きれいな名前

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きれいな名前

バレー部の朝練は決まっていなくて、いつやるのかまたはやらないのか、僕には全く分からなくて、でも朝練があってもなくても大抵、辻家くんの方が先に教室にいた。 だから僕は、いつも後ろの扉から教室に入る。 前から入って辻家くんと目が合ってしまったら、ドキッとした胸がしばらく落ち着いてくれないから。 でも、後ろの戸張くんと話しをしている時は後ろを向いているから、それだって緊張する。なるべく辻家くんの方を見ないで教室に入っている毎日。 結局、学期終わりまで席替えはしないと担任の先生は言っていて、学年終わりまでしなくていいのに、って僕は思った。 今日は教室、前の扉から入ろうかな。 そしたら、辻家くんの横を通る時に「おはよう」って、勇気を出して言えるかもしれない。 後ろからだと、辻家くんは自分に言われてるって思わないよね、きっと。 ああ、でも緊張してしまう、廊下で『人』って三回手のひらに書いて飲み込んだ。 よしっ、意を決して教室に入り、なんとなーく辻家くんの方に視線を流してみる。 頬杖をついて文庫本を読んでいる辻家くん。かっこいい。 通った時に、「辻家くん、おはよう」って言うんだ、僕。 「…… つじ…… 」 「巧眞、これ見た? 」 「ん? 」 僕がやっと声を出したと同時に戸張くんが辻家くんの背中を突つくから、辻家くんが後ろを向いてしまった。 「お、染谷、おはよう」 「…… おはよう、戸張くん 」 …… もう。 「あ、おはよう、染谷」 「おは、おはよう…… 辻家くん…… 」 今朝は僕が「おはよう」って言おうと思って朝から緊張していたんだけどな。 それでもにこっと微笑まれて、僕の頬がぽっと赤くなる。 机の上にリュックを置き、少し震える手でペンケースや教科書を出してゆっくりと腰を掛けた僕。 戸張くんとまだ話している、体をこっちに向けたまま。 こんなこと、別に初めてのことじゃない。 戸張くんに背中を突つかれては、「ん? 」って、僕の方に体を向けて振り返ることは度々ある。 なのに、昨日のこととか今の笑顔とか、辻家くんにとってはなんでもないことなんだろうけれど、僕はドキドキとして胸が苦しい。 朝のホームルームが始まり、辻家くんが前に向き直った。 今度は堂々と視線を辻家くんに流せた。目が合うことはないから。 ほんの少し横顔が見える、綺麗な横顔。 今日も変わらず辻家くんは凛々しくて麗しい。 「戸張くんと辻家くんと、最近仲いいね 」 今年も同じクラスになった中山くんが、教室移動の時に言う。 考えてみたら中山くんは戸張くんの席の後ろ、僕の斜め後ろでめちゃくちゃ近かったんだっけと思い出す。 前の席が大きな戸張くんや辻家くんで、黒板ちゃんと見えてるのかな? なんてことが気になったけど、 「仲いいなんて、そんなことないよっ」 仲がいいとか言われて、すっごく照れて頬を赤く、鼻を膨らませて応えた僕。 辻家くんと仲がいいなんて、そんなの、違うよっ。 ひとり、にやにやしてしまう。 「でも辻家くん、にっこにこの顔で染谷くんと話してるじゃん」 「そ、そうっ!? 」 「え? 」 「あ、いや…… なんでもない」 中山くんの言葉に、ものすごく喜んでしまった。 でも待って…… 戸張くんと話してる時も辻家くんはにこにこしてるよね、女子から話しかけられた時だってにこにこしてるよ…… ちょっとしゅんとなる。 辻家くんは誰に対しても、そんなふうに感じがいいんだ。 辻家くんを悪く言う人なんていないだろうな、いつも誰にでも笑顔の辻家くんを思い出して、胸がほんの少しチクっとした。 でも中山くんは “ にっこにこ ” って言ってくれたよね、にこにこじゃなくて。 叶うはずのない恋だもん、そんな言葉ひとつを拾って微かに喜ぶ僕。 え? 視線を感じて読んでいた本から目を上げると、辻家くんが僕を見ていた。 えっ!? ばっちり目が合っちゃった、どうしよう。 その切れ長の美しい目で見つめられたら、僕は卒倒してしまうから…… やめて。 「染谷、名前、これなんて読むの? 」 「え? あ…… ゆ、柚羽(ゆずは)…… 」 出していたノートに書いてある名前を指さして、辻家くんから訊かれた。 モゴモゴとなって答えてしまう、女の子みたいな名前だってよく言われてきたから少し気が重かった。 「染谷柚羽? すっげーきれいな名前じゃん!」 え? きれいな名前? 僕の名前が? そんなことを言われたのは初めてだったし、それが辻家くんからだから、それはもう、嬉しすぎて涙が出そうになってしまう。 …… 堪えたけど。 “ 辻家巧眞 ” の名前なんかすごくかっこ良いし、それがバッチリ辻家くんに合っているから素晴らしいよっ!って、僕は心の中で叫んだ。 「女みたいな名前だな」 戸張くんにすかさず言われて、途端にしょんぼりした。 「戸張だって和泉(いずみ)じゃん」 「そうなんだよ、親を恨むよな、な、染谷」 そう言って、仲間だなって表情で僕を見る戸張和泉くん。 女の子みたいな名前だと言われるたびに、なんでこんな名前をつけたんだろうって悲しく思ったことは何度かあったけれど、今はすごくありがたい。 だって、辻家くんに『きれいな名前』って言ってもらえたんだもの。 ふふっと思わず笑ってしまうと、辻家くんも戸張くんもケタケタ笑った。 僕の毎日は喜びと幸せで溢れている。 そして水曜日を待ち焦がれる。 あの日から辻家くんと、校門まで一緒に帰るようになった。 いつも何か理由を見つけては、僕は右方向へ行く。 辻家くんが帰る方向と同じ、左へ行って駅に向かわなきゃなんだけど、緊張して校門から先を一緒に歩く勇気がまだ、僕はどうしても出ないから。
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