ブラザーコンプレックス

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04. 直言極諫  誰かと一緒に暮らしていると、家の中で一人になれる場所は限られている。  相手が家族でも赤の他人でも常に仲良く揉め事を起こさずに生活できるならそれに越したことはないのだが、そんなことは絶対に不可能だ。人と人がひとつ屋根の下で暮らす以上、どんなにお互いに足並みを揃えていこうとしてもどこかで必ず多少のズレは生じてしまう。努力や忍耐でどうにかできることではなく、それをできないからと言ってどちらかに協調性が足りないとか相性が悪いとかということでもなく、そういうものだと俺は思ってる。  ……なんて、偉そうに言葉を並べるだけなら簡単なんだけど。 「はあ……」  広々とした湯船の中で脚を伸ばす。昨日までいたアパートの狭い風呂とは別世界だ。  湯船のへりに頭を乗せてぼんやりと天井を見上げていると、薄い湯気の向こうに古びた電灯カバーが霞んで見える。ここに住んでいた頃は毎晩この明かりをこうしてお湯の中から眺める度、不思議とほっとしていたのを思い出した。きっとそれは、ここが家の中で一人になれる数少ない場所のひとつだったからなんだろう。  あの後自分の部屋でふて寝を決め込んだ俺は、空港からここまでの移動の疲れと連日の引っ越し準備の疲れのせいかそのまま深い眠りについてしまった。兄ちゃんが俺を呼ぶ声で目を覚ました時には既に日が沈んでいて、窓の外も暗くなっていた。 『悟、起きろ』 『あれ……』 『風呂沸かしたから先に入れ。夕飯はその間に作っておくから』 『あ……うん』  部屋の入り口に立っている兄ちゃんの顔は、部屋が暗くてよく見えなかった。淡々と喋る声からは怒っているような気配は感じ取れない。ただ用件だけを伝えると、兄ちゃんはそのままさっさとどこかに行ってしまった。  怒鳴られたり不機嫌そうな態度をとられた方がまだマシだった。俺一人だけがムキになってるみたいじゃねえか……って、実際そうなんだけど。  深く長くため息をついて、ゆっくりと目を閉じる。  きっと、母ちゃんは兄ちゃんに口止めされていたんだろう。真希さんと別れたことを俺に話すなと。ここを出てから六年半の間、兄ちゃんとはほとんど連絡をとってなかったけど、母ちゃんは聞いてもいないのに事あるごとに自分や家族の近況を報告してきた。そのどれも大したことのない報告ばかりだったのに、兄ちゃんが離婚したなんて重大な話を一切知らせてくれなかったということは、兄ちゃんから黙っていろと言われていたとしか考えられない。  そう言えば空港で電話した時『お兄ちゃんと仲良くね』なんて言ってたっけ。もしかしたら母ちゃんは、俺が今日ここに帰ってきたらこうなることを予想してあんなことを言ったのかもしれない。 (……考え過ぎか)  だけど、俺だけが何も知らされていなかったのは事実だ。はっきりと『お前はよそ者だからだ』って言ってくれれば俺だってこんなに不愉快な気分にならなかったのに、兄ちゃんは俺を相手に一体何をそんなに取り繕っているんだろう。兄ちゃんが俺を突き放してくれないから、俺はおめでたい勘違いをしてしまうのに。俺はこの家の人間でいてもいいと、そんなふうに思い上がってしまう。  ああ、そうだ。俺は馬鹿で、思い込みが激しくて、とんでもなくおめでたい勘違い野郎だ。  だから、黙ってられるのがいちばん腹立つんだよ。  ざぶんと大きな音を立てて、勢いよくお湯の中に頭のてっぺんまで潜り込んだ。  こういう恥ずかしく痛々しい思いをするのは子供の頃だけでたくさんだって言うのに、大人になってもまだあるのか。だから帰りたくなかったのに。  *  風呂から上がって居間に入ると、食卓には二人分の食事の支度だけがきちんと整っていた。兄ちゃんはいない。 (まだ店にいんのかな……)  でも閉店時間はとっくに過ぎてるはずだけど。もしかしたら、何かあったのかもしれない。店の方へ向かおうとして、ふと足を止める。  俺と向かい合って二人っきりでメシ食うのが嫌で、どこかで適当に時間潰してるだけかもしれない。なんかそう考えるのがいちばんしっくりくるような気がした。自業自得だとは言え、そこまで露骨に避けられていると思うと結構ショックだ。  