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05. 孤影悄然
眠りにつく時、暗い部屋の中に廊下の明かりがぼんやりと漏れてくるのを見ているのが好きだった。自分以外の家族が同じ家の中にいてまだ起きているのだと思うと、それだけで安心して眠りにつくことができたから。
だから寝る時はいつもわざと部屋の襖を半分だけ開けて、その隙間から漏れてくる廊下の明かりを見ながらうとうとしていた。一人だけど一人じゃない、そう思える時間が好きだった。
変な時間に昼寝してしまったせいか、思ったとおりなかなか寝つけない。何度目か分からない寝返りを打ちながら、眠くなってくるどころかますます冴えてくる頭でさっきのことを思い出す。
失敗したかな、あれは。
きっと兄ちゃんのことだから、自分があいつらに陰で何を言われてるかなんてとっくに知ってたんだろう。知ってて、気付いてないふりをしていたんだ。店と母ちゃんを守るために。
そんな兄ちゃんの努力を俺がめちゃくちゃに叩き壊したんだ。兄ちゃんが今までどんなに耐えてきたかも考えないで、ただあの時の不愉快な気持ちをぶちまけたいという衝動に流されるまま、兄ちゃんがずっと守ってきたものを台無しにしてしまった。
『悟はちゃんと分かってくれてるだろ。兄ちゃんはそれで充分だ』
「……」
俺は、とてもあんなふうには思えない。
自分の目の前で大切な人が好き勝手に言われてたら、黙って見過ごすことなんかできない。でもそれは、俺が馬鹿で未熟で兄ちゃんより劣っているからではない。それが普通なんだ。そうだ、ちっともおかしいことじゃない。
なら俺は、どうすれば良かったんだろう。あんなことを言われてるのに、ただ黙ってじっとしてるしかなかったんだろうか。子供の頃みたいに。
「……悟、起きてるか?」
部屋に漏れてくる廊下の明かりがふと細くなって、その後に襖を外側からトントンと小さく叩く音が聞こえてきた。
「……寝てる」
「起きてるな。入るぞ」
「寝てるって言ってんじゃん」
部屋が突然明るくなり、そのあまりに暴力的な眩しさに目をぎゅっと瞑る。
「んだよ……今何時だと思って」
「まだ十時だよ。お前いつもこんなに早く寝てるのか?」
「疲れてんの、いいから早く電気消せって」
俺の言うことなどまるで聞く耳を持たず、何のためらいもなく襖を全開にして部屋に入ってきた兄ちゃんは小さなお盆を手にしている。もぞもぞと起き上がると、兄ちゃんは俺の枕のすぐ横に座りながら畳の上にそのお盆を置いた。
「お土産、美味かったよ。ご馳走様」
「……あっそ」
空港で搭乗時間ギリギリになって適当に選んだものだったから、正直言うと何を買ったのかもう既に思い出せない。兄ちゃんの細く白い指がお盆のへりをそっと押してこっちに向けている。そこには麦茶で満たされたグラスと、淡い黄緑色に透き通った涼しげな見た目の羊羹が一切れ載せられていた。
「これ、お返しな」
「いいよ。売りものなんだろ」
「悟のために用意しておいたんだ。食後に出すつもりだったのに、お前さっさと部屋に戻っちゃったから」
柚子羊羹だ。この店の看板商品で、子供の頃は夏休みによく食べさせてもらってたのをおぼろげに覚えている。その見た目だけではなくさっぱりとした甘酸っぱい味と柚子の香りが暑い夏にぴったりで、俺の中で夏の味と言えばこの羊羹が常に上位にランクインしている。
「……じゃあ、もらっとく」
「おう」
布団から出て座り直し、添えられていた小さな黒文字で羊羹をそっと一口大に切り分けて口に運ぶ。懐かしい柚子の香りが広がって、ふと今の自分があの頃に戻ってしまったような不思議な感覚に囚われた。夏休みの夜の匂い。それは他のどんな季節よりも特別で、遠く懐かしい匂いだった。
