アクアリウムボーイ

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03. 新人バイト  まさか三十過ぎてあんなクソガキに散々コケにされるとか、普通は誰も思わないだろう。年長者を敬えなどと時代錯誤な説教をするつもりは毛頭ないが、なんで俺がここまで惨めな思いをしなきゃならないんだ。 「おーい、難波ぁ。ちょっといい?」 「ダメ」 「この間バイトの面接した子、明日から来てくれることになったんだけどさ」  俺がダメと言っているにも関わらず、そいつは俺の机に書類の入ったクリアファイルをぱさっと置いた。こいつは人事部にいる俺の同期なのだが、とにかくいきなり仕事を振ってくる。去年結婚してからその傾向が更に強くなったような気がするのは絶対に俺の気のせいではない。 「ああ、そう言えばなんか面接してたっけ……採用決まったんだ」 「そうそう。だから入館証とか入社書類とかの準備、今日中にやっといてね。んで俺、明日は職安に行く予定だから午前中いないんだよ。その子が来たら俺の代わりに諸々の説明とか簡単でいいからやっといてくれない?」 「はあ? なんで俺が。人事にいる他の奴が代わればいいだろ」 「梅田は忌引き、竹森さんは朝から情シスと打ち合わせ。ちょうど明日みんないないんだよねー」  頭を抱えながら深く長くため息をついてしまう。 「お前らさあ……人事のスケジュール管理ってホント、どうなってんだよ」 「忌引きは仕方ないだろ。まあでも、バイトちゃんに入社の説明すんのは俺らよりも難波の方が慣れてんじゃん? その新しい子にやってもらうのも郵便物の発送だの備品管理だの、総務系の雑用がメインになる予定だからさ。総務の難波に説明してもらうのがいちばんいいと思うんだよね」  本当にこいつは、人に仕事を押しつける時ばかりはぺらぺらともっともらしい理由を連ねて言葉巧みに相手を誘導しようとする。普段は必要最低限のことしか話さないくせに、調子のいいもんだ。  本来であれば新しく入社してくるバイトに社内の規則や業務についての説明をするのは人事の仕事なのだが、今回のように人事の連中がどうしても都合がつかない時は総務の俺が代理を任されることになっている。と言うか、ここ数年は人事の奴らが全員暇な時でもほとんど俺がやらされている。おかげで社内ではバイトの採用に関わる一連の手続きは俺の担当業務だと思われているのか、新しくバイトを採用する時に人事を飛び越えてまず俺に相談してくる奴らが後を絶たない。  バイトはどこの部署でも出入りが激しく、その都度入退社の手続きで駆り出される俺の身にもなってほしいものだが、慣れている奴が応対するのがいちばんいいという理屈は俺にも分かるから断れないのだ。入社してくるバイトの子たちだって初日は不安なはずだろうに、そこで最初に応対する社員から段取りの悪い扱いをされたら余計に不安にさせるだけだし。 「わーかったよ。ったく」  諦めて半ばヤケクソで引き受けると、そいつはぱっと嬉しそうに笑った。腹立つ顔だな。 「悪いな、助かるよ! じゃあこれ、その子の履歴書と稟議書のコピーな。気になることあったらメールしといて」 「はいはい」  奴の弾んだ足取りで去っていく後ろ姿を見送り、机に置かれたクリアファイルを手に取って中の履歴書に目を通した。  二十一の男の子か、またえらく若い子を採ったもんだ。  なんだこれ、変わった名前だな。『サンゴク』? (……あ、違う。『ミクニ』か)  いかんいかん、ぼーっとしてるとこんな簡単な漢字も即座に読めないとは。  コピーをとる際に色がつぶれてしまったのか、貼付されている顔写真はひどく不鮮明で顔がよく分からない。だけど何故か、どことなく見覚えがある顔のような気がした。  誰かに似てるのかな。こんな若い知り合いはいないはずだけど……どこかで見たような。  きっとこんな感じのタレントをテレビか何かで見たことがあるんだろう。俺みたいなオッサンには若い子なんてみんな同じに見えるしな。うん、きっとそうだ。  若い子、か。  もうガキはこりごりだと思っていた矢先に、またしても若い子の相手をしなくてはならないとは。  仕事だからやるけど、なんかもう今から