ブラザーコンプレックス

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ブラザーコンプレックス

01. 海角天涯  どこから手をつけたらいいんだろう。  さすがに六年も住んでいると家具の配置から細々したもののポジションまですっかり定着していて、それに目が慣れてるから今更それを動かそうなんて発想自体がそもそも出てこないのに、こいつらを今月中にこの部屋から綺麗さっぱり全部運び出さなきゃいけないのか。あまりにも途方のない計画を前に茫然と突っ立ってると、いつかもこんなことがあったような気がした。  ああ、そうだ。確かにあった。  まだ小さいガキだった頃、初めてあの家に行った時。俺よりずっと大きな手に掴まって連れて行ってもらった港から見た、どこまでも続く大きな海。遮るものが何もない、あまりにも広くて遠い海が、あの頃は少し怖かった。 (……まず、ゴミから片付けるか)  どんなに壮大な長い旅も、始まりは小さな一歩だ。ローテーブルの上に置きっぱなしになってる弁当の空き箱と割り箸をビニール袋に突っ込もうとしたまさにその瞬間、クッションと洗濯物の間からヴーッ、ヴーッ、とこもった振動音が聞こえてきた。すぐに止まるだろうと思って無視していても振動は一向に止まらず、仕方なく洗濯物をどかしてそこにあったスマートフォンを拾い上げて画面を確認した。 「……」  咄嗟に拒否ボタンに触れようとして、やめる。このまま放っておいてもそのうち留守番電話に繋がるだけだろうからそれでもよかったんだけど、後でかけ直すのも面倒だし。仕方なく応答ボタンをタップして受話口を耳に当てた。 「はい。なに?」 『おお、出た出た。早く出ろよ』 「今何時だと思ってんの?」 『悪いな。お前が帰ってくることついさっき初めて知ったから、急いで電話しなきゃと思って』 「別に話すことなんてないっしょ」  どっこいしょ、と言いながら座り込み、クッションに背中を沈めていく。見上げた先にある閉じたカーテンの隙間から暗い夜空がほんの少しだけ見えて、そこには白い満月がぼんやりと浮かんでた。あの月、兄ちゃんの部屋からも見えてんのかな。  七つ年上の兄ちゃんと俺には、血の繋がりはない。もともと兄ちゃんの父親と俺の母親が再婚したことがきっかけで兄弟になった、要するに俺たちは親の連れ子同士の関係だ。  俺の名前は悟で、兄ちゃんの名前は聡。漢字は違うけど、二人とも『さとる』と読む。父さんと母ちゃんは知り合って間もない頃、お互いの子供の名前が偶然にも同じだったことをきっかけに親しくなったのだと、ずいぶん後になってから母ちゃんに聞かされたことを今でもよく覚えてる。  地元で創業百五十年を越える老舗の和菓子屋『こばやかわ』、その六代目当主として後を継いだ父さんと店の従業員だった母ちゃんの再婚が決まった時、きっと周りからはある事ない事いろいろ言われたと思う。当時まだ十歳だった俺でも子供ながらにそういう周囲の空気は何となく感じていたから、兄ちゃんはもっと複雑な気持ちだったはずだ。それでもあの時、兄ちゃんは優しく俺に手を差し伸べてくれたんだ。 『兄ちゃんもサトルっていうんだ。俺たち、同じだね』  後になって聞いたけど、それまで一人っ子だった兄ちゃんはずっと弟か妹が欲しかったらしい。あの時は純粋にいい人だなと思ったけど、あれは別に俺を受け入れてくれたわけじゃなくて、ずっと望んでようやくできた弟がたまたま俺だったから優しくしてくれたっていう、ただそれだけのことだったんだろう。  勘違いをしてはいけないと、子供ながらに肝に銘じていた。  俺はこの家の子供じゃない、当主の後妻の連れ子だ。母ちゃんのためにも、家のためにも、俺はただ置き物みたいに黙ってじっとして、言われたことは大人しく聞いて、わがまま言わないで、面倒なことを起こさないように、兄ちゃんより目立たないように、そうやって生きなきゃいけないと。  別に嫌な思いをしたわけではない。父さんは優しくていい人だし、都内の大学に通いながら一人暮らしするには充分すぎるくらいのお金を出してくれた。母ちゃんのこともすごく大切にしてくれてたし、口には出さなかったけど俺と母ちゃんを周りの心ない噂話から守ってくれてたことも知ってる。  でも、だからこそ俺はあの家に寄りかかって生きるわけにはいかなかった。良くしてもらった恩を返したいと思うなら尚更、あの家から離れなきゃいけないとずっと思ってた。  高校を卒業した時、これだけは誰にも負けないと胸を張って言えるものも、何を失ってもこれだけは諦められないと言えるような夢も、俺には何ひとつなかったけど、あの家から離れなければという思いだけで俺は逃げるように故郷を出てきた。  居場所なんかどこだっていい。あの家でなければ、どこでだって生きていける。生きていける自分にならなければ。 『小椋さんとこに行くんだってな。母さんに聞いたよ』  兄ちゃんと電話なんて何年ぶりだろう。最後に話したのはいつだっけ。少なくとも二十歳を過ぎてからは一度も電話してなかった気がする。そんなことをぼんやり考えながら、適当に相槌を打った。 「あー、うん」  小椋さんというのは父さんの従兄弟にあたる人で、あの家から少し離れたところにある結構広い山でミカン農家をやっている気のいいオッサンだ。ミカンの他にも柚子とかすだちとかレモンとか、柑橘類を手広く栽培してる……と、聞いている。  