海の見える部屋

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ex6. 君のSPLASH (4/4) 「はーい、それじゃ二次会行く人はこっちでーす! はぐれないようにねー」  夜の街に酔っ払いの弾んだ声が響き渡る。ぞろぞろと連れ立っていく背中を尻目に、さっき店の前で別れたバイトちゃんたちの姿をきょろきょろと探す。  うちの会社は通常だと飲み会にバイトの子たちが参加することはほとんどないのだが、今日のような複数部署が集まって合同で行う歓送迎会ではその限りではない。でもやっぱり二次会まで来る子は一人もいなくて、店を出たところでみんなサクッと挨拶をしてそれぞれの帰路についていった。 (あいつ、もう駅に行っちゃったのかな……)  店にいる間ずっと機会をうかがっていたのに、人数が多過ぎるせいで結局一度もさんごのそばに近づくことができなかった。本当は途中に二人で抜け出して誰もいないトイレでほんのちょっとだけイチャイチャしたかったのだが、それすら叶わなかった。  いや、百歩譲ってそれはまだいいとしよう。  さんごはあの見た目のせいもあり、とにかく社内で密かに人気がある。女子社員たちからはもちろん、あいつの父親くらいの年代の役職者たちからも陰ではとんでもなく気に入られているのだ。どちらかと言うと女子よりはオッサンにウケがいいタイプだというのは俺ももうずいぶん前から気が付いてた。何故なら俺がオッサンだからだ。  そのせいか、飲み会の間中ずっとさんごにはうちの部長をはじめとするオヤジ連中から近くに来いとの指名が絶えず、声がかかる度にさんごは役職者の隣の席に着いてお酌をしたり話相手になったりと引っ張りだこの状態だった。そんなのを見せられて、俺の胸中が穏やかでいられるはずがない。もともと会社の飲みニケーションなんて大嫌いだったけど、今日ほど苦痛な飲み会は今まで経験したことがなかった。 「あ……」  駅へと向かう人の波の向こう、居酒屋から少し離れたところにある交差点で信号待ちをしているあいつの後ろ姿を見つけて、思わず声が出た。あわてて酔っ払いたちの肩をかき分けるようにしながらあいつに駆け寄り、ようやくすぐ後ろまでたどり着いたところで不意にさんごはこっちを向いた。 「あれ、難波さん? どうしたの、二次会行くんじゃ」  何も考えずにその細い肩を抱き寄せようとしていた自分の手を、すんでのところで引っ込める。  あっぶね、こんな往来のど真ん中で俺は何を……って、違う違う。今はそれどころじゃなくて。 「その……」 「?」  さんごはきょとんとした顔で俺を見上げている。酔っている様子はなく、どうやらほとんど飲んでないみたいだ。  素早く周囲に見知った顔がいないか確認し、そっとさんごの耳に顔を寄せて小声で耳打ちする。 「俺、二次会行く途中で抜けてくるから。さんごは先帰って待ってて、俺もすぐ帰る」 「なんで? 二次会行ってくればいいのに」 「やだよ、これ以上あの酔っ払いたちの相手なんかしたくねえし。それより俺、早く帰ってさんごとしたい」 「え……」  信号が青に変わり、人の波が動き出す。騒がしい雑踏に交じってかき消されたさんごの声は、明らかに戸惑っていた。 「で、でも……明日も仕事だし」  少しだけうつむいてしまったさんごの頬は、夜目にもはっきりと分かるほど赤い。周りから見えない位置でそっと手を重ねて、ひんやりしたさんごの指の間に自分の指先をゆっくりと這わせる。さんごが小さく息を呑む音が聞こえた。 「……いいだろ? また昨日みたいに潮吹かせてやっから」 「ばっ……! そ、そういうこと外で言うの、やめてって」 「だめ?」  少しだけ腰をかがめて、下からさんごの顔を覗き込む。さんごは上気したように真っ赤な顔で視線をそわそわと泳がせてる。  うわ、ヤバい。可愛いすぎるだろ、その反応は。 「……ダメでは、ないけど」  小さな声でそう答えながら、さんごはぐるぐる巻きにしているマフラーに鼻まで顔を埋めてしまった。おかげでくぐもってよく聞き取れないその声は、きっと俺の耳にだけ届いたのだろう。  