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触れてはいけない八年間
小学五年生の永倉智は綺麗なものが好きだ。
普段は品行方正、先のことまでよく考えて動く慎重派の彼であるが、こと美しいものに関しては別だった。綺麗だな、と彼の美的センサーが反応したが最後、後先考えず脇目も振らずに飛んでいってしまう。
この日もそうだった。
梅雨により連日の雨模様。下校時、智がふと空を見上げると、幸い雨は止んでいた。しかしどんよりとした灰色の雲は健在で、いつ降り出してもおかしくない空模様だ。
「やんでいるうちに急いで帰ろう」
長靴をボコンボコンと鳴らしながら、早足で家路を急いだ。早足で歩いても、長靴はなかなか進まなく、気ばかり急いた。
「確かこっちの方が近道だったはず」
人通りが少ないため普段は通らない道に一歩足を踏み入れた途端、智は目を見開いた。
「わぁ……!」
眼前に広がるは、一面のあじさい。
一目散に駆け寄っていって、がくや花びらを丹念に観察した。そのうち葉っぱの上にちょこんと鎮座するカタツムリを発見、にっこりと微笑みかける。
そんなことをもう何十分続けていただろう、かなり前から雨が再び降り出していることに、智は気づいていない。株によって開花の時期がずれていることや、同じ株の中でも色味がグラデーションのようになっていることなど、智にとって興味を引かれることばかりで、夢中になってあじさいを鑑賞していた。そんなとき、突然視界が暗くなった。
「びしょ濡れやないか! 風邪引くやろ!」
振り返ると、全く知らない少年が立っていた。年格好は智と同じぐらいだろうか、顔が真っ赤なのは日焼けしているからなのか。見知らぬ少年からいきなり怒られたわけだが、自分の背中が濡れるのもお構いなしで智を傘に入れている彼に、智は礼を言わなければと思った。
「ありがとう」
カタツムリにしたのと同じように、にっこり笑って礼を言うと、少年のぴかぴかの頬はますます赤くなり、トマトのようになった。
「傘持ってるから大丈夫だよ」
智がそう言うと、ようやく少年は傘を自分のためにさした。
「い、一緒に帰らへん……?」
さきほどの威勢はどこへやら、俯き唇を尖らせながら蚊の鳴くような声で言う少年を見て、智はまた笑った。
「いいよ!」
小雨の中、黄色の傘と紺色の傘が、寄り添いながらあじさいの中をゆっくりと進んでいった。
そんなあじさいが引き寄せた、ふたりの出会いだった。
久慈春嗣ことハルが智の存在に気づいたのは一年ほど前、二人が小学四年生の時であった。
同じクラスになったことがないながらも、智の存在だけは認識していたのだが、あるときアジサイ同様、智が校庭の片隅に咲くパンジーをしゃがみこんだまま随分と長い間見入っていた。ハルは下校時、その一部始終を遠くから見ていたのだった。同学年の中でも頭一つ飛び出た長身、に似合わぬくりくりとした黒目がちの瞳とぷっくりとした頬は実年齢よりも幼さを残している。利発そうな眼差しは、いつでも真剣だった。ハルはこの頃やけに智が目につくなあと思っていたが、それは勝手に目につくようになったのではなく、ハルの目が無意識にいつも智を探してしまっているからなのであるが、ハル自身まだ気づいていなかった。
そうして目で追うだけの期間が続いたが、あのアジサイの日、ついにハルは意を決して智に声をかけたのだった。雨に濡れていることもお構いなしにアジサイを見つめ続ける智に、傘を差し出すと言う口実と、濡れると風邪を引くよと声を掛ける口実、ふたつの大義名分があったから。
緊張しすぎて予想外に乱暴な物言い、しかも思いのほか大きなボリュームになってしまって、ハルは自分でも驚いてしまったほどだ。初対面からこんな声かけをされて、智はなんと思っただろう。初めての接触としては大失敗だとハルは泣きそうになったが、返ってきたのはそんな不安な気持ちをも拭い去ってくれるような微笑み。そしてついに一緒に帰るという念願の野望を果たせたのであった。
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