正直言うと詳しいことはあんまり知らない。最後に実家で迎えた正月に顔を合わせた時に少し話を聞いただけで、もし興味があったらいつでも来てねと言われ、それっきりだった。その程度の情報量で今になってそこで就職することを決めてしまった俺も俺だけど、小椋さんも大概だと思う。何年も前の正月の酒の席で話したことだから無理もないが、いきなり俺が電話してあの時の話をもう一度詳しく聞きたいと頼んだ時、小椋さんは俺が何を言っているのか把握するのに時間を要し一分間無言だった。 『えらく急に決まったなあ。普通、最低でも一回くらいはこっち来てから決めるもんじゃないのか?』  電話の向こうから聞こえてくる兄ちゃんの声は、少しあきれているようだった。 「そう思ったんだけどさ、こっちから愛媛まで一回往復するだけでも交通費バカになんないじゃん。別に全然知らない人んとこで雇われるってわけでもないし、電話でちょっと話して決めちった」 『ほんっとお前って、昔からそういうとこ変わんないよな。自分の人生なんだから、もう少し慎重に考えろよ』  相変わらずの説教くさいその口調も、今は何だか懐かしく感じる。わざとよく聞こえるように小さく笑いながら返してやった。 「はいはい、兄ちゃんもそういうとこ変わってねーな」 『なんだよ』 「自分のことでもないのに、心配しすぎじゃね? ってこと。俺もう二十五よ? どこで働こうがどんな生き方してようが、完全に自己責任っしょ。兄ちゃんが心配することじゃないよ」 『そうもいかないだろ。普通はそうかもしれないけど、お前は俺の弟なんだから。心配して当たり前だ』  ……弟、ね。 「……うざ」  言ってからしまったと思った。完全に無意識だった。 『あ?』  明らかに不愉快そうな声が返ってきて、これ以上は話を続けるべきではないと気付く。少し強引に切り上げてしまおう。 「べーつに。んじゃ俺、もう寝るわ」 『ああ……』 「兄ちゃんもさっさと寝ろよ、おやすみー」  向こうが何か言ってくるのを待たず、一方的に通話を切った。  なんか、どっと疲れたな。やっぱり出なきゃよかった。  ベッドの上にぽいとスマートフォンを放って、深くため息をつく。床に放置してあるさっきのビニール袋が視界に入り、そう言えば片付けの途中だったことを思い出した。もそもそと身体を起こすと、ベッドの脇に置いたバッグの下から白い封筒が半分覗いているのを見つけた。 「……あ」  そうだった。この部屋の退去届、今日帰ってきた時にポストに入ってたのを持ってきてたんだっけ。早く書いて管理会社に出さないと。面倒だけど手続きに必要な書類はさっさと片付けなくては。  ローテーブルの上のゴミを処分し、封筒の中から出した退去届を広げてさっさと取り掛かることにした。  名前やら電話番号やらをボールペンで記入していると、つい最近も同じような内容をこうして紙に書いたことがあった気がしてふと手が止まる。何だったっけ。 『小早川くん……本当に帰っちゃうのか? なんか信じられないっていうか、寂しくなるなあ』 『急な話で本当にすみません。次に来る新人さんが決まってから辞められたらよかったんですけど』 『いや、そんなこといいんだよ。小早川くんが自分で考えて決めたことだからね』 『今までお世話になりました。俺これからは地元でミカンとかレモンとか、あと柚子とか育てるんで、落ち着いたらオーナーにも地元で採れたものいっぱい送りますね』 『おっ、じゃあ楽しみにしてるよ。身体に気を付けて、頑張ってね』 『はい』  ……そうだ、思い出した。退職届だ。  去年の秋頃からバイトしてた、海辺の町にある小さなレンタルビデオ店。あの店を辞めたのはほんの数日前のことだ。  結構居心地のいい店だったから、できればもう少し働きたかったんだけどな。地元に帰る話がとんとん拍子に進んでしまい、かなり急な退職になってしまったのは本当に申し訳ないことをしたと思う。辞めますって言った時のオーナー、絶句してたし。  そう言えば、磯辺さんにちゃんと最後の挨拶してこなかったな。  バイト始めたばっかりの頃に仕事教えてくれたり、磯辺さんが休みの日はたまにレジのフォローしてくれたり、結構世話になったのに。 (……ま、仕方ないか)  そう思おうとしても、やっぱり少し後悔してる自分がいる。バイトなんて終わりはあっさりしたもんだってことくらい分かってる、実際今までのバイトは全部そうだった。なのにあのビデオ店で働いてた時間だけは、思い出すだけで不思議と懐かしく名残惜しい気分にさせられた。 「……」  この時間になると、本当に静かだな。  無言でペンを走らせていると、ついどうでもいいことを考えてしまう。さっき兄ちゃんに言われたこととか。 『自分の人生なんだから、もう少し慎重に考えろよ』  人の気も知らないで。  どんなに慎重に考えたところで、俺の将来なんてたかが知れてる。いくら努力したって、どうせつまんないことしか待ってない。  兄ちゃんの人生と比べたら俺の人生なんて、吹けば飛ぶような重みのないペラッペラの紙切れみたいなものだ。今までずっと続けてきたここでの生活もバイトも、こうして紙切れ一枚であっけなく終わってしまうのだから。 「……帰りたくねえ〜」  このままここで一人のたれ死んで終わった方がまだマシだった。  結局俺は、あの家から死ぬまで出られないんだろうか。
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