「どうかな。じいちゃんと親父の作るものにはまだ遠く及ばないだろ」
「そんなことないよ」
兄ちゃんは何も言わず少しだけ困ったように笑っている。その目をなるべく見ないようにしながら、冷たい麦茶をこくんと飲んだ。
「この店って、なんでこれを看板商品にしてんだろ。見た目は地味だし、美味いことは美味いけど正直そんなにインパクトがあるわけでもないのに……子供の頃からずっと不思議だったんだけど」
「ああ、それな。創業当時、何とかっていうすごい地主さんの一人息子がこれをえらく気に入ってて、よく使用人が買いに来てたんだってさ。まだ創業して間もない頃で客なんてほとんどいなかったのに、その息子さんのおかげで何とか店を畳まずにやってこられたから、初代当主が感謝の意を込めて看板商品にしたらしい」
「ふーん……」
「どこまで本当かは分からないけど」
知らなかった。知ろうとしてなかっただけかもしれないけど。
それっきり話すこともなく、ただ黙々と羊羹を口に運んでいる俺の横顔を兄ちゃんはじっと見ていた。何とも居心地の悪い空気に堪えかねてまだ何か用があるのかと聞こうとしたまさにその瞬間、向こうから話を切り出してきた。
「さっきは、ありがとう。まだちゃんとお礼言ってなかったな」
「……」
タイミング悪く、そこでちょうど羊羹を食べ終えてしまう。お盆に皿を戻してグラスに残っていた麦茶を一気に喉へ流し込むと、兄ちゃんは柔らかく微笑んで言った。
「あの人たちには後で俺の方から改めて謝っておくから、悟は何も気にしなくて大丈夫だ」
「はあ? 何を謝る必要があるんだよ」
思いっきり不快感を露わにしてそう聞き返す。さっきの流れでどうしてあいつらにこっちが謝らなきゃいけないって話になるのか、全く理解できない。
兄ちゃんは俺の態度を咎めたりはせず、代わりに今しがた俺が平らげた柚子羊羹の皿を手に取ってこっちに示して見せた。
「これに使ってる柚子は、小椋さんのとこで採れたものを買ってるんだ。どういうことか分かるな?」
「……俺のためだって言いたいのかよ」
「そうじゃない。これからは俺とお前はただの兄弟じゃなくて、お互い大事な取引相手になるんだよ。仕事に私情を持ち込むなと言ってるんだ」
「私情を持ち込んでんのはどっちだよ。仕事やりづらくなるのが嫌だからって理由で何も悪いことしてないのに頭下げてるだけじゃねえか。自分に非がないなら謝ったりしちゃダメだろ、そんなの大人がすることじゃない」
「悟……」
「俺のためとか言って兄貴ヅラされるのは迷惑だ。ホントの兄ちゃんでも何でもない、ただの他人のくせに、偉そうな顔すんな」
兄ちゃんは何も言わない。ただ黙って、じっと俺の目を見ている。怒ってはいないけど、何故か少し寂しそうな目をして。聞き分けのない子供が癇癪を起こして泣きわめくのを前にして戸惑っているような表情にも見えた。
「兄ちゃんに俺の何が分かるんだよ。兄ちゃんも、父さんも、この家も、俺のものじゃないんだ。赤の他人なんだよ、俺は」
兄ちゃんが言うところの、言っていいことと悪いこと、その最たるもの。それを分かっているから、今まで俺はそれだけは絶対に言葉にしないよう気を付けてきた。
赤の他人。
でもそれは変えようのない事実だ。俺と兄ちゃんは赤の他人だ。どんなに取り繕ってもどんなに綺麗な言葉で飾っても、俺たちは家族にはなれない。だって俺と兄ちゃんには、同じ血は一滴も流れていないのだから。そんなことは当事者がいちばんよく分かってる。
「お前は、赤の他人が誰かに陰口叩かれてるだけであんなに怒るのか?」
静かにそう聞かれて、血が上っていた頭が少しだけ冷めた。