俺ももう大人なんだし、多少の不本意なことは受け流していかないとダメか。向こうではいろんなバイトをこなしてきたけど楽しいことばかりなんかじゃなくて、客や上司に理不尽な言いがかりをつけられたことも何度もあった。自分に非がなくても頭を下げた方が得策なのだというケースがあることは身をもって理解していたはずなのに、どうして今日の俺はあんなガキみたいに拗ねた態度をとってしまったんだろう。きっと心のどこかでこの家を自分の家だと思って甘えているからだ。でなきゃあんな言い方しないはずだ。  謝っておくか。今は悪いと思ってなくても、謝った後で反省すればいいんだし。  店の方へ向かう廊下を裸足で歩いている途中、ここへ来た時に兄ちゃんから客用のスリッパを出されていたのをふと思い出す。多分、自分の部屋の前で脱いだまま忘れてきてしまったんだろう。ここに住んでいた頃はいつも裸足で生活していたし、スリッパを履く習慣自体にあんまり馴染みがないからこの方が落ち着くんだよな。  廊下の突き当たり、居住空間と店を隔てる暖簾の隙間から微かに明かりが漏れている。近づくと、その向こうから誰かがひそひそと話す声が聞こえてきた。 「……」  音を立てないようそろそろと壁伝いに歩み寄り、店の方からは死角になっている壁に背中を張りつけてそっと中の様子を窺うと、そこにはまだ店の従業員が二人残っていた。昼間も見たあの爺と、もう一人は知らない顔だけど爺と同じかもう少し年下くらいのオバサンだ。こんな時間まで店に残って一体何をやっているんだろう。そっと息を吸い込んで気配を消し、二人の話に聞き耳を立てる。 「だって、ねえ。もう三十過ぎてるんだし……こんな田舎の、それも長男の嫁になるってのがどういうことかなんて、普通聞かなくても分かってただろうに。なんか見た目からして子供っぽい奥さんだなあとは思ってたけど、そのへん何も考えないで結婚したのかしら」  背中がざわっと粟立つのが分かる。真希さんのことだ。 「そんなの建前に決まってる。どうせよそに男がいたんだろ」 「あら、そうなの?」 「そう考えるのがいちばん自然だろ。旦那様は優しいしいい人だけど、本当にそれだけだからなあ。単に飽きられたんじゃないのか」 「あんな大人しそうな顔して、最近の若い人はそういうこと平気でできるのねえ。旦那様みたいに火遊びしない男の方が結婚相手としては心配事がなくていいと思うんだけど、若いとそういうのって分からないのかしらね」 「まったく、親が親なら子も子だな。また先代みたいにどこの馬の骨かも分からんような子連れを拾ってこないといいが……」  頭が熱い。それなのに指先はひどく冷え切っていて、嫌な汗がじんわりと浮かんでくる。胃の奥がむかむかしてひどく不快だ。  今の自分が冷静さを欠いていることなんてとっくに分かっていたけど、もうどうでもいい。わざとバサッと音を立てて暖簾を捲り上げると、こちら側を向いて立っていた爺と目が合った。思ったとおり、ぎょっとした目であたふたと姿勢を正している。 「あっ……ぼ、坊ちゃん?」  俺をそう呼ぶ猫撫で声があまりに不快で、背筋がざわざわする。気分が悪い。誰かに対してここまで強い嫌悪感を感じたことはないと思う。婆の方もこっちに振り向いた途端、引きつった笑顔になった。 「ま、まあまあ、こんな遅くにいかがなさいました?」  今の俺は一体どんな顔をしているんだろう。今までそうしてきたみたいに、ノリと笑顔だけで切り抜けられたらどれだけ良かったか。笑って済ませられないほどの怒りを感じたことが今までなかった自分を、今になって心の底から恥ずかしいと思った。 「もう店はとっくに締めてるのに、いつまでも残ってくだらないこと喋ってる暇があるならさっさと帰ってくれませんか?」 「な……」  二人の顔色がさっと変わる。明らかに、俺に対しての不快感を露わにして。 「すっげー不愉快なんですけど。いい大人が陰でコソコソ下世話な話して、恥ずかしくないんですか」  自分の親より一回り近く年をとっている人に意見するのは、あまり気分のいいものではない。できればそんなことやりたくないし、そんな人間は放っておけばいずれ自分の行いが返ってくるものだと思っているから、いつもの俺だったら絶対にこんなことはしない。