ブラザーコンプレックス

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03. 風雨対牀 『じゃあ、気を付けてね。せっかく久しぶりに帰ってきてくれたのに、顔見られなくて残念だけど……』 「これからはこっちに住むんだし、退院したらいつでも会えるよ。ちゃんとお土産も母ちゃんの分は確保しておくから、今はちゃんと先生の言うこと聞いて大人しく寝てなよ。勝手に動き回んないようにな」 『はいはい、分かりましたよ。お兄ちゃんと仲良くね』 「ん? ああ、うん」  通話を切った後で小さくため息をつく。せっかく久しぶりに帰ってきたってのに、なんで最後の最後で兄ちゃんのことなんか持ち出すかな。  カバンから取り出したペットボトルにはまだ半分くらいお茶が残っていて、とっくに常温になっている。一口だけそれを口に含んだ時、口の中がカラカラに乾いていることに初めて気が付いた。自分で思うよりも緊張していたのかもしれない。 「……」  空港ターミナルビルの到着ロビーを行き交う人たちから隠れるように自販機から少し離れたところで壁に寄りかかったまま、ぼんやりと正面入り口の方を眺める。そこには壁一面の巨大なステンドグラスがあり、描かれているのは青い空の下でたわわに実ったたくさんのミカン。俺がここを出て行った時はこんなものなかった。一応、母ちゃんから話には聞いていたけど、こうして実物を目の当たりにするのはこれが初めてだ。鮮やかな色をしたステンドグラスを通しても外からの日差しは眩しく、その光景は今の俺の心とはあまりに違っていて、もはや笑いすら込み上げてこない。外が明るい分、屋内の薄暗さがかえって強調されている。向こう側が明るければ明るいほど、こちら側にいる俺は自分がいる場所の暗さを意識せずにはいられない。いっそ光なんて一切届かない場所にいたらこんな陰鬱な気分になることもなかったのかもしれない。  新しい生活、新しい場所。そういうものは俺の場合いつだって失意の果てに追われるように逃げ込んだ先で手にするものだったから、今回もこれから始まる新生活に希望や期待なんて微塵も抱いてはいない。きっとこの先の人生はつまらなく退屈で、何の望みも持てないものなんだろう。  でも、それを悲観しているわけではない。今までだってずっとそうだった、それがこれからも続いていく、ただそれだけの話だ。  母ちゃんは数日前から隣町の総合病院で入院している。無茶な体勢で重い飲料ケースの箱を持ち上げようとして腰を痛めたと聞かされた時、俺は予定を早めてすぐに帰ると言ったんだけど、ただのギックリ腰ですぐ退院できるから大丈夫だとあっさり返されてしまった。俺に心配させないよう嘘をついてる可能性もある気がしてならなくて、念のため兄ちゃんにも電話して詳しいことを聞いてみたけど短期間の入院であることは嘘ではないらしい。ただ。 (……タイミング悪すぎだっつーの)  バスに揺られながら、見慣れたようでいてどこか見慣れない景色が流れていくのを車窓から眺めて、またひとつため息をついてしまう。ここを出て行った日から変わらないところと変わってしまったところ、記憶の中の故郷と今目の前に見える景色はところどころ重なったかと思えばそのすぐ隣は全く違っていて、何だかちぐはぐしている。  俺はあの家に戻るのではなく、しばらくは小椋さんの家に住み込みという形で世話になることになっていて、仕事に慣れたら適当に引っ越してまた一人になるつもりだ。だけど、六年半ぶりに帰ってきたのだから初日くらいは実家に泊まっていけ、と母ちゃんと小椋さんの両方から言われ、仕方なくこうして重い荷物を引きずりながらあの家へ向かっている。いくら帰りたくないからと言って意固地になってそれを拒否したらかえって面倒なことになりそうだったし、俺ももう大人なんだから一泊くらいは我慢しなくては、そう思って渋々承諾したというのに、よりによってその日に母ちゃんが入院してるって、なんかもう誰かの策略にはまってるとしか思えない。母ちゃんさえいてくれたら、あの家に居づらいのも少しは緩和されると思ってたのに。気が重い。  *  あの家にいちばん近いバス停で降りて数メートルも歩かないうちに、キャリーバッグを引きずるガラガラという音がやけに響いて耳障りに感じるようになり仕方なく持ち上げる。向こうで空港に行く途中はほとんど気にならなかったのに、まさかキャスターが壊れたのかと思い確認しようとしてふと下を向いた時に分かった。道が悪いのだ。たかだか六年半の間、舗装された道路しかない場所で生活していただけで、自分の生まれ育った故郷の道がどこもかしこもガタガタで平坦ではないことをすっかり忘れていた。  ……こういうことって、悪気がなくてもつい無意識にぽろっと口にしそうで怖いな。意識して気を付けてないと、あいつすっかり東京にかぶれて帰ってきたよとか陰でネタにされかねない。まあ、事実なのかもしれないけど。 「あっつ……」  さっきから誰ともすれ違わないから気が緩んでいたのかもしれない、思わず独り言を呟いていた。キャリーバッグを持ち上げて歩いているせいか、汗が止まることなく噴き出しては顎を伝って流れ落ちていく。でも、不思議とあまり不快に感じない。向こうの暑さはなんて言うか、べったりとした何とも嫌な感じが常に肌にまとわりついてきてひどく息苦しくて不快だったけど、ここの暑さはそれほどでもない。人の数が桁違いだからだろうか、ここで吹く風は人工的な熱や匂いを孕んでいない気がする。夏の暑さなんてどこだって同じだと思ってたけど、こうも違うものだったのか。  六年半ぶりにこの道へ降りた時、理屈や言葉ではなく肌で分かった。俺はこの土地の人間なのだと。都会の空気も人混みも人工的な匂いも、俺には耐えられなかった。結局俺は、ここを死ぬまで離れることはできないんだ。ここで暮らしていた時はそんなふうに考えたことなんて一度もなかったのに、離れて初めて分かるなんて何だか皮肉な話だ。だけど、それくらいこの町の空気と都会の空気は違うものだった。  大勢の人の中で生活していくには、適性が必要だ。俺にはそれがなかった、ただそれだけのことなのに、子供の頃から染みついてしまっている思考パターンがその事実を捻じ曲げて解釈しようとしている。  他の人にはできるのに、俺だけはできない。  それは俺が、普通ではないから。  それは俺が、劣っているから。  昔は空き地だったはずの場所に見たことのない家が建っていたり、近所にずっとあった古い家がやけに小綺麗になっていたり、そんな光景に気を取られながら歩いていたせいか、俺はいつの間にかあの家のすぐ近くまで来ていたことに気付いていなかった。創業百五十年を越えると言ってもその間に何度か小さな改装やリフォームを繰り返していて、昔ながらの外観にはなるべく手を加えないように配慮しつつも適度に近代的な要素を取り入れた佇まいに落ち着いているあの店は、俺が出て行った日のそれと何も変わっていない。それを目にしてほっとしたのも束の間、店の入り口の前に立っている人の姿を見つけて一瞬だけど足がすくんだ。 「悟!」  電話越しに聞くのとは違って、よく通る澄んだ声。  この家を継いだばかりの頃は着るのに手こずっていた着物を今は憎たらしいほど綺麗に着こなしている。眩しい日差しに透けてしまいそうなほど細い黒髪が風に揺れて、その風が汗ばんだ俺の額をからかうように撫でて去っていった。  眩しい。  まともに見ていたら、光に溶けてしまいそうだ。  思えば出会った時からずっとそうだった。  兄ちゃんはあまりに眩しくて、俺はこんなにも暗い。 「おかえり」 「……ただいま」  ちゃんと言えただろうか。自分でも分からない。  その眩しさを直視しないよう、なるべく視線を下に逸らしたまま歩み寄る。兄ちゃんの前に立ってキャリーバッグをゴトンと少し乱暴に地面に置くと、不意に細い腕が伸びてきて俺の頭を撫でた。 「なんだよ」  手はすぐに離れたけど、そのあまりの白さに目がくらみそうになる。俺を見上げる目は優しく微笑んでいて、その目尻には薄いしわが見えた。 「でかくなったなあ。また身長伸びたか?」 「いや、ここ出た時から伸びてないよ。兄ちゃんが縮んだんじゃねーの?」 「はは、かもな。