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第6話 そして、最後に写るのは……?
気が付くと海斗は、薄暗い部屋のベッドの上で仰向けで横になっていた。そして直ぐ側で、鳶色の瞳が海斗をじっと見下ろしている。先程までとはまるで逆の位置になっていることに気が付いた海斗は、混乱した。
『え!?どうなってるの?何で紅葉が僕の上にいるの?それに此処はどこ!?』
声に出そうとして、海斗は自分が声を出せていないことに気が付いた。それどころか、先程まで思い通りに動かせていた自分の体が思う様に動かすことも出来ない。
そんな状況にパニックに落ちいっていた海斗に、紅葉が話し掛けてきた。
「……ねえ海斗くん。そんなことしたら、ダメだよ?」
その声は、先程までの声とはまるで違っていた。あまりにも冷たい彼女の声色と視線に、海斗は凍り付いた。
「どんな理由があっても、望んでいない女の子にそんなことしたら絶対にダメ。そんなことをしても私の気持ちはあなたに向かないし、それどころか渇いているあなたの心はもっともっと渇いてゆくよ?あなたは、乾いたままで人生を終えたいの?」
いやだ……
絶対に、いやだ。
このまま終わるなんて、絶対にいやだ!
声の無い声で海斗がそう叫ぶと、海斗の額に優しく右の手の平を当てた紅葉がこう言った。
「……うん、分かってくれたならそれでいい。ねえ、海斗くん。私たち、この一週間でいっぱいお話しをしたね。大好きな本のこととか、家族のこととか、自分自身のお話し。……覚えてるかな?」
ゆっくりと頷いた海斗に向けて、彼女はあの微笑みを浮かべてくれた。それは、この一週間の間に彼女が海斗に何度も向けてくれた、あの優しい笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間だった。海斗の目蓋から、涙がいく粒も溢れ出した。
……ごめん、ね。
……ごめん。ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん!
ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!ごめん!
……ごめん、なさい。 ……ごめん…なさい。
「……バカ。泣くくらいなら、最初からそんなことしないの。いいよ、反省しているみたいだから今回だけは特別に許してあげる。だからもう泣かないで私の話を聞いて、海斗くん。まずは、この状況を説明するね」
泣き止む様子が無い海斗の頭を優しくなでながら、紅葉が話し始めた。
「あなたは、あのトイレの個室で心臓の発作を起こして倒れたの。それからずっと、あなたはこのベッドの上に寝ていたのよ。あなたの部屋のこのベッドの上で、ね」
そう言われてみて初めて気が付いた。見慣れた天井と本棚に並んだ本たち……
確かにここは、自室のベッドの上だった。
ゆっくりと海斗の中で眠っていた記憶が、目を覚まし始める。
……そうだ。僕はあの朝、駅のトイレの個室の中で胸がすごく苦しくなった。あの時、僕は発作を起こしてたんだ。
……じゃあ、僕達のあの一週間は?
その考えが頭に浮かんだ時、海斗の胸は絶望で塗り潰されていった。
君と僕は……
二人だけの時間を、あの公園で過ごしたんじゃなかったの?
助けを求めるように視線を向けると、彼女は頭をなでていた手を止めて海斗の手をぎゅっと握った。
「混乱する気持ちは分かるわ…… 確かに、私達の体はあの公園には無かった。でもね、海斗くん。私達は、ずっと二人でいたの。二人で沢山お話しをして、並んで本を読んで、私が作ったお弁当をあなたが美味しそうに食べてくれてた。色鮮やかな素晴らしい世界を、沢山二人で見たね?」
また海斗の両眼から、涙が溢れ出した。しかし今、流れ出てくる涙は先程まで流していた涙とはまるで違う涙だった。彼女と過ごしたかけがえのない時間は、只の夢などではなく、確かにそこにあったのだ。
「ねえ、海斗くん。どこで過ごしたかなんて、どうでもいいんだよ。私達は確かにあの公園で、二人の時間を過ごした。それは変わることのない私達の事実だよ?