それなのに俺は、何をしてるんだろう。 「悟、やめなさい」  不意に背後から聞こえてきた声に、冷水を浴びせられたように血の気が引いていく。  振り向くとすぐ後ろに兄ちゃんが無表情で立っていた。 「だっ、旦那様!? いつからそこに」 「兄ちゃん……」  兄ちゃんは俺の顔を見ず、二人に向かってにこりと微笑んでみせた。 「弟が失礼しました。今日はもう上がってください、お疲れ様です」 「お、お疲れ様です」  二人がそそくさと店の奥に消えていくのを尻目に、兄ちゃんはすいと向きを変えて廊下の奥へと歩き出した。どうしたものか少し迷って、仕方なく兄ちゃんの後を追う。  兄ちゃんと真希さんが別れた理由が、何となく分かった気がする。どうせあいつらが陰でコソコソくだらないことを言って、真希さんを間接的にここから追い出したのだろう。見ていなくてもそんなの俺にだって分かる。  父さんと母ちゃんが再婚した時と同じように。 「……」  だけど、本当にそれだけだったのだろうか。  真希さんがこの家に来てから半年も経たないうちに俺はここを出て行ったからそれほどよく知ってるわけでもないけど、あんなしょうもない奴らの陰口だけで音を上げるほどヤワな人には見えなかった。どちらかと言うと芯のしっかりした印象の人で、誰にでも優しすぎる兄ちゃんにはぴったりの人だって思ってたくらいだったのに。  黙ったまま前を歩く兄ちゃんの背中は、ひどく小さく見えた。兄ちゃんは毎日あんな奴らに囲まれて、他に助けてくれる人も頼れる人もいない中、たった一人でじっと耐えてるのか。でもそれは今に始まったことでもなく、もうずっと前からそうだったんだろう。ただ、俺があまりに周りを見ていなかっただけで。 「父さんも兄ちゃんも、人を見る目がなさ過ぎるよ」 「なんだよ、いきなり」 「大事な店なのに、なんであんなの雇ってんだよ」  ぴたりと兄ちゃんの足が止まり、俺も少し後ろで立ち止まる。振り向きもせず、何を言うでもなく、ただ突っ立っている兄ちゃんにしびれを切らしてまた畳み掛ける。 「聞いてたんだろ、さっきの。全部」 「言いたい奴には言わせておけばいい」  そう言ってわずかにこっちを向いた兄ちゃんの目は、俺を見ていない。俺から少し視線を下に逸らしている。 「見て見ぬ振りして放置してたら、あいつらの言ってることを受け入れてるのと同じだろ。違うことは違うってはっきり言わなきゃ」 「悟はちゃんと分かってくれてるだろ。兄ちゃんはそれで充分だ」 「でも……」  言いかけた時、やっと兄ちゃんは俺の方に身体ごと振り向いた。見慣れた優しい笑顔で。 「あまりにも目に余るようだったら適当に理由つけて解雇するよ。悟が心配することは何もない」 「そんなこと兄ちゃんにできんのかよ。超がつくほどお人好しのくせに」  見てらんないんだよ、そう言いかけてあわてて言葉を引っ込める。それは今の俺がかけるべき言葉として適当ではないような、よく分からないけどそんな気がしたから。 「親父にも似たようなこと言われたよ。俺は人の上に立つ器じゃないんだろうな」  兄ちゃんはただ、力なく曖昧に笑った。  やっぱり気のせいなんかじゃない。俺の知ってる兄ちゃんはこんなに弱々しい笑い方をする人じゃなかった。六年半も会ってなかったんだから昔と比べたら多少は老けて見えるのも仕方ないかと思ってたけど、絶対に歳のせいだけじゃない。  そのくらい分かる。だって、子供の頃からずっと見てたんだから。 「メシにするか。腹減ってるだろ」  その声にはっとする。自分の右腕が勝手に兄ちゃんの方へ伸びていこうとしてたことに気が付いて、さっと後ろへ引っ込める。 「……うん」  何をしようとしたんだろう?  俺に構わずまた廊下を歩き出したその背中を追いかけながら、右手をぎゅっと握りしめた。 『兄ちゃんもサトルっていうんだ。俺たち、同じだね』  兄ちゃんは出会った時から頼りない身体つきをしていた。  俺に差し伸べてくれたあの手に初めて触れた時、細い指だな、と思った。少し強めに握ったら簡単に折れてしまいそうなほど、その指は頼りなくて、儚かった。
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