「あれは……別に、ただ胸糞悪かったから」
「俺のことを家族でも何でもないただの他人だと思うなら、放っておけばいいだろ」
「……」
白い指先からお盆の上へ皿が戻される。次にその指は迷うことなくこっちに伸ばされ、俺の髪をそっと撫でた。
「他人だなんて、そんな寂しいこと言うな。悟はこの家に初めて来た時からずっと、俺の大事な弟なんだよ。俺はお前を他人だと思ったことなんて一度もない」
……ああ、だめだ。
例えようもないほど昏い気持ちが、胸の底からゆっくりと浮かび上がってくるのが分かる。
ずっと昔に心の海の底へ無理やり沈めたまま、今日までずっと見ないようにしてきたもの。
何かの拍子でまた浮かび上がってこないよう、水面が波立つことのないよう、常に凪いだ海のように揺れることなく動じずいることに必死だった。それなのに。
「じゃあどうして、真希さんのこと今まで黙ってたんだよ?」
どうしてそんなに寂しそうな目をするんだろう。その理由さえ兄ちゃんは俺には教えてくれない。兄ちゃんは今、一体何を見ているんだろう。
ふと長いまつ毛がわずかに伏せられ、兄ちゃんは俺からほんの少しだけ目を逸らした。
「悟は向こうで頑張ってるんだから、余計なこと話して心配かけたくなかった」
「俺のせいにすんな。余計なことってなんだよ? この家のことだから、よそ者の俺には関係ないって思ってたんだろ?」
「そんなことは思ってない」
「だったら」
「……黙ってたことは、悪いと思ってるよ。母さんに口止めまでしてたのも俺だ。ごめん」
そうだろうなと思ってはいたけど、いざ本人の口からそれが事実だったと告白されるのは想像以上に堪えた。
謝ってほしいわけじゃない。そんなこと言ってほしいんじゃないのに。俺は兄ちゃんにどんな言葉を求めてるんだろう。こんなふうに問い詰めて追い込んで、俺が本当にしたいのはこんなことじゃないのに。
俺の目を見ないまま、兄ちゃんはぽつりと呟いた。
「悟は、付き合ってた人と別れたことがあるか」
「……え」
無意識にぎゅっと指を握りしめていた。咄嗟に答えられなかった。
それでも兄ちゃんは相変わらず少しうつむいたまま、俺を見ない。どうやら俺に質問の答えを求めてるわけではなさそうだと気付いて、ついほっと小さくため息をついてしまった。
「あの時の俺、完全にキャパオーバーしてて……どうしたらいいのか分からなかったんだよ。人前でも上手く笑えないし、飯も風呂も適当に済ますようになってきて、だんだん仕事にも支障が出るようになって、こんな状態でお前に連絡なんかとったら絶対に心配かけるって、何より自分がお前に甘えそうで、できなかった」
「……」
「こんな自分を悟にだけは知られたくなかった。隠してたっていつかはバレることくらい分かってたのに、お前に今の俺を見られてがっかりされると思ったら、どうしても言えなかった」
そこでやっと、兄ちゃんは俺を見た。その顔は笑っていたけど、寂しそうな、どこか歪な笑顔だった。
「カッコつけたかっただけだよ。お前をよそ者だと思ってるからじゃなくて、お前だから言えなかったんだ。お前だけは昔からずっと俺を頼ってくれてたから、その期待に応えられない俺は見せたくなかった。……それだけ」
俺は馬鹿で、思い込みが激しくて、とんでもなくおめでたい勘違い野郎だ。今ほどそれを強く自覚したことはない。
俺はずっと何も見えていなかった。何も分かっていなかった。知ろうともしていなかった。
俺の歪んだ劣等感が、ずっと兄ちゃんを追いつめていたんだ。
自分の意思が及ばないところで何かに突き動かされ、勝手に手が兄ちゃんの方へ伸びていきそうになるのを咄嗟にぎゅっと布団を握りしめて抑えた。まただ。今この手は何をしようとしたのだろう?