……私達に、それ以上も以下もないもの」
その言葉に、海斗は首を縦に振る。 ……確かに、彼女の言う通りだった。
流れ落ちる涙に頬を濡らした海斗が微笑み、紅葉もまた微笑みを返した。その微笑みを湛えた彼女こそ…… 忘れ得ぬ、あの夏の日そのものだった。
最後に竹田海斗の額に唇を残して、黒木紅葉は部屋を後にした。それが彼に対して彼女が出来える、最高の別れの挨拶だった。
紅葉は海斗の部屋を出た後、竹田邸のリビングルームへと向かった。部屋に入ると、年代物のソファーに一人の男性がこちらを背に座っていた。紅葉が声を掛けると、その初老の男性がこちらに視線を向ける。竹田海斗の父親だ。
「……海斗の様子は、どうかね?」
一見、温厚そうに見えるその父親がそれだけの人物でない事は、発作を起こして病院に運び込まれた海斗の状況を知るや否や、自宅に大病院の集中治療室並みの設備と男性の専属医師や看護師を手配してしまった手腕から伺い知ることが出来た。恐らく医師会や病院関係者に、相当のコネクションを持つ人物なのだろう。
「海斗くんが、夢から覚めました」
その言葉を聞いた男性の顔色が変わった。
「……どういうことかね。君には息子が幸せに旅立てるようにして欲しいと、お願いをした筈だが?」
「その点なら心配ありません。目を覚まして直ぐは混乱しましたが、今は落ち着いています。この一週間のこともちゃんと覚えていて、今は静かにその思い出に浸っています」
紅葉の説明を聞いて安心したのか、男性はソファーに深く座り直し長い息を吐く。
「それならいい。海斗が幸せなら、 ……それでいい」
そう呟くと、男性は紅葉に向かいのソファーに座るように促した。
「……君には本当に世話になった。救急車を呼んでくれたこともそうだし、あの蟲のことを教えてくれもした。そして何よりこの一週間、海斗の話し相手になってくれたね」
「……いえ。私はただ知っていたことをお伝えしただけですし、夢の中の海斗くんとお話ししながら、一緒の時間を過ごしていただけです。それに私にとっても、この一週間は楽しい時間でしたから……」
紅葉が素直な気持ちを伝えると、男性はその言葉に満足したようだった。
「……君にそう言ってもらえて、海斗も喜ぶだろう。しかし君はどうやって、昏睡状態の息子と話をしていたんだい?」
「催眠術と読唇術を併用しただけです。人は眠りながらも、周りの音を聞いているんです。だから私が話し掛ければ、彼は応えてくれる。私はその言葉を彼の唇の動きで聞く。
彼に具体的な情報を伝えながら話し掛けることで、私は彼の夢の中で現実と変らない存在として実体化します。それは彼を取り巻く世界も同じです。そうやって私は、この一週間を海斗くんと一緒に過ごしていました」
紅葉の説明を聞いた男性は、驚いたようだった。しかし紅葉から言わせれば、この一週間に自分がしていたことなど大した事ではなかった。何故なら今の科学の最先端では、紅葉が用いた技術をもっと応用した形でVRの世界を創り上げようとしているではないか。
「……君と海斗は、どんな話をしたんだい?」
男性の声色が優しくなった気がして、紅葉は初めて男性の顔を一人の人間として深く見つめた。この一週間、何度かこの人と話す機会があったのだが、今ここには彼が初めて見せる何の立場にも縛られていない一人の人間としての顔があった。
「大好きな本の話や、お互いのことを沢山話しました。 ……それから、家族についても海斗くんは沢山話してくれましたよ」
ピクリと、男性の眉が上がった。
「……海斗は、私のことを何と話していたのかね?おそらく酷い父親だと、話していたんじゃないのかね?」
そう紅葉に尋ねる彼の声は、震えていた。恐らく彼にとってその質問は、何よりも怖く避け続けていたに違いない質問だったのだろう。
「……いいえ、海斗くんはあなたのことを愛していますよ。最愛の奥様を失くされたあなたは、きっと辛くて、辛過ぎて、人を愛するのが怖くなってしまったんだって言っていました。だから僕と父さんは、とても似ているだって話していました。
……今なら、まだ間に合います。今、海斗くんから逃げ出したら、あなたは一生後悔することになると、私は思います」
紅葉が話し終わると、男性は何も言わず、ふらふらとリビングを出ていった。恐らく、息子の部屋へ向かっただろう。彼の背中を見送ると、紅葉は玄関へと向かった。
……親子水入らずの時間に水を差すなんて、野暮なことはしたくはない。
紅葉が玄関を出ると、一人の女性が立っていた。この家でただ一人の女性、弘子さんだ。どうやら暑さを少しでも和らげようと、打ち水をしているようだ。
「今日は、もうお帰りなの?」
柔らかい笑顔で話し掛けてきた弘子に、紅葉が笑顔を返した時だった。突然、顔に水をかけられた。
「……ほら、今日も暑いでしょう? ちょっとは頭が冷えたかしら、この泥棒猫!」
苦笑いを浮かべる紅葉に投げ付けられた言葉は、とても話せる内容ではなかったが彼女の言いたいことはこういうことだ。
”海斗は小さい頃からずっと私だけものだったのに、突然しゃしゃり出てきた薄汚い泥棒猫は早くこの家から出ていけ!”
