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氷寄潔良は新雪のなかにいた。
びりびりと、身をしびれさせるような寒さ。脛のあたりまで積もった雪で、靴の中までじっとりと湿っている。
深々と降り積もる雪。静寂。まわりには建物も、ひとの姿も、なにもない。
どこまでも続く、平板な雪原。
現代にはなかなか、存在しえないであろう空間だな、と潔良は思った。
……実際どうかはわからないが。
少なくともオレは、こんな場所を知らない。
ここに来た経緯についての記憶も、当然ながら見当たらなかった。
来た覚えなんてない場所に、気づいたらいる――。
それは明白な、異常事態だった。
(……きっとこれは、夢だな)
いわゆる、明晰夢、というやつだろうか? 夢のなかで「夢だ」と分かるなんて、妙なこともあったもんだ。
(ひとまず、足を動かそう。死ぬほど冷たい……)
潔良はひとつ、深呼吸をした。上空をぼんやり見上げる。持ち上げた足が重く、またすぐにそこに戻してしまった。
(雪が本降りになってきたな、どんどん積もる。降っては降っては――歌ってる場合じゃないか)
子どもが図画工作の時間に木工用接着剤で貼り付けた綿みたいな、のっぺりとした雲が一面に広がっている。
そんな現実感のうすい空から、ひらひらとした軽い羽のような雪が、断続的に舞い落ちていた。
実際のそれより、圧倒的に速い積雪のペース。みるみるうちに膝までにじり寄ってきた、真白い地面を眺めていた。なにげなしに、頭のうえにほわりと被っていた綿雪を払いのけようとし、首を傾げた。
「ん? なんか今、……べちょっ、としたような」
頭が急に重くなって、彼はバランスを崩した。不思議なことに、足は抜けない。積もった雪は、太腿の半ばくらいまで迫ってきていた。
「うわわっ!」
慌てふためきながら転倒。潔良はその身体を全て、雪にゆだねる。
――しかし。
それは、彼が思っていたような、常識的な想像の範疇にあるような感触では、なかった。
「なん……だ? コレ……?」
じわりじわりと彼の全身をひたしていく、――黒い、雪。雪?
「……ひッ」
ずぶずぶ、と、彼の肢体が「それ」に飲みこまれていく。悲鳴をあげようと開いた口にも「雪」は流れ込み、喉を通って内部を侵す。
えづく声はもう外界には届かず、体外にも響くことなく、ぐるりぐるりとその場で回転するのみ。
あまりの冷たさとおぞましさに身を繰り返しのけぞらせながら、潔良は生への絶望を見出しかけていた。
(オレ、死ぬのかな……?)
夢の中で死んだら、どうなるんだろう。今まで親しんできたフィクションで描かれていた末路を脳裏に浮かべる。
眠りながらなら、きっと苦痛などないと思っていたのに、なんだ、――これでも苦しいじゃないか。
目を閉じる。眼窩に雪擬きが入って冷たかったが、別に、構わないと彼は思っていた。
冬籠りの熊のようにゆったりと、思考が眠りにつくその前に、――ざく、ざくっ、と。雪を踏む音が聞こえた。
くぐもった声。低い低い、ベースのような声。
潔良は知らず知らずのうちに、その主の名を呼んでいた。
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