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「おはようございます、此永様」
『おはよう、紫苑』
神様は〝此永〟と名乗られた。
祈祷師の血を継ぐ私の声が刺激となったようだ。祠が壊れたせいで弱って消えかけていたご意識を、あのとき、彼はなんとか取り戻されたらしい。
人に忘れられて久しいという此永様――男性なのか女性なのか、そもそもそういった違いがあるのかどうかも定かではないけれど――は、あの後、あの大木の前で、私たち以外に誰も立ち入れない〝神域〟をご展開なさった。
気づけば、私は見たこともないくらい立派なお屋敷の中にいた。半尺ほどの、淡い光の玉のようなお姿の此永様とともに。
ここは人の目に触れることのない神の領域だ。
つまり私は、此永様によって神隠しに遭っている状態なのだろう。
神域といっても、人の暮らすお屋敷と変わらない。もちろん造りはご立派で、広さこそ控えめながらもまるで貴族様の邸宅だ。
村で一番の大地主である啓様のお家を思い返し、私は密かに嘆息する。
啓様に見限られた瞬間の、身を切るような苦しさが、今も私の中でどろどろと渦を巻いている。輿入れを目前に控えていた私を、得体の知れない男の手によって無惨に穢され、きっと啓様もおつらかったに違いない。
『摘んできたよ。さあお食べ、紫苑』
此永様のお声が耳を揺らし、私ははっと目を見開いた。
「そんな……此永様のお手を煩わせてしまうなど」
『いいよ、僕がそうしたくてしてるんだ。ねえ、たくさん食べて元気になってほしいなあ、紫苑』
筒状の腕の、丸みを帯びた先端を器用に重ね、此永様は庭で育った果物を手ずからもいできてくださった。ありがとうございます、と私は笑ってそれを受け取った。
此永様の神域で暮らし始め、三日が経った。
当初お姿を持たなかった此永様は、神域の中でようやく半尺ほどの球体となって現れ、三日を経た今では私の背丈と変わらない大きさになられた。輪郭を持たない、淡い光を掻き集めたような曖昧なお姿だ。
胴と二本の脚、二本の腕、そして頭と思しき箇所はある。人ではないなにかが、人を真似て己を形成している、今の彼はそういった状態なのかもしれない。
『そのうち、紫苑と同じ〝人〟の形になろうねえ』
『そのほうが紫苑も親しみが湧くだろうし』
そうしたお言葉をかけていただくたび、死に瀕していた私の心は瑞々しく潤う。
本当に優しいお方だ。今もそう。まだお体の自由がうまく利かなくて、もどかしい思いをなさっているだろうに、私のためにこうして手ずから果物をお持ちくださった。
受け取った果物に、しゃく、と皮のままかじりつく。瑞々しい酸味と甘味が口の中いっぱいに広がり、私は思わず頬を緩めた。
美味しい。果肉の引き締まった林檎と、幼い頃たった一度だけ食べたことのあるやわらかな桃、それぞれをかけ合わせたような不思議な食感と味がする。名も知らない果実。あのとき首を吊っていたら、私がこの甘露を啜ることは永遠にできなかった。
『美味しいかい、紫苑?』
「はい、此永様。とっても」
『そうかい、良かったねえ、良かったよ』
ふるふるとお身体を揺らし、此永様は笑っている。
お顔が見えなくてもそうと分かる。そのお姿を目に留めるだけで、私はこの上なく癒やされ、幸せな気持ちになれるのだ。
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