アクアリウムボーイ

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02. 偏った食生活  もともとマメに自炊する方ではないが、仕事が立て込んでくるとまず最初に適当になってしまうのはいつも食生活だ。  あのカツ丼屋に通う楽しみを失った俺の次の行きつけは、目下近所のコンビニである。カツ丼の次はコンビニ弁当、こんな生活を続けていたら早死にするのは火を見るよりも明らかなのだが、だからと言って改善できるものならとっくにしている。 (また健康診断の結果、要検査かなあ……)  深く長くため息をつきながらも、手は無意識のうちに缶ビールへと伸びていく。まあ、酒は百薬の長と言うし、適量ならむしろ身体に良いはずだ。 「あれ。この間のお客さん?」  どこかで聞いたことのあるような声だった。少し鼻にかかったような、かったるそうな声。  缶ビールをカゴの隅に追いやりながら横をちらりと見ると、そこにはやはりどこかで見たような知らない男が立っている。 「えーと……」  見覚えは確かにあるのだが、どこで見たのかがさっぱり思い出せない。ヤバい、年だな。  どうやら『お前誰だよ』って俺の顔に書いてあったのか、そいつは小さく肩をすくめて苦笑した。 「この前、そこのカツ丼屋で。バイトの女の子が辞めてショック受けてた人だよね」 「……あ」  記憶が瞬く間に甦ってくる。そう言えばそうだ、思い出した。あの店の店員の制服を着ていないからすぐに気付かなかったのだろう。  明らかにサイズの合っていない大きめのパーカーに身を包んでいるせいで、ただでさえ細っこくて蹴れば折れそうな体型が余計に強調されてもはや病的ですらある。下はよれよれのスウェット、裸足にサンダル、どこからどう見てもヤンキーである。  この前カツ丼屋で見た時も目を惹かれたあの不思議な髪の色は今日も変わらず、眩しすぎるコンビニの蛍光灯の下で少し動く度に暗い栗色の中に淡い桃色がちらちらと覗いては消えていく。  本当に変わった色だなあ、今の流行りなのかな? こういうカラーリングって自分ではやったことないからよく知らないけど。そんなことを考えながらついまじまじと見つめてしまう。  そいつはふと俺の持っているカゴに視線を向けた。 「もしかして、それ今日の晩ごはん?」 「え? あ、ああ……そうだけど」 「ビールと焼肉弁当だけじゃ身体に悪いんじゃないすかね」  初対面も同然の奴にまで食生活の改善を促されるとは思ってもみなかった。 「ほぼ脂と炭水化物しかない食い物を提供する店で働いててよくそんなこと言えるな」 「あー、カツ丼屋ね。もう辞めたんすよ、あそこのバイト」 「え……そうなの?」 「うん」  こいつとあの店で初めて顔合わせてから一週間も経ってない。あの後すぐに辞めたってことか?  会社の総務にいる俺は担当している業務上、よくバイトの子たちと入退社に関わるやりとりをすることが多い。人には向き不向きがあり、仕事や社風に馴染めず短期間で辞めていく子を今まで何人も見送ってきた。そういうのは本人や周りの努力でどうにかできるものではないと分かってはいるのだが、今の若い子たちは俺の世代と違っていろいろなことに見切りをつけるのが早く、その感覚の違いに大きな隔たりを感じているのもまた事実だ。って、こういう考え方がオッサンなんだろうけど。 「まあ、合わないバイト無理して続けることもないよな」 「合わないっていうか……」 「ん?」  そいつは口ごもり、わずかにまつ毛を伏せた。 「……や、なんでもない」  何となくだけど、そいつが話を切り上げようとしていることは伝わってくる。俺だって別にこいつがバイトを辞めた理由になんて興味ないし、このへんでさっさと終わりにした方がよさそうだ。  何か他の話題はないものかと思って視線をさまよわせていると、そいつの持っているカゴの中に目が止まった。そこに入っているのは、ペットボトルのお茶と、菓子パンと……バナナ? 「そっちこそ、人の食生活とやかく言えるほどバランスのとれたメシには見えないけどな」  そいつは俺の視線の先にあるものに気付くと、あからさまにあきれたようなため息をついてみせた。 