福引券はあと一枚

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「福引券はあと一枚か……」 わたしは八角形の木箱に付いたハンドルを握る。ハンドルを回せば、ガラガラと小さな球が音を立てる。やがて、一つ出てくる。その色によって、景品が決まる。 よくある福引がわたしの目の前にある。 狙っているのは、一等賞か二等賞だ。どちらでもいい。三等賞以下には興味はない。 一等賞は自動調理器具。二等賞はマッサージ器具だ。 ここまでの福引の結果は、九回引いて、ポケットティッシュが八個、ボックスティッシュが一個という惨敗だった。 あと一回。それがわたしに残された福引の回数だった。 ハンドルを握る手に力が入る。汗ばむ。震える。喉をゴクリと鳴らして、つばを飲み込んだ。 ――行くぞッ! 意を決して、ハンドルを大きく回す。ガラガラ、と中で球が大きく動く。 お願い……! 思わず、目を強く瞑った。心の中で指を重ねて、祈りを込めに込める。 カラン、と乾いた音が聞こえてきた。おそらく、球が出た音だ。 ――カラーンカラーン 次に聞こえてきたのは、鐘の音だった。福引でいい賞が当たった時に鳴り響く、あの甲高い音だ。 ……やった! わたしは心の中でガッツポーズを決める。 目を開ける。強く目を瞑り過ぎたせいか、光がやけに眩しかった。 「と、とくしょう、特賞ですッ!」 特賞は、温泉旅行だ。二泊三日の、温泉旅行だったはずだ。 世界が暗転した。 心が闇に沈んだ。 「……ない」 「……え?」 法被を着た、スタッフの人が、わたしの声に耳を寄せる。 「いらない」 「……ん? いらない?」 予想だにしない言葉に、スタッフの人の眉間に皺が寄った。 「今、いらないって言ったの?」 「温泉旅行なんていらない!温泉旅行なんて欲しくない!わたしが欲しいのは一等賞か二等賞だけ!それ以外の賞はいらないッ!」 わたしの叫び声が、商店街中に響き渡った。 大粒の真珠のような涙が、わたしの目からボロボロと落ちる。 周囲の大人が慌ただしく、わたしに近づいてくる。 「いらないよ!温泉旅行なんていらないよッ!」 だって、そんなものがあったって仕方がない。 わたしが欲しいのは、自動調理器具かマッサージ器だ。 わたしはまだ小学三年生ということもあり、お母さんからキッチンに一人で立つことを禁止されている。 でも、自動調理器具があれば、お母さんが朝、野菜を切ってくれればいい。放課後、帰ってきてから、それを入れてボタンを押せばご飯ができる。 お母さんが楽できる! マッサージ器具なら、お母さんの疲れを少しでも取ることができる! いつもお母さんは肩をぐるぐる回して、肩が痛いって言ってたから……。 やっと集めた福引券だった。学校のみんなにお願いして集めた福引券だった。お母さんを少しでも休んで欲しくて、そのために集めた福引券だった。 お母さんはわたしを女手一つで育ててくれている。お父さんが病気でいなくなってしまってから、ずっと、ずっと頑張ってくれている。 だから、少しでもお手伝いをしたかった。少しでも力になりたかった。お母さんのために何かをしたかったッ! だから、自動調理器具かマッサージ器具が欲しかった……ッ! お母さんのために……ッ! それなのに、当たったのは温泉旅行。 多くの人は、温泉旅行の方が喜ぶと思う。だけど、わたしは違う! それに、温泉旅行なんて当たったところで行く時間だってないッ! 涙が止まらない。どうしたって止まらないッ!止められないッ! 「どうしたんですか?」 不意に現れたのは、一人の老紳士だった。ハットを被り、茶色いスーツが非常に似合う、優しそうなおじいちゃん、という感じの人だった。 「あの、この子が特賞に当選したのですが、いらないって大泣きしてしまって……」 「ほう……それはそれは」 老紳士はわたしを見るなり、膝を折り、視線を同じ高さに合わせてくれた。 「質問を一ついいですかな?」 老紳士の声に、わたしの涙が自然と止まった。まるで魔法でも使われたように、その人の声に、雰囲気に惹かれる。変な感じだ。 