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6.ラスト一回
賽銭箱の前で海斗は先ほどから古銭を握りしめて立ち尽くしている。
ラスト一回。この一回で海斗は願おうとしていた。
────父さんとあの女を殺してください。
あの女が父にとってどんな存在なのか、説明されなくても女の様子と父の慌てぶりから充分に理解できた。母は泣き出し、父は「すまない」しか言えない木偶人形と化し、あの女は「もう正親さんと離れない」と父にかじりついた。
理解しがたいのは、父が女を邪険に扱わないことだ。自分達家族を邪魔しないでくれ、と女を拒絶すべきなのに、父は困った顔で母に、すまない、とばかり呟いている。
数日前まで当たり前にあったはずの日常が完全に崩壊した今、海斗は悟る。
ルールは絶対守るべきものだったのだということを。
そう、誰だって自分の思いだけで規律を犯してはいけなかったのだ。
ルールを逸脱し、人の生活を脅かすのなら、それ相応の覚悟が必要。羽鳥もそう。父もそう。
犯すなら、殺されても文句は言えないはずなのだ。
ぐっと今一度強く古銭を握りしめてから、海斗は賽銭箱へ古銭を投げる。
「どうか、父さんとあの女を」
両手を合わせ呟いたとき、海斗、と自分を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、青い顔をした大が石段を駆け上がってくるところだった。
「海斗! ここにいた……。お前のとこの母さんがお前、探してて。なんかその」
「僕を連れて出て行こうとしている、とかそういう話だろ」
乾いた声で言うと大がふっと口を噤む。その彼に背中を向け、海斗は再び社に向かって手を合わせる。
「出て行くのはいいよ。でもその前にやることがある」
「なに、を?」
「父さんとあの女を殺してもらえるよう、神様に頼まなきゃ」
大が完全に言葉を失うのがわかったが、海斗は止まるつもりはなかった。
神様、どうかあのふたりを……。最後の台詞まであと少し、と舌に力を込めた、その瞬間。
「そんなことしちゃだめだ!」
ぐいい、と横合いから腕が掴まれ、合掌していた掌が解かれた。邪魔するな! と眉を逆立てた海斗はそこで息を呑んだ。
海斗の右腕を両腕で抱え込み、大がぽろぽろと泣いていた。
「そんなこと願ったら、お前、変わっちゃうよ! 俺はさ、俺はさあ! 自分がひどい目あっても、その相手のことさえついつい考えちゃうお前のこと、すごいって思ってたんだよ! お前みたいなやつと友達で俺、すごくうれしいんだよ! なのに、そのお前がそんなこと願っちゃだめだろ!」
「じゃあ僕は我慢するしかないのか? あの女と父さんが幸せになって僕は、僕と母さんは、捨て、られるのに、僕は我慢するしか」
「違うよ、違うけど! でも俺はぁ! お前が変わっちゃうの、嫌なんだよう!」
わああん、とまるで幼子のように泣き出す大を海斗は呆然と見返す。
気が強く、四月生まれで海斗より三か月年上だからって兄貴風を吹かせることもある大。でもその三か月があるからか滅多に泣かなかった大が、なぜか泣いている。
やめろよ、やめてくれよ、と泣いている。
気が付いたら海斗の目からも涙があふれだしていた。
自分が願ったことで泣く人が、いる。まったく彼自身とは関係ないことなのに、おいおい声を上げて。その事実がなぜか、胸を抉って仕方なかった。
自分のせいで誰かを泣かせるなんて、やっぱり嫌だった。
「ごめん、謝るから……だから」
神様。
ふと心から声が零れ落ちた。
神様、どうか、大を泣き止ませてください。
こいつのほうがずっとずっといい奴なんです。こいつがどうかこれからも幸せでありますように。
ちゃりん、と賽銭箱の中で古銭が音を立てた気がした。
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