「これだけで終わりなわけないじゃん。他にもちゃんと作って食べるよ」 「え、なに。料理できんの?」  水とカップ麺だけで生きてそうな感じなのに、人は見かけによらないものだ。 「大人になってもろくに何も作れないって、人としてどうかと思うけど」 「……ごもっともです」 「オレてっきり、お客さんはあの子目当てでカツ丼屋に通ってたのかと思ってたんだけど。本当に何も作れないだけだったんだね」  おそらく俺より十は年下であろう子からここまで蔑まれる羽目になるとは思ってなかった。こいつの言うことを全部そのまま認めるのは癪だから、つい言い返してしまう。 「い、一応簡単なものなら作れるよ。ただ会社から帰ってくると疲れて作る気力も残ってないから、仕方なくだな……」 「へーえ? じゃあやっぱりあの子目当てで通ってたんだ」 「ま、まあ……多少は」  そいつは俺を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて鼻をふんと鳴らした。俺より背が低いはずなのに、まるで見下されているような気分だ。 「店にマメに通ってればそのうちあの子とどうにかなれたかもとか、考えてなかったよね?」 「ま、まさか! そんなお花畑なこと考えるわけないだろ」 「だよね。もしそんなこと本気で考えてたらただのヤバい奴だよね」 「そうそう、そうだよ。そんなエロ漫画みたいな話がリアルであるわけないって」 「はあ」  必死になって弁解する俺を、そいつはずっと冷めた目で興味なさそうに眺めている。  クソッ、だからガキは嫌いなんだよ。人が話してんのに露骨に退屈そうな顔するな、気分悪い。俺だって好きでこんなことお前に話してるわけじゃないっつーの。  これ以上こいつと話していてもただ無駄に不愉快な気分になるだけだろう。 「……じゃあ俺、レジ行くから」 「あ、オレも」  話を切り上げようとしているのが伝わっていなかったらしい。  *  結局そいつと別れるタイミングが掴めないまま、俺たちはビニール袋を手に提げてコンビニを出た。 「お客さんって、家この近くなの?」  おいおい、やめろよ。まさか俺がどこに住んでるのかまで話さなきゃなんないのか? 「え? あ、まあ……そうだけど」  仕方なく曖昧に答えながらちらりと横目でそいつを見る。  このまま流れで途中まで一緒に帰りませんかとか、死んでもごめんだぞ。何が楽しくてこんなわけ分からんガキと二人っきりで夜道を歩かなきゃなんないんだ。大体、何話したらいいんだ。 「ふーん。じゃ、気を付けて」  どうしたものかと思っていたら、そいつは唐突に頭を軽く下げるとさっさと俺に背を向けて歩き出した。 「いや、ちょっ、待って……なんだよ、今の質問?」 「は? なにが」  俺の呼びかけに立ち止まって振り向いてはくれたものの、その声も表情もあからさまに刺々しい。一瞬怯んだがビニール袋を持つ手をぎゅっと握りしめて、そいつを真っ直ぐに見据えた。 「だから、家この近くなのかって……さっき」 「何となく聞いただけだけど。特に意味はないよ」  今すぐ消えたい、って言うか死にたい。本当に心の底からそう思った。 「……あ、そう」 「それじゃ」  俺のことなどまるで興味ないと言わんばかりに、そいつは今度こそすたすたと歩いていってしまった。  ああ、くそ。だからガキは嫌なんだよ。  特に意味ないことをわざわざ聞くなよ、ちょっとでも俺に興味あんのかなとか思った俺がバカみたいじゃんか。  いや、普通に考えればそういう意味で聞いたわけではないことくらいは分かる。俺だって世間話や雑談の中で特に興味もないことを聞くことはあるし。  分かるけど……何もあんなにはっきり『特に意味はない』って言い切らなくてもよくない? もっと他に言い方ってものがあるだろ。 「……はあ」  帰ろう。もうやめだ、やめ。  今後一切ガキには関わらない、それでいい。
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