幸い兄ちゃんには気付かれていないようだけど、このままだとまた同じことをしてしまいそうだったから、身体の向きを少しだけ兄ちゃんから逸らした。
「……なんで、別れちゃったの? 真希さんと」
「難しいな。何かひとつの理由で別れたっていうんじゃなくて、いろんなことが積もり積もってって感じだよ。もともと真希は大阪でやりたい仕事を諦めてこんなド田舎に来てくれたから、ここでの生活にいろいろ思うことがあったんじゃないかな。俺にはずっと何も言わなかったけど、無理させてたんだと思う」
「ふーん……」
思ってた以上に兄ちゃんはちゃんと話してくれて、自分から聞いておきながら内心ひどく動揺してしまう。ちらりと兄ちゃんを見ても、少し伏せられているその目は俺を見ていなかった。
「別れたくないって、言わなかったの?」
「言わないよ。俺のわがままで真希に夢を捨てさせるわけにいかないだろ」
「そういうのは、わがままって言わないと思うよ」
「……難しいな」
「簡単なことだよ。兄ちゃんがややこしく考えてるだけだって」
「はは、そうかも」
兄ちゃんは自嘲気味に力なく笑った。
『兄ちゃんな、結婚するんだ』
そう俺に言った時の兄ちゃんの顔を、俺は今も鮮明に覚えている。少し照れくさそうに、とても幸せそうに笑う兄ちゃんはあまりに眩しくて、俺は今すぐ消えてなくなりたいと心の底から思った。本当に消えてしまいたかった。
一点の曇りもない兄ちゃんの未来に、俺のような暗く汚いものがまとわりついていてはいけないと思ったから、俺はこの家を出ようと心に決めたのだ。
俺は私生児だった。
母ちゃんは、ただの当主の後妻というだけなら店の連中からあそこまで厄介者扱いされなかったはずだ。どこから話が漏れたのかは今となっては知る由もないけど、本当の父親がどこの誰なのかも分からないような子供を連れている女を妻として迎え入れたりしたら周りから一体どんなことを言われるか、救いようのないバカな俺でもそのくらい簡単に想像がつく。あの二人はずいぶんと思い切ったことをしたんだなと、子供ながらに思っていた。
周りからどう思われようと何を言われようと、それでも一緒になることを選んだ父さんと母ちゃんのように、俺にも同じことができるだろうかと時々思う。そしていつも最後には同じ結論に行き着くんだ、俺にはできないと。
結婚ってそのくらいの覚悟がないとしてはいけないものだって、ずっとそう思ってた。だから兄ちゃんが真希さんと結婚した時、もう俺にはどんなに小さな望みも抱くことは許されないんだと思った。周りからどんな目で見られるのか、どう思われるのか、そんなことばかり気にして身動きが取れなくなっているような俺には、兄ちゃんをただ見つめているだけの資格すらない。たとえそれが、一生言葉にするつもりのない気持ちだとしても。
日の当たる場所で誰からも祝福される道を真希さんと歩いている兄ちゃんに対して、俺のような存在がこんな後ろ暗い気持ちを向けてはいけないのだ。それは決して許されることではないのだから。
「せめて親父がまだ元気でいてくれてたらな……とか、思ったりもしたんだ。情けないよな、三十過ぎてもこんなで」
「そんなことないよ」
「親父は悟のことをずっと気にかけてたから、俺がしっかりしてなきゃって思ってたんだけど。今は悟の方がずっとしっかりしてるよ」
「……そんなこと、ない」
俺はずっと、自分がいちばん不幸で可哀想だと思ってた。
父さんが死んだ時、悲しむ暇も与えられずに家を継いだ兄ちゃんがどんな気持ちだったのか、想像しようとさえしなかった。あの時いちばんつらかったのは兄ちゃんだったのに。
家族や店の人たちの前で泣いたり取り乱したりすることは一切なく、ただ淡々と通夜の段取りや手続き、世話になった人たちへの挨拶をこなしていた兄ちゃんは、あれから今までの間に一度でも泣くだけの余裕を与えられたことがあったんだろうか。
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