名もなき歌の、歌うたい。

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 たった今、母が父を殺した。  父といっても、約六年前に母が再婚した相手だから、養父ということになる。  母の上半身は養父の返り血で真っ赤に染まっており、右手にはいつも料理の時に使っていた包丁が握られている。  暗く、そして血腥い台所。俺はその場に立ち尽くしていた。 「ごめんね、ケンちゃん。こんな人生に巻き込んじゃって」  母は電気をつけて、血と汗でぐちゃぐちゃになった顔を手の甲で拭った。  養父の血が、母の顔中に余計に広がる。 「……悪いのは、母さんじゃないよ」  精一杯にそう返すと、母は一つ笑みを浮かべて、膝から崩れ落ちた。  床に包丁が落ち、そして嗚咽しながら、しくしくと泣き出す。  俺は動かなくなった養父を睨んで、「こいつさえいなければ」と呟いた。  そして、床に落ちている包丁を手に取る。 「母さんのせいには、させないよ」  ……その時、気づいた。 「あれ? 声が出るようになった?」  喉仏を押さえながら、「あー、あー」と発声してみる。  問題ない。ついさっきまで震わなかった声帯が、きちんと動いて、そして声が出る。  俺は、この死んだ養父のせいで、心因性失声症を患っていたのだ。  暴力で俺たち親子を支配していたこのクソ養父のせいで、過度なストレスがかかっていた。  だけど、たった今、解放されたんだ……。  泣き崩れている母さんを横目に、すり足で玄関に行く。  靴を履き、「公園に行く」と言い残して外に出た。  最後に行きたい場所がある。  養父が死んだ、その殺人の罪を母に押しつけるわけにはいかない。  母の罪は、俺が被る気でいる。  だけどせめて、最後に歌を歌いたかった。  あと一回だけでいい。  せっかく声が出るようになったんだ。  彼女は……いつもの場所にいるだろうか。  俺の鬱屈した気持ちに、寄り添ってくれた彼女。  じわっと汗ばんだ体で歩きながら、彼女と出会ってからの日々を思い返してみる……。
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