ブラザーコンプレックス

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02. 懊悩煩悶  自動ドアから一歩外へ踏み出した途端、むっとする熱気が肌にまとわりついてきてひどく不快だった。 (あっつ……)  一瞬、また中へ戻ろうかと本気で思ってしまう。ダメだ、そんなことしてられるほど時間に余裕はない。早く帰って荷造りの続きをやらないと。  つい今しがた発行してもらったばかりの転出証明書に折り目がつかないよう、丁寧にカバンの中へしまいこむ。折れなくても手で持ってると汗でふやけてしまいそうだ。  平日の昼間だからだろうか、それともこんな場所に用がある若い奴はあまりいないのか、さっきからすれ違うのは年配の人ばかりだった。  この役所に来たのは、この町に引っ越してきた日の翌日以来だ。転入の手続きをするために来て、それっきり今日まで出向くことはなかった。俺が住んでいるアパートからだと電車を使わないと行けないこともあって、何かよほどの用事がないとこのあたりへ近寄ることすらなかったのだ。  行きも空いてたけど、帰りの電車はそれ以上にがら空きだった。役所から駅までの道のりを歩いてる間ずっと直射日光をもろに浴びて本気で溶けるんじゃないかと思うくらい汗だくになっている身体には、ガンガンに冷房が効いてキンと冷えたこの空間はまさに天国だ。帰ったら荷造りの前に何か飲むか。  座席の端に座って電車に揺られながら、何気なく後ろの窓に目を向ける。勢いよく流れていく景色の向こうには、真夏の日差しを受けてキラキラ光る海がどこまでも広がっている。そのあまりの眩しさに目を細めた。  別に海が好きというわけではなくて、海水浴とかマリンスポーツとか特に興味もない。でも、嫌なことがあった時とか、わけもなく心細くてたまらない時とか、この海を見てると不思議と心が落ち着いた。  この海は故郷から見える海と繋がってる、そう思うと少しくらいのしんどいことなら何とか乗り越えてこられたんだ。 (……あーあ)  俺、本当にこのまま帰っちゃうんだ。六年もいたのに、終わりはあっけないもんだな。  すっかり見慣れたはずの海の景色。もうこの町から海を見ることはないんだと思うと、今になってやっと寂しいなんて思えた気がする。  *  あの家から出たがっていたくせに、心のどこかで結局はこうなることをずいぶん前から予想していたのかもしれない。たかだか四年の大学生活で一生をかけるほどの価値があるような夢や生きがいを見つけられる奴なんて、果たしてこの世にいるんだろうか。少なくとも俺は見つけられなかった。  でも、だからと言ってあの家に帰るわけにはいかない。ならこの場所で生きるしかないんだけど、田舎者の俺には人が多いところでストレスなく生活していける適性が全くないことはとっくに自覚している。最初こそ多少の無理をしてでも頑張ろうと意気込んでいたけど、何だかもう疲れてしまった。都会の空気が肌に合わないとか、人混みが生理的に無理とか、そういう身体が感じる直感は無視していると絶対に後で取り返しがつかなくなる。実際にそういう理由で学校やバイトをリタイアしていった人をこれまで何人も見てきた。そこで俺は自分で自分にもう一度猶予を与えたんだ。  二十五歳。それが俺の、最後のリミット。  二十五歳になるまでに何も見つけられなかったら、故郷に戻ろう。だからそれまでは何だっていいから、少しでも気になるものはとりあえずやってみようって。  卒業した後、何者でもなくなってからの二年間、俺は俺なりに一生懸命に生きたつもりだった。思い入れとかやりがいとか、そんなものなくてもいいからとにかく続けられることを見つけることに必死だった。あの家に戻らなくても一人で生きていけるだけの手段にさえなるなら何だっていい。  だから早く見つけないと。早く、早く。  今思うとそれがいけなかったのだろう。道を決めることを焦り過ぎた結果、自分の決めたタイムリミットを目前に控えた俺は何ひとつ身についていなかった。時間は充分過ぎるほど残されていたのに、手段を見つけることがいつの間にか目的になっていたことにも気付かないまま、俺はただ限りある貴重な体力と気力をすり減らしただけだったのだ。  これまで何人も見てきた、都会での生活に見切りをつけて帰っていった人たち。その中の一人にまさか自分がなるなんて、あの時は思いもしなかったのに。 「あーもう……終わんねえ」  段ボール足りるかな。結構いらないものは捨てたはずなのに、なんでこんなに進まないんだ?  ふと時計を見るともう十一時過ぎてるし。あんまり遅くまで作業してると階下の人からうるさいと苦情を言われるかもしれない、今日はこのへんにしておくか。それでなくてももう疲れが限界だ、身体よりも頭がへとへとになってる。何を捨てて、何を持っていくか、それをただひたすら選別する作業がこんなにもしんどいだなんて思ってなかった。  真夏だと言うのにダウンジャケットやら厚手のマフラーやらが散乱している布団の上にぼすんとダイブし、枕に顔を伏せて目を閉じる。  もう来週には引っ越すのに、この状況で本当にこの部屋引き渡せんのかな。ああ、なんかもう泣きそう。 『男だろ。泣くな』 「……」  息を吸い込んで、深く深くため息をついた。  最近こういうことが増えた気がする。今までずっと忘れてたような昔のことを、突然ふっと思い出す。  