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◇
「目が覚めましたか? 氷寄さん」
潔良が目を開くと、すぐ近くに真っ黒なすだれがあった。数秒の間のあと、それが大学での希少な友人、二石楚唄の前髪であることを認識する。
背中全体に、柔らかい感触。
どうやら、自室のベッドに寝かされているらしい。
身体の上から覆いかぶさるような体勢。艶のある前髪が、潔良の鼻先に軽く触れる。嗅いだことのないような、少し変わった香りがした。エスニック系の香水……だろうか?
香草を焚いた煙と、生クリームを混ぜ合わせたみたいに濃厚な甘さが、後味をほぼ残さずに鼻を抜けていく。
「ん? どうしたんですか、……氷寄さん?」
楚唄が怪訝そうに問いかける。逆光で、表情はうかがえなかった。彼が小首をかしげ、さらに身体の距離を縮める。体重がかかり、どこか異郷を思わせる甘い香りが、潔良の思考をぐらつかせた。
「…………顔近ぇよ。離れろ」
「あっ、すみません! 驚かせちゃいましたね……!」
後ろから押されれば、唇が触れてしまいそうなくらいに接近してきていた楚唄を、ぐいっ、と押しのける。知らず、頬に手をやった。誤解されてしまいそうな温度だった。
まさか、そういうことになどなる訳がないけれど。
「いやすみません、本当、心配すぎて……」
ゆっくりと距離を取り、楚唄はマットレスに両手をつく。若干残念そうに見えるのは、あんな体勢になっていたから、自意識過剰になっているだけだろう。
「大丈夫ですかぁ? 具合、悪くないですか?」
ベッドの隅っこに座り直し、ぼんやりとした表情の潔良を、眉を下げて見やった。
「この前住所教えてくれたんで、遊びに来てみたら、氷寄さんがお風呂でぶっ倒れてるんですもん。もう、びっくり仰天で、死んじゃわないかなって思ってぇ」
「あー……ごめん。ってことは、介抱してくれてたんだな。ありがとう」
記憶を手繰り寄せる。服を脱いで、洗髪を始めたあたりから、ふつりとそれは途切れていた。
(――それじゃあ、シャワーを浴びていたときに、体調が悪くなったってことか。日頃の不摂生が祟ったかな)
潔良は苦笑し、ふと、首に手をやった。「……ん」
なんとなく、強張るような違和感があった。
「なあ、二石。なんかさっきから、首がちょっと痛てぇんだけど。ヘンなとこある?」
楚唄はやわらかく微笑む。口元へと左手をやり、言葉につられるように、自らも首筋に、その手を這わせた。
「んー。……特になにもありませんけどね?」
「そっか」
潔良はしばし、そのまま黙っていた。
俯くと、長い前髪が、ふわりと彼の目の前を覆う。
エアコンに視線を向け、自分の肩を、両腕でかき抱く。
「さむいのは……嫌だなあ」
その瞳はどこか、虚ろに濁っているように見えた。
「えっ?」
楚唄が素っ頓狂な声を上げる。「湯冷めしちゃったんですかね? 大変です。冷房、温度下げますね」
リモコンを操作し、卓上に置く。俯いた口元は、ほんの微かに笑っていた。
「大丈夫ですよ。また倒れても、僕がそばにいますからね」
ふふふ、と笑い、そのまま歌うように、続ける。どこか艶っぽい声で。
「今は夏ですよ。まだ。……このままだと今年、越冬できないかもしれませんねえ」
おかしそうに肩を震わせ、潔良の肩を抱く。特になにも不平を言うことなく、彼の頭が楚唄の首元に収まる。
「そのときは。――一緒に、雪に埋もれたねぐらのなかで、睦まじく過ごしていましょうねえ」
潔良が、光のない目で頷く。
「……うん」
楚唄が嬉しそうに微笑む。
その前髪の奥で、真っ黒な瞳が一瞬だけ――妖しい光を、纏った。柔らかい茶髪に伸ばそうとした手が、不意にぴた、と止まる。
「可愛いです。……でもやっぱり、自分から好きになってもらえたら、もおっと愛着が湧きますよね?」
――よし。
「まだですね」
ぼんやりと、形骸的に開かれていた潔良の瞼を、そっと閉じさせる。彼の身体から力が抜け、がくり、と首が前に折れた。
「もう少し、僕は辛抱強くならなくちゃ」
潔良の頬を両の手で包み込み、いとおしそうに、視線を注ぐ。
「なにせ――雪が解けぬままでは、春は訪れないものですからね?」
首すじの、……消えかけた五指の痕を、なぞる。
それがくすぐったかったのか、眠りについていた潔良が軽く身じろぎした。
「おっとっと! マズいマズい、起きちゃいます」
あわてて潔良から離れ、まだ半分寝ぼけている彼が目を擦る様子を、楚唄はにこにことして眺める。
「どう転がっていくのか、僕も楽しみですよ」
潔良がぱちりと目を開け、緩慢な動きであたりを見渡す。「ああ。……寝てた、のか。ごめんな二石、話の途中で」
「いえいえー。全然大丈夫です。なんの話でしたっけ?」
楚唄がけろりとして応える。
冬に深々と積もる雪。
それがいったいどこから来ているのかは、
いずれ――明らかになるのかもしれない。
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