第五話 沼

10/16
前へ
/73ページ
次へ
 振り返ると、そこには上目遣いの潤んだ目で見つめながら、俺の左袖を指先で掴んだ奥村さんがいた。酒のせいか、顔を赤らめている。栗色のサラサラで艶のある髪は、鎖骨辺りで切りそろえられている。それが風に揺られて、何とも良い香りを放っていた。  薄着のおかげで両肩に微かに透けるブラ紐、そして、その下には、ゆったりとしたブラウスの上からでも分かる、重力を感じさせない立体感のある豊かな双丘……。  可愛い。いや、それは分かっていた。会社でも可愛さ最上位の一角だ。特にゆるふわ系という属性の中では社内随一とも謳われる存在だ。ただ、今まで一度としてこの子が恋愛対象に入ってくる事はなかったのだ。不思議だが、勝手に優しい言葉が口をついて出ていた。 「今から空いてる? 俺で良かったら、相談に乗るよ」 気が付いたら一駅離れたバーに着いていた。ここからは奥村さんと俺、ふたりの秘め事、そんな気がしていたから、遠方のバーを選んだのだ。会社の連中に邪魔されたくなかった。 「オシャレなお店ですね」 「喜んで貰えてよかった」 なんだか、急に自分が「男」になったような気がした。そして、カウンターの隣にいる彼女は、間違いなく「男」の対極にいる「女性」だった。 「さっきのセクハラ、止められなくてごめんね」 心にもない、優しい言葉が出た。 「いえ、それはいいんです。実は、私……」 驚いた、その場で泣き出したのである。オーダーを確認しに来ようとしていたバーテンダーが困惑している。その彼にアイコンタクトを取ってから近づき、伝えた。 「ロングアイランドアイスティーを二つお願いします」 それは甘くて割と強めなカクテルだ。男の本能で理解している。こんな時、女性には甘い物を飲ませておけば、だいたい何とかなる。そしてこの酒、強いのにロングカクテルなのだ。飲み過ぎ注意だ。それは相手も、俺も……。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加