「どうしてあなたは、温泉旅行なんていらない、とおっしゃるのですか」 「……お母さんを手伝いたいの」 「なるほど、お母さんを手伝いたいから、一等賞の自動調理器具が欲しい、ということですか」 「二等賞のマッサージ器具でもいいけど」 「それもお母さんのですね」 わたしは首肯する。 「どうしてそんなにお母さんのためになりたんですか」 「お母さん、わたしのためにずっと頑張ってくれてるから。お父さんがいなくなっちゃって、苦しいはずなのに、頑張ってくれてるから。それなのに、わたしは、わたしは……」 お母さんのために何もしてあげられない。無力だ。無力すぎる。そんな自分が憎い。 奥歯がギリリッと音を立てた。知らぬ間に下唇から血も出ていた。前歯で噛んでしまったらしい。 老紳士は立ち上がると、スタッフの一人に話しかけた。 「温泉旅行はどれくらいの価値のあるものですかな」 「えっと、十万円相当でしょうか」 「ありがとうございます」 お礼を言うなり、老紳士はカバンを漁り始めた。誰もが皆、その姿を見つめていた。 本当に不思議な人だ。一挙手一投足が洗練されていて、美しいと感じる。自然と視線が引き寄せられる。涙が止まる。自分を憎む気持ちが安らぐ。 その老紳士がカバンから何かを取り出した。それに全員が目を丸くした。 取り出したのは、何と現金十万円だった。 「お嬢さん、大変申し訳ないが、わたしは妻と一緒に温泉旅行に行きたいと思っていたのです。この温泉旅行は大変素晴らしい。わたしに売ってはくれないでしょうか」 全員の目が点になった。 「勘違いしないでいただきたい。わたしは君の手に入れた温泉旅行が欲しいので、適正な対価を支払おうとしているだけですよ。決して、君のことを哀れに思ったわけじゃあない。それに、ここなら商店街の方々も大勢いて、証人がたくさんいます。なので、この場で決めていただければと思いますが、いかがでしょうか」 わたしは突然の提案に混乱した。だけど、混乱している場合じゃない。わたしは自分の両頬を叩いて、正気を取り戻す。 十万円もあれば、自動調理器具も買えるし、マッサージ器具だって買える。むしろ、お釣りすらくる可能性がある。 つまり、わたしの願望が、お母さんを手伝いたい、楽にしてあげたい、という想いが叶うということだ! 断る理由はないッ! 「……お願いします!わたし、温泉旅行をあなたに売ります!」 「それでは、契約成立ですな」 わたしは老紳士と固く握手をした。 周囲の大人はたじろいでいた。しかし、老紳士はそれに臆することはなかった。 「それでは早速、この十万円をあなたに。わたしは購入した温泉旅行をいただくとしましょう。それと一つお願いがあります。申し訳ないのですが、この子のこと、お願いできないでしょうか。恐らく、この後、お買い物に行かれるでしょうから。さすがにわたしが付いていくわけには参りません。それが目当てだと思われるのも心外ですからね」 微笑みながら、老紳士はしっかりとした口調で言った。 しかし、法被を着た大人たちは狼狽するばかりだった。早くお買い物に行きたいのに! 「そ、それならわたしが。この子の事、知っていますので」 名乗り出てくれたのは、同じクラスのお母さんだった。わたしも仲良くしている子だったから、何度か話したことがある。それに経営しているうどん屋さんにも何回もお母さんと足を運んでいるから、お母さんとも顔なじみだ。 「それでは、お願いします。何かあれば、こちらにご連絡を。親御さんも心配なさるでしょうから。一応、今、携帯電話に連絡してみてください。嘘ではないことを確認しましょう」 言われるがままに、渡された名刺の連絡先に連絡を入れた。老紳士の携帯が反応し、確認が取れたようだった。 「それでは、これで失礼します」 老紳士はハットを外し、少しだけ頭を垂れると、しっかりとした足取りでその場を去って行った。 わたしはそこではっとした。大切なことを忘れていた。 小さくなっていく、背中にわたしは大きな声で叫んだ。 「どうも、ありがとうッ!」 老紳士は後ろ向きのまま、ハットを外し、どういたしまして、と答えてくれた。 わたしは十万円を胸に抱え、深々と頭を下げた。 ~FIN~
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