かった。自分が教えなくても教科書や参考書を読むだけで充分内容を理解できる賢さがあった。しかし塾嫌いの薫を案じて両親が家庭教師を望み、小3の時からつけるようになり、そのままずっと家庭教師に勉強を見てもらっているようだった。
薫は小中高一貫の私立学校に通っており、薫の学習能力からすれば学校のカリキュラムだけでも大学受験対策は充分なのではないかと魁斗は思っていた。唯一心配なことといえば、薫はやたらとムラっ気があり、気分が乗らないと勉強を放棄したがる癖があった。今までの家庭教師がそんなときにどうしていたのか定かではないが、魁斗は決して無理強いはしなかった。薫の気分が乗らないときは雑談をして過ごした。それだけ薫の能力の高さを買っていた。焦って無理強いせずとも充分、遅れを取らずに勉強についていける賢さが薫にはあった。
一人暮らしのマンションの最寄駅で電車を降り、魁斗は駅前のラーメン屋に入った。22時を回っていた。ラーメンと半チャーハンのセットとビールを頼んで遅い夕食にした。
魁斗の受け持ちの生徒は薫だけではなく、あと三人いた。月水金の18時までは別の生徒、19時からは薫、火曜と木曜に二人の生徒だった。薫の前の時間の生徒は中2で高校受験対策のために家庭教師をつけていた。成績は中の中くらいで、薫に比べればごく平凡な生徒だった。他の曜日は学習塾に通っており、その塾の補習のような形で勉強を見ていた。志望校も高望みはしておらず、このまま順調に行けばほぼ合格ラインにあると魁斗は思っていた。火曜と木曜の生徒は中1と高1で、二人とも学校の授業について行けるようにと親が家庭教師を希望していた。
食事を終えビールを飲み干すと、魁斗はマンションに帰った。1Kの部屋だった。歯を磨きシャワーを浴び髪を乾かしてベッドに横になった。
魁斗先生からしかもらえないモノもあるんだよ。
先ほどの薫の言葉が再び脳裏をよぎった。何をねだるつもりでいるのかさっぱりわからなかった。安易に贈ると約束をしてしまったことをほんの少し後悔しながら、魁斗は眠りについた。
「なあ……薫」
自分の隣に裸で寝ている薫に譲は手を伸ばして語りかけた。
「俺たち……やっぱり付き合ってないの?」
薫は譲の手を払いのけると、俺たちってくくるのやめてくれない?と言った。
「俺は俺、譲は譲、でしょ?」
譲の部屋のベッドの中で身体を重ねたあとのことだった。
「じゃあ、なんて言えば満足?」
譲がそう尋ねると、薫はふふっと笑ってこう言った。
「そうだね……俺たち、じゃなくて、俺とお前、とか?」
「じゃあ言い直す。……俺と薫は、付き合ってないの?」
薫は仰向けになると譲に尋ねた。
「譲の付き合うの定義って、どういうこと?まさかデートしたりとか言わないよね?」
「そういうんじゃないよ。ただ……俺だけのものになってほしいと思ってる。俺のことだけ見てほしい」
譲は真顔でそう言ったが、薫はあははと声を立てて笑った。
「俺は俺だけのもので、誰のものにもならないよ?それに譲以外と寝てないし」
譲のほうに身体を向けて、薫は言った。
「今のところはね。……それじゃ不満?」
譲はため息をつき、薫を見つめるとそっと髪に触れた。
「薫は……猫みたいだな。誰にも懐かない猫。けど……構ってほしいときだけ寄ってくる」
薫は何それ?猫ってあんまりじゃない?と言ってまた笑った。
片山譲とは初等部からの付き合いだった。中等部三年の夏に告白され、薫はそのとき、身体だけならいいよと言った。譲はその真意がよくわからなかったが、取り敢えずは受け入れられたと思い、内側から鍵のかかる自宅の自室に誘って薫を抱いた。譲にとっては初体験だったが、薫は譲が初めてではないようだった。ぎこちない譲を終始リードするように抱かれていた薫を、譲は鮮明に覚えている。
身体だけならいいよと言った薫の真意を、譲は悟り始めた。誰のものにもならないという薫の言葉が全てなのだろうと思った。譲はそれでも薫との関係を切るつもりはなかった。抱かれているときの薫はいつも積極的で、何度も求められた。そんな薫を見ているといつか自分だけのものになってくれるのではないかという願望を捨て切れなかった。
譲の父親は国会議員の秘書をしており、母親もそれについて回る生活を送っていて、何日も家を留守にすることが多かった。幼少の頃から毎日通いの家政婦が身の回りのことをしにきてくれた。譲の自宅も高級住宅街にあり、立派な邸宅だった。19時になると家政婦は帰って行き、だだっ広い家に一人残される譲は寂しかった。しかし大きくなるにつれ、両親が家を空けることはむしろ快適になっていった。薫を家に呼ぶときは決まって家政婦にチップを渡し、両親には内密で早めに帰した。今日も夕方には家政婦を帰して、薫とのセックスに溺れた。
「シャワーとタオル、借りるね」
薫は下着を身につけると譲の部屋を出て階段を降り、まるで勝手知ったる我が家のようにバスルームに入った。
「猫ねぇ……」
シャワーを浴びながら薫は先ほどの譲の言葉を反芻した。そんなに自分は猫っぽいのかなと思った。犬より猫派な薫は悪い気はしなかったが、自分のどこら辺が猫のようなのかと不思議に思った。自覚はまるでなかった。
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