海斗と弘子がそういう関係にあることは、弘子と初めて会った時から紅葉は気がついていた。何故なら彼女が紅葉を見つめる眼差しは、嫉妬の色で一杯だったから。
これは紅葉の推測に過ぎないが、恐らく海斗に弘子が無理矢理そういう行為を行っていたのだろう。
「……ありがとうございます、弘子さん。今日も海斗くんがすごく愛してくれたから、丁度シャワーを浴びたいって思っていたんです。お陰で、涼しくなりました」
笑顔でそう言い残すと、黒木紅葉はその家を後にした。
そしてもう二度と、この家を訪れることは無かった。
……あれから約三カ月後の今夜は、新月の夜でした。
私の予想通り、今、あの弘子が住んでいるアパートの部屋から、あの蟲の幼体が這い出てきた時は、やはり複雑な心境になりました。出来ることならそうでなければ良かったのにと、思わずにはいられなかったからです。
夜風に吹かれた私が、そろそろ自室に戻ろうとかと草履を返した時です。ふいに掛けられた声に、足が止まりました。
「……姉さん、こんな夜更けにどうしたんですか?何か、あったんですか?」
見れば妹の青葉が、毛布を片手に私の顔を心配そうに覗き込んでいます。
「何でもないわ。……心配、してくれたの?」
コクリと頷いた妹にお礼を言ってから、私達は彼女が持ってきてくれた優しさに包まれながら、二人で庭を歩きました。まだ中学生の妹に、あの蟲の相談をするつもりはないけれど、二人で過ごす時間の中で段々と私の考えが纏まっていきました。
寄生蝉は恐ろしい蟲だけれど、彼らは妖魔と呼べるのでしょうか?
本当に恐ろしいのは彼らではなく、憑りついた先にあるのではないでしょうか?
あの蟲をきっかけに出会った人々を思い返しながら、私は思いました。もし、あの蟲が妖魔の類なら私達人間はどうなのでしょうか?自らの欲望のままに行動する時、私たち人間は妖魔そのものではないでしょうか……?
そして何より……です。
今生の別れ際に、涙の一つも流せない私、自身……
そんな私は…… 人として、誰よりも狂っているのではないのでしょうか?
……きっと今の私を人として唯一繋ぎとめているのは、隣を歩いてくれているこの優しい温もりに違いないんです。
ふと足元を見ると、横たわる蝉の亡骸がある。
それはまるで夏の忘れ物の様に、私の目に淋しく映る。
長くて優しい、そして短くて激しいその生涯を終える時、彼等は何を思う……?
彼等はその生涯を終える時、必ず仰向けになるという。
その瞬間に彼等の目に写つるのは、長い時間を過ごした優しい大地なのだろうか?
それとも輝やかしい、蒼い蒼い夏の空だろうか?
彼が最後にみせた、あの笑顔。
出来ればその両方であってくれたらと、私は願う。
しかしその答えを知っているのは、彼だけなのだ。
終
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