本音を言うと今すぐここでキスしたくてたまらないんだけど、さすがにここはまずいよな。ぐっと理性で堪えて、大人の男らしく余裕あるとこ見せないと。 「おし、決まりな。じゃあ後で……」 「おーい、難波ぁ! 何やってんだよ、早く来いって」  突如松山のでかい声が飛んできて、俺は弾かれたようにさんごから手を離した。 「あ、え? お、おう。今行くよ」  なんだあいつ、てっきりもう向こうに行ってると思ってたのに。俺たちの前へわざわざ歩み寄ってきた松山は、横でフェードアウトしようとしていたさんごに目ざとく気付いてしまった。 「あれっ、三国くん? ちょうどいいや、三国くんも二次会おいでよ。難波も一緒だからさ」 「えっ、いえ……オレは遠慮しときます」 「松山、絡むなよ。ミクニはもう帰るとこなんだから」  松山はほろ酔い状態らしく上機嫌だ。とりあえずこの場は一旦さんごと別れて、松山たちと二次会に向かうと見せかけてその途中で適当に抜ければいいか。 「あれー、三国くんだ。もしかして二次会来てくれるの?」 「おいでよー、部長もすごい喜ぶよ!」 「げ……」  松山だけかと思っていたのに、その後ろにわらわらと男が二人ついてきた。どちらも俺や松山と同期の奴で、すっかり出来上がっている。  面倒くさいことになったな、酔っ払いが増えてしまった。こういう時に限って頼みの綱の磯辺さんはとっくに帰ってしまったのか姿が見えない。 「そうそう、途中で帰っても全然大丈夫だからさ。難波も一緒ならそんなアウェーな感じでもないでしょ? 行こ行こ!」 「あの、でもオレは……あっ」  同期の一人がさんごの手を引き、そのまま強引に連れて行こうとしている。それを見た途端反射的に身体が動いて、そいつの手をさんごから振り払っていた。 「いてっ、なんだよ難波ー」 「絡むなっつってんだろ、ミクニはもう帰るんだよ」  奴らがそれ以上さんごに近づけないよう、さんごの肩を片手でぐいっと抱き寄せて腕の中に閉じ込める。 「な、難波さん」 「……」  松山たちは何故かぽかんとした顔で、俺とさんごを見ていた。  またさっきの飲み会の間みたいに、さんごを他のオッサンたちが囲っているのを見せられるなんて冗談でも嫌だ。一次会よりも少人数になっているし、参加者は全員酔っている。そんなところにさんごを連れて行ったら何をされるかなんて、想像するだけでもおぞましい。 「俺やっぱ二次会行かない。こいつと帰るから、部長たちにもそう伝えといて。じゃあな」 「え、いや、ちょっ……待って。どういうこと?」 「なにが?」  さんごの肩を抱いたまま駅に向かおうとすると、俺に手を振り払われた同期があたふたと声をかけてくる。 「いや、だから……」 「一緒に住んでんだから、一緒に帰るのは当たり前だろ」 「一緒に、住んでる?」  しまった。  今この場にいるメンツの中で、そのことを知ってるのは当事者である俺とさんごの他には松山だけだった。 「え、ええ〜っと……?」  同期が必死に頭の中を整理している横から、それまで黙っていた松山が前にずいっと進み出てくる。 「あのさあ、前から思ってたんだけど……お前らって、どういう仲なの?」 「どういうって……」  隣のさんごにちらりと視線を向ける。さんごは困惑しきった表情で俺を見上げていた。  心の準備って、いつ終わるんだ? 何をもって準備ができたと言えるんだ?  きっと、その瞬間は待っていてもずっと来ないのだろう。一歩を踏み出すその時もきっと、俺の心はまだ準備ができていないのだろう。 (……潮時かな、そろそろ)  さんごの肩を更に抱き寄せて、一ミリの隙間もないほど近くに顔を寄せる。きっとこれ以上ないほど混乱しているのであろうさんごの戸惑った目を無視して、その唇に一瞬だけ自分のそれで触れた。 「……っん」  顔を上げ、完全に固まっている松山たちを見回してはっきりと言い放つ。 「そんなん、見りゃ分かるだろ」  翌日、会社中が俺とさんごの噂で持ちきりになっていたことは言うまでもない。
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