悟は高校入った時にはもう俺よりでかかったしな」  何だか、最後に会った時より痩せたような気がする。昔から細っこくて色白でお世辞にも健康的とは言えない見た目だったけど、こんなに骨張った手だったっけ。それに、あの頃はこんなに弱々しい笑い方をする人じゃなかったのに。俺の気のせいなんだろうか。 「暑かっただろ、冷たいもの飲んで部屋でゆっくりしてなさい。昼飯は?」 「あー、いい。もう食った」 「そうか、じゃあ夜まで昼寝でもしてろ。お前の部屋、一応簡単に掃除してあるから」 「俺の部屋まだ空いてんの?」 「半分物置みたいな状態だけど……一泊するだけなら大丈夫だと思うよ」 「なんだよ、大丈夫って」 「まあまあ、とりあえず中入れ」  店の裏手に回り、見慣れた玄関口から家の中に入った瞬間、そこに満ちているひんやりとした空気は懐かしい匂いがした。その匂いに呼び起こされたように、今まで忘れていたはずのこの家での記憶が頭の奥で一斉に舞い上がってくる。  どういうわけか、夏の思い出だけは他の季節よりも色濃く脳裏に焼きついている。エアコンから吹き出してくる匂いも、窓から見える空の青さも、蝉の声も、裸足で歩く床の感触も、母ちゃんが作ってくれた冷たい素麺の味も、五感で感じる全てが夏だけはやけに鮮やかでくっきりとしていて、ふとした拍子に思い出すのはいつも夏の思い出だった。 「その頭さ」 「え?」  廊下の途中で、前を歩く兄ちゃんが不意に顔だけをこっちに向けた。歯を見せて少しからかうように笑っている。 「写真送ってきた時はびっくりしたよ。やっぱり遠くからでも目立つよな」  ああ、そうだった。兄ちゃんにこの色の髪を見せるのはこれが初めてだっけ。  この家にいた頃はとにかく目立たないように立ち振る舞うことに必死だったけど、その反動か向こうに引っ越してからすぐにノリで金髪にしたのだ。やってみると意外と結構似合うじゃん、なんて周りから褒められたせいですっかりその気になってしまい、それからずっとこの色で過ごしている。  この頭にしてからというもの、周りからの反応や接し方だけではなく近づいてくる人の種類そのものが故郷にいた頃とは百八十度変わったと、俺自身がいちばん驚いている。なんだかんだと綺麗事を並べても結局のところ人は他人を見た目でしか判断できないのだと、身をもって知るいい機会だったのかもしれない。 「東京ではそんなでも目立たないかもしれないけど、このへんは頭の古い人が多いからな」  また前を向いて歩き出した兄ちゃんの髪は、昔と変わらず綺麗な黒い色をしている。兄ちゃんなりに釘を刺しているつもりなのだろうが、その口調はどこか楽しげに聞こえる。ぱっと見は頭の固そうな見た目をしてるくせに、他の連中と違って兄ちゃんだけは俺に対する態度を髪の色なんかで変えたりはしなかった。 「なんか言われたら黒に戻すよ。引っ越しでバタバタしてたから、向こうで美容院行ってる暇なくて」 「まあでも、小椋さんもそのへん適当だからなあ。仕事さえきっちりやってれば何も言われないと思うよ」 「だといいけど。俺、この色結構気に入ってるから」 「そうだな、悟は明るい髪色の方が似合うよ。兄ちゃんも好きだな、その色」 「……」  無自覚なんだろうか。兄ちゃんは昔からこういうところがある。天然というか、何というか。 「本当はここにいた頃から髪染めてみたかったのに、親父が周りからいろいろ言われないように我慢してくれてたんだろ。悟は優しい子だから」 「……別に、そんなんじゃないよ。気分で染めただけだし」 「はは、そうか」  ……ああ、嫌だ。  こういうのがあるから、帰りたくなかったのに。兄ちゃんと会いたくなかったのに。  俺は兄ちゃんが思うほど優しくもないし思慮深い人間でもない。中身なんて空っぽで、恐ろしく浅はかで、救いようのない馬鹿なんだ。そう思ってくれていい、いや、そう思っていてほしかったのに、何故か兄ちゃんは俺を放っておいてくれない。見放してくれない。  だからこそ俺は、投げやりな生き方をすることがどうしてもできなかった。どんなに小さくても兄ちゃんから信頼を寄せられているのだと思うと、その期待を裏切るような真似だけは絶対にできなかったんだ。