第五話 沼

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「あっ、ごめんね、今日はちょっとこれから用事があって……」 少し求めすぎたのかもしれないと思って反省した。そして、ソウちゃんは何だかバタバタと服を着始めた。今にも帰りそうな雰囲気だった。おかしい。昨日と言っている事が違った。 「えーもう行っちゃうのー『お盆が明けるまで寝かせないよ』って昨日言ってたのにー嘘つきー」 ソウちゃんは何かを探している様子だった。 「ねーえったらー」 すると、少し戸惑ってやや気だるそうにソウちゃんが答えた。 「いやー、あの、その、じゃあまた来週に!」 本心は嫌だった。お盆はずっと一緒にいるって昨日約束したのに、話が違う。 「来週のいつ?」 「来週の、いつか」 出任せを言っているな、と女の勘で感じ取った。もう私に言えるのはワガママしかなかった。 「えーやだ! 何日何時何分何秒地球が何回まわったとき?」 ソウちゃんは自分の靴下を拾い上げると「困ったなあ」という顔をした。分かる。これは「面倒くさい女」を見る目だ。 「じゃあきっかり一週間以内! 別途連絡ちょーだい!」 最大限の折衷案を提案したつもりだった。 「そうだね! じゃあまた!」 そう言うと、ろくに私の顔を見ずに玄関に向かった。その背中には昨日のような激しくて野性的な愛情を感じなかった。このままソウちゃんを無言で見送ってしまったら、何故だか二度とこの、今の「ソウちゃん」には会えなくなってしまって、今までの「如月先輩」に戻ってしまうような、そんな気がした。  気付けば彼の手を精一杯握って引き留めていた。今思えばこの時からだった。私のワガママ癖が暴走し始めたのは……。 「行ってきますのチューして」 またキスをした。なぜか昨日とは違う味がした。 「あと『行ってくるよ、マリちゃん』って言って」 昨日みたいに、もっと名前を呼んで欲しかった。 「……。行ってくるよ、マリちゃん」 「行ってらっしゃい、ソウちゃん!」 そう言うと、ソウちゃんは丁寧にドアを締め、その足跡は次第に小さくなって、最後には消えた。ああ、私、ソウちゃんに沼ってるのかなあ……。
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