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私の復讐を叶えた異形と、彼なりの愛について
首を吊るために山に入った。
三日前の晩、私は暴漢に襲われた。
抵抗も虚しく、身体の至るところを殴られ、きつく押さえ込まれて純潔を散らされた。
血と痣にまみれた顔で生家に運ばれた私を、両親は見るに耐えない穢れたものを見る目で見下ろし、それきりだ。
床に就く私を見舞ってくれた許嫁の啓様は、私の有り様をひと目見るなり顔を歪め、逃げるように部屋を去っていった。帰り際、啓様が私との婚約を解消したいと申し出たという話は、今朝になってから知った。
黄昏に村が染まるよりも先、私は布団を抜け出した。
まだ身体中に痛みが残っているというのに、居ても立ってもいられず、家の裏から細く延びる獣道へ足を踏み入れたのだ。
『此ノ先 立入ヲ禁ズ』
文字が消えかけた古い立て札は、幼い頃の私が、狼などの獣それ自体よりも遥かに恐れていたものだ。だが、私はそれを無視した。見向きもしなかった。
もはや道すらない山に分け入り、これ以上歩けないと感じたところで、がくりと膝が落ちた。
眼前に聳える大木の、太い枝。
それにしようと決めた。
帯を解いて枝に括りつけ、頭がすっぽりと入るくらいの輪を作る。
早く死にたい。早く死にたい。早く死にたい。早く、早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く――狂いかけた頭で一心不乱に輪を握り締めたそのとき、はだけた襦袢の裾が、ひらりと風になびいてはためいた。
その先に、ふと目を奪われる。
黄昏の終わり、ほとんど光の届かない雑木林の奥、おおよそ闇に沈んだ山奥でなぜそれが鮮明に見えたのかは分からない。人外の領域にあるモノだったからなのかもしれない。
「あ、……ああ……」
それは砕けた祠の跡だった。
残骸としか呼びようのない、ただ石が転がっているだけの。
帯の輪から手を放し、私は地に膝を這わせてそれに縋りついた。
私の生家は、村の祈祷を担う唯一の家だ。母は特に強い力を持っている。その血を濃く受け継いだ私もまた、昔から、こうしたモノにはある種の直感が働く。
これは神様だ。
かつて人々に恐れられ、畏敬の念とともに祀られていた神様、そのもの。
「……お願いです……」
腫れの引かない唇は、いまだにきちんと閉じられない。
その隙間から、ぽろりと声が零れた。
「お願いです。あのおぞましい暴漢に、どうか、どうか、」
――苦しい苦しい、この世で最も惨い死を与えてほしいのです。
私の心を殺したあの暴漢。夜闇に紛れ、顔はわずかにも見えなかった。でも、あの男が漏らしていた気色の悪い吐息が忘れられない。今もなお、耳元ではぁはぁと吐き出されているかのようで、思い出すだけで全身が総毛立つ。
げえ、と私は身を屈めて嘔吐した。
碌に食べられず三日を過ごした身体はぎりぎりと軋み、黄色い胃液が異臭とともに吐き出されたのみだ。汚い飛沫がかかってしまわないよう、私は祠の跡からなんとか顔を背けた。
そうして、ただひゅうひゅうと細い息を吸い入れては咳き込んでを繰り返していた、そのときだった。
『……の……』
風の音と変わらない、細い、けれど確かな声が聞こえた。
ぎゅんと勢いをつけて首を持ち上げ、私は胃液まみれの唇を震わせる。汚物にまみれた手で触れるのはためらわれ、私は砕けた祠の石を――かつて神と崇められていたモノの跡をじっと凝視する。
『お前……れるなら、……』
声は次第に大きくなる。少しずつ、少しずつ。
ああ、あ、と喉から掠れた声が漏れる。わなわなと唇が震え、目尻からは大粒の涙が零れ落ちた。
『お前の残りの人生を捧げてくれるなら、望みを叶えてあげる』
姿もなにもない。くぐもった声が、頭に直接注ぎ込まれるように届いただけだ。
私はすぐさま頷き返した。枝から下げた帯の輪っかに引っかけて吊るはずだった首を、何度も何度も、痛むほど縦に振って。
「……ありがとう、ございます、……どうか、どうか……」
地面に伏せ、とうとう私は地面に額を擦りつけて泣き崩れてしまった。
山奥に打ち捨てられていたあなたは、なにもかもを失ったあの日の私にとって、救いの神に他ならなかった。
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