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黒の喪服姿の中年男性が、和かに笑う老女の遺影を持ち、列席者の前に立った。
「本日は私の母、九堂テルの葬儀にご列席頂きまして、心から御礼申し上げます。長男の九堂和が喪主としてご挨拶させて頂きます」
すすり泣く声が聞こえる中、和は気丈に振る舞い、挨拶を始める。
「母は、とにかく強い女性で、戦中から戦後、高度経済成長と、激動の時代を生き抜いた女性は本当に強く、私は母の泣く姿を見た事がありません——」
和は挨拶を終えると、霊柩車に乗って火葬場に向かい、最後のお別れをする。
和は棺に父の手紙を入れていた。その手紙は棺の小窓から見える。
「父さん、俺は父さんの言いつけを守れたかい?」
母の妹である叔母さんが、和に近づいて声を掛けた。
「一郎さんの手紙だね」
「トキ叔母さん。そうです」
「和ちゃんは、この手紙が届いてやっと出生届を出して貰えたのよね」
「はは、生まれて半年近くも名前もつけず、出生届も出さないだなんて、戦後の混乱期だったから出来た力技ですよね」
「姉さんは一郎さんが生きてるって信じてたから。一郎さんが帰ってきて名前をつけてくれるからって言ってたのよ」
二人は棺の中の手紙を再度見つめた。
「ええ、父はちゃんと帰ってきて名前をつけてくれました」
「そうね、和ちゃん」
視線を父の手紙から、母の安らかな顔へと移した。
「和ちゃん、姉さんはね、とっても泣き虫な人だったのよ」
「え? 鉄仮面の母が?」
叔母は泣きながら笑った。
「一郎さんから届いた最期の手紙を読んで、それが本当に一郎さんからの手紙だとわかった瞬間、泣いている場合じゃない! こんな小さな息子に守られてどうするっ! 一郎さんは死の間際で父としての役目を立派に務めたのだから、私も強い母になり、この子を守り、一郎さんに顔向けできるくらいに立派に育てないと! って思ったそう。それから姉さんが泣く姿を見た事がないわね」
「そうでしたか……」
「激動の時代を生きて、辛い事が多かったはずだけど、晩年は凄く楽しかったって。和ちゃんのおかげで、四人の孫と、六人の曾孫に囲まれて、幸せだったって。もうこの世に未練はないって言ってたわよ」
「はは、なんだ、あの世に行く準備万端だったんですね」
火葬場の職員から喪主の和に、棺が火葬炉に入ったら火葬のボタンを押す説明をされた。
「あの、最後にもう一度棺の中を見てもいいですか?」
「もちろんです」
和は小窓から、母と、母の胸元に置いた父の手紙を見て、最後の声を掛けた。
「この世に未練は無いかもしれないけど、俺は来世こそ、父さんと母さんと三人で暮らしたい」
和は、自分が思い描いていた家庭を言葉にし始める。
「父さんが……父さんが、運動会の父兄レースで、全力疾走するんだ。それを俺と母さんが大声で応援するんだよ。父さん、頑張れー!って。それで、へとへとになって帰ってきた父さんに、母さんが三人じゃ食べきれないくらいの弁当を見せるんだ。三人でもう食べれないよって言いながら、ゲラゲラ笑って過ごそうよ。来世は父さんがいるから、母さんは夜遅くまで働く必要はないんだ。夕飯を三人で食べよう。俺が悪さをしたら父さんに叱って欲しい。母さんともっと一緒にいたかった。だから、せめて……」
葬儀中、一度も泣かなかった和が、初めて涙を溢した。
「せめて、あと一回くらいは生まれ変わってきてくれよな」
棺は火葬炉に入って行き、炉の扉に鍵がかけられ、和は火葬ボタンを押した。
振り返って列席者に顔を見せる頃には、母テルの息子らしく、気丈に振る舞う和に戻っていた。
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