せめて故郷で何か楽しみがあれば、この途方もない作業にもいくらかやる気を持って臨むことができたかもしれない。例えば初恋の女の子に会えるとか、仲の良かった幼なじみと会えるとか。でも母ちゃんから聞かされた話によると、俺が子供の頃に遊んでいた友達はほぼ全員地元を出て行ったらしい。中には出て行った先でそのまま家庭を持っている奴もいると知った日の夜、俺はあまりにも帰りたくなくて風呂で泣いた。  とにかく、全くテンションが上がらないのだ。帰ったところで待っているのは嫌なことだけだと分かりきっているから、こんなにも荷造りが遅々として捗らないのだ。  本当に俺の人生なんて、つまんないことしか待ってない。俺は何も身の丈に合わない大それた望みを抱いているわけではない、ただ心穏やかに暮らしていける居場所さえあればそれでいいのに、それさえも望むなということなんだろうか。夢や生きがいなんていらない、大金も欲しくない。俺だけを愛してくれる人なんていなくていい。ただ俺は誰にも迷惑をかけず、誰の目にも留まらず、誰にも気に掛けられず、庭の隅のダンゴムシみたいに生きていけるならそれでいいんだけどな。抱えきれないほどの幸せなんていらないから、せめて嫌なことやつらいことに心乱されることもなく、ひっそりと生きていきたい。 (まあ、今だって充分幸せなのかもしれないけど……)  心身ともに健康で、自分の稼いだ金で自分だけの城を借りて、自分だけのために食べてる。こんなふうにやらなければならないことを放棄してダラダラしてても誰に咎められることもない。六年もこの生活を続けてたから今じゃすっかり当たり前になってるけど、向こうに帰ったらもうこんな生活はできないんだよな。  そうだった。帰ってしばらくはバタバタするだろうし、当分は小椋さんの家に住み込みで働くことになってる。考えてみると、家族以外の人と同居するのはこれが初めてだ。実家でさえあんなに神経すり減らしながら暮らしてたのに、一応親戚の人とは言えよその人とひとつ屋根の下で暮らすなんて一体どれほど気を遣うものなのか、なんかもう俺の想像できる範囲超えてる。  こんなふうに一人で気楽な夜を過ごせるのは、もしかしたら今が人生で最後になるのかもしれない。  それはいけない。これではダメだ。こんな貴重な夜をただ自堕落に過ごすなんて。  何か、何かないのか。今しかできないこと、今やるべきこと……。 (……最後に抜いたの、いつだっけ)  まず頭に浮かんだのは、それだった。  っていやいや、そうじゃないだろ。  ごろりと壁の方に身体の向きを変えて冷静に考える。今はそんなことやってる場合じゃない、もっとこう、他にあるだろ。  ああでも確かに、ここのところ毎日ありえないくらい暑くて、そういう気分になれない日が続いてたかもしれない。バイトを辞めてからは特にそうで、買い物やら引っ越しに関わる手続きやらで少し出歩いただけでもものすごくグッタリしてしまい、帰るとエアコンをガンガンに稼働させたまま夜まで死んだように爆睡する、その繰り返しだ。働いてないから時間と体力は腐るほど有り余ってるはずなのに、この暑さが肝心の気力を根こそぎ奪っていくのだ。当然、その間ずっと抜いてない。  身体に悪いよな、これ。気分がどうこうの問題じゃなく、そろそろ無理やりにでも外に出すべきものは出さないと。 「……あー……」  やらなければ、と思うと、全く気分が乗らない。どんなに楽しいことでも義務になった途端いきなりやる気がダダ下がりするのはどうしてなんだろう。  したくもないのに必要に迫られて渋々やったところで、大した満足感は得られない気がする。それじゃただの排泄行為と何ら変わりないだろう。  ……いや、それでいいのか。溜まったものを排泄するのが目的なわけだし。  枕元に置いてあったスマートフォンを手に取って、適当なオカズがないか探してみる。大学に入って一人暮らしを始めたばかりの頃は夜な夜な熱心にオカズを探し回っては猿みたいに抜いてたけど、なんかもう今はそんな気も起こらない。さながら悟りを開いた仙人のような境地だ。やっぱり、気分が乗らないのに無理やりってのが良くないんだ。 「……」  その気がなくても無心で扱いてれば勃つことは勃つ。でも、それだけ。むしろ、そうすればするほど頭の中は妙に冷めてきてる。誰かと暮らすって、こうやって抜くのもままならなくなるってことだよな。今まであんまり深く考えてなかった、早まったかな。そんなふうにこれからのことをやたら冷静に考えている自分がいる。  気持ちがないとできないとか、そんなふうに思う時期はとっくに過ぎてしまった。今となってはそういう時期が自分にもあったのか、そんなことさえ思い出せない。思い出そうとしても、頭に浮かぶのはいつも。 「……ん……っ」  ああ、くそ。集中できない。  ここんとこ地元に帰る準備ばっかりやってるから、頭を空っぽにしたくてもあの家のこと思い出す。抜いてる時にいちばん考えたくないことなのに、どうしても頭から離れない。何も考えたくないのに。  目を閉じて、ひたすら無心で指を動かした。 「あ……っ、……く」  声を押し殺すように、枕にぎゅっと顔を押しつける。 『悟』  やめろ。  俺の頭ん中から出てけ。  こんな時くらいほっとけよ。  どうして。 『兄ちゃんな、結婚するんだ』 「……っ」  ……最悪だ。  こんなに後味の悪い終わり方、今までしたことがない。
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