名もなき歌の、歌うたい。

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 小さい頃は、草原を駆ける馬のように、自由だった。  自由に、好きなだけ歌っていた。  夢の中の俺は、あの頃と同じように何にも気にせずに声を出していた……。  少しずつ、声が消えていく。  声が聴こえなくなって、幼い俺の表情も不安になって、そして泣き出した。  あれ……どうしたんだ。  あの頃の俺は、悲しそうに歌ったことなんて……一度もないのに。  纏わりつく汗と共に、ベッドから飛び起きる。もう朝だった。  すぐに喉の乾燥を感じて、一つ咳払いをして、息を吐く。  嫌な夢だな……これを、独り言として呟こうとした。  だけど、何かが変だ。俺は異変に気づいた。  ……あれ、声が……出ない?  何度もあー、とか、うー、とか声にしようとしても、全然発声できなかった。  おかしい。歌が歌えない。  急いでスマホを取り出して、検索してみる。  すると、思い当たる症状がヒットした。  心因性失声症……。  まさに、これだ。  俺は、度重なるストレスのせいで、声を失ってしまった。  病院に行かなきゃ。  早く治して、百花に歌声を聴かせたいのに。  でも、こんな赤く腫れた顔で、病院になんか行けない。  違う心配もされそうだし、何より恥ずかしい。  声が出ない俺なんて、歌えない俺なんて……生きていても意味がない。  もう、死にたい……。  膝を抱えた状態で、ベッドの上で丸くなる。  もうかれこれ、二日間は碌に何も食べていない。  不思議と、お腹が空かなかった。  これもストレスの影響か。  カーテンの隙間から侵入してきていた日の光は、徐々に明るさを失っていく。  一日が進むスピードなんて気にならないくらい、俺は無になって悲しみに打ちひしがられていた。  一階にいる母が、あまりにも物音が立たないので心配になったのか、珍しく部屋をノックしてきた。  返事ができない俺は、それを無視した。  母は焦り気味に「入るわよ」と言って、強引に扉を開けて入ってくる。 「ケンちゃん! どうしたの!?」
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