第五話 沼

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第五話 沼

   七月三十日(火) 神楽凜  今朝の剛田君は大変だった。ヨレヨレのワイシャツに汚れたスラックス、青白い顔で全身から酒臭さを漂わせていた。そんな状況で始業開始とほぼ同時刻に事務所に飛び込んで来たのだ。  剛田君にしては珍しくギリギリの出社だった。いや、厳密には若干の遅刻なのか。「打刻が九時一分になってしまった!」とか「今までの無遅刻記録が!」とか騒いでいたな。だから慰めて、勤怠管理システムの仕組みを説明してあげたのだが、頑として聞く耳を持たなかったのだ。  斉甲商事の勤怠管理システムには、PCの不調や不意のソフトウェアアップデート確認などを見越して約五分のアローワンスを設けてある。つまり、確かに始業時間は九時なのだが、実質的には九時四分五十九秒までの打刻であれば、遅刻としてカウントされないのだ。  それでも彼は「遅刻は遅刻です!」とか言って聞かないのだ。真面目なのは良い事だが、こうも融通が利かないようでは、正直先が思いやられる。剛田君への評価は再考すべきかもしれないな。もっとも、私はまだ上司ではないのだが……。  そうそう、その場面で意外だった事がある。如月君だ。如月君と剛田君が犬猿の仲である事はもはや周知の事実であるが、彼が剛田君を優しく慰めていたのだ。  私が「もうお手上げか」と匙を投げて自席に戻ってからも、意外なほど献身的に彼に寄り添っていた。そして、何やらコソコソとキラキラしたピンク色の名刺を見ながら二人であーだこーだとヒソヒソ話していたが、あれは何だったのだろうか。まあ、いずれにしても、同期の友情は素晴らしいな。少し見直しだぞ。如月君。  それにしても、今日の剛田君は一日中ボーっとしていたな。如月君のそれとは違う、本当に何も考えていないような、まるで放心状態のような、間抜けな感じで、ボーっとしていた。今日一日何を考えていたのだろうか。まあ、私の知った事ではないな。
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