それが俺にとってどれだけ負担で息苦しいものなのか、兄ちゃんは分かっていないのだろう。もしかしたら分かっていないふりをしてるだけなのかもしれないけど。 「旦那様」  居間に入ろうとした時、居住空間と店を隔てる暖簾の向こうから店の従業員がひょこりと顔を覗かせた。年配の男性で、その顔には見覚えがある。兄ちゃんはそっちを向いて足を止めた。 「どうかしましたか?」 「昨日の受注なんですが……」  言いながら、その人はちらりとこっちを見た。その途端あからさまに不愉快そうに眉をひそめ、さっと兄ちゃんの方に顔を向けてまた話を続ける。  思い出した。父さんと母ちゃんが再婚する前から何かと俺たちに対して刺々しい態度をとっていた奴の一人だ。母ちゃんは『あの人、小さい子供が苦手なのよ』とか言ってたけど、よそ者の母ちゃんと俺がこの家に来るのを快く思わない人間が多いのは俺にだって分かっていたし、そういう扱いを受けることに対して自分が不満を言える立場ではないことも分かっていた。  だから俺は、そういう奴らにはなるべく近づかないようにしていた。わざわざそいつらに態度を改めるよう注意なんてする必要はないが、気に入られるようこっちから歩み寄る必要もない。それにもしそんなことをしたら、母ちゃんが子供の俺を使ってあいつらに上手く取り入ろうなどと考えるような小賢しく浅ましい女だと思われるだけなのは目に見えている。まだ小さかった俺にできることは、ただ黙っていることだけだった。 「はい……はい、分かりました」 「よろしくお願いします」  ようやく二人の話が終わったらしい。俺はただ二人から少し離れたところに立って、なるべくそっちを見ないよう顔を背けていた。だから去り際にそいつがまた汚いものでも見るような視線を俺に向けていたことも分かっていたけど、努めて見ていないふりをしていた。  暖簾の向こうにその姿が消え、足音が遠のいてやがて聞こえなくなったのを確認して、深いため息をつく。 「……んだよ、感じ悪いな」  聞こえないように呟いたつもりだったのに、ふいと振り向いた兄ちゃんは険しい表情をしている。 「そういう言い方はやめろ」 「なんだよ」 「あんまりとんがってないで大人しくしてろよ。お前はただでさえ目立つんだから」  兄ちゃんの言わんとしていることは分かっていたけど、俺よりもあの爺の肩を持たれたような気がしてつい嫌味ったらしく言い返してしまった。 「この色が似合ってるんじゃなかったのかよ」 「そうだけど、ここはお前が昨日までいたところとは違うんだよ。そのくらいお前だって分かってるだろ」 「みたいだな。こんな超がつくほどのクソ田舎だったなんて、ここに住んでた頃は知らなかったよ」 「悟」  続けてまだ何か言われるかと身構えたのに、兄ちゃんはそれ以上は何も言わなかった。ただ、見たこともないほど昏い目でじっと俺を見ている。  兄ちゃんは小言はよく言うけど、今まで俺を本気で叱ったことは一度もない。いつも凪いだ海のように優しい兄ちゃんは怒りで我を忘れて誰かに怒鳴り散らしたりするような人ではないと、俺は長いこと信じて疑わなかった。  だからどんな顔をしていたらいいのか分からなくて、仕方なく顔を逸らした。 「謝る気はないから。俺はここが嫌いだから出たんだし、帰ってきたからってそれが変わることは絶対にない」  ふう、と小さなため息が聞こえる。俺はたった今、兄ちゃんの信頼をひとつ失ったのだろう。 「……好きにしろ」  それだけ言い残し、兄ちゃんはさっさと居間に入っていった。  きっと、兄ちゃんだって分かってたはずだ。だから兄ちゃんは俺に対して本気で怒ったことがなかったんだろう。  俺と母ちゃんがこの家の奴らにどう思われていたか、どんなことを言われていたか。  そういう周りの悪意から俺たちをずっと守ってくれていた父さんは、兄ちゃんが結婚した年の暮れに持病で死んだ。それ以来、奴らが俺たちに向ける悪意は前よりも露骨なものになり、中には母ちゃんのことを陰で疫病神呼ばわりしている婆がいたことも俺は知っている。  俺がこの家を出た直接の原因はそれではなかったけど、要因のひとつであったことに間違いはない。本来なら俺が母ちゃんを守らなきゃいけなかったのに、あの時の俺は自分がここを逃げ出すことしか考えていなかった。父さんに代わって兄ちゃんがずっと俺と母ちゃんを守ってくれていたことも、ガキだった俺には全く見えていなかった。兄ちゃんの優しさを受け取ってその恩に報いることができるほど、俺は大人ではなかったから。  *  ほぼ物置と化していると事前に聞かされていたからある程度の覚悟はしていたのに、俺が自室として使っていた和室はがらんとしていて殺風景なくらいだった。首を傾げながら押し入れの中を見てようやく合点がいく、そこには客用の布団の他にストーブだの掃除機だの大きめの家電製品が隙間なく収納されていて、その奥には見覚えのない大小様々なサイズの木箱や布の袋が押し込まれている。  まあ、出て行った子供の部屋なんてどこもこんなもんだろう。学習机とか本棚みたいな大きな家具はとっくに全部処分したし、どうせ今夜は畳の上で布団を敷いて寝るだけなのだからそれだけのスペースさえあれば何も不満はない。  しかし、妙に綺麗だ。さっき兄ちゃん『掃除してある』って言ってたけど、これってやっぱり真希さんがやってくれたんだよな。そうだった、まだ挨拶どころか顔も見てない。  部屋に荷物を置くと、お土産として準備しておいた菓子折りの入った紙袋を提げてすぐに居間へ戻った。そこに兄ちゃんの姿はなく、台所の方から冷蔵庫をパタンと閉める音が聞こえてそっちに行くと、兄ちゃんが調理台の前でガラスのピッチャーからグラスに麦茶を注いでいる。 「ちょっと待ってろ」  その声はもう怒ってはいないみたいだけど、兄ちゃんは振り向きもせずそう言った。 「お土産買ってきたから、兄ちゃんの分は向こうに置いとくよ。母ちゃんの分は冷蔵庫に入れといて」 「うん、ありがとう。後でもらおうかな」  その背中をじっと見ても、それっきり何も言ってこない。堪えきれずに切り出した。 「なあ、真希さんは? お土産渡したいし、挨拶もまだなんだけど」 「あー……いないよ」 「どっか出掛けてんの? あ、もしかして母ちゃんのお見舞いかな」 「そうじゃない」 「じゃあ、どこにいんの」 「別れたんだ。去年の秋に」  冗談だと思った。けど、兄ちゃんはそういう冗談を言うタイプじゃないことはよく知ってる。  それでも俺は、兄ちゃんが笑って振り向いて『冗談だよ』って言ってくれるのをじっと待ってた。祈るような気持ちでその背中を見ても、結局兄ちゃんはこっちを見なかった。 「……マジ?」 「ああ」  遠くから蝉の声が聞こえる。廊下の窓が少しだけ開いてたから、きっとそこから外の音が漏れてきているのだろう。俺と兄ちゃん以外には誰もいない台所の中はしんとしている。台所には小さな窓がひとつあるだけで、そこから漏れてくる夏の日差しが台所の薄暗さをことさら強調しているような気がした。 「なんで俺に教えてくんなかったの?」 「別に、わざわざそれだけのために電話してまで報告するようなことじゃ……」 「俺がこの家の奴じゃないから?」  カタン、と乾いた音が響いた。兄ちゃんが麦茶の入ったピッチャーを調理台に置いたのだ。 「おい」  ようやくこっちに振り向いた兄ちゃんの顔は笑っていない。眩しすぎる窓からの日差しが、それに背いている兄ちゃんの顔に濃い影を落としている。 「いい加減にしろ。言っていいことと悪いことがあるだろ」  人に誇れるような特技なんて何もないけど、俺は人の顔色を窺って空気を読んだ言動をとれることにだけは自信がある。人の心の動き、特に怒りの感情には子供の頃から敏感だった。だから自分が兄ちゃんの地雷を踏んだことなんてとっくに分かってたけど、今は謝る気にも笑って茶化す気にもなれない。 「どうだか。兄ちゃんだってそう思ってるから教えなかったんじゃねえの」  細い指がぎゅっと握りしめられたのを見て、俺は視線を逸らした。 「違う、兄ちゃんはな」 「……もう寝る。気分悪い」  さっと身体の向きを変えて、台所を出る。兄ちゃんは追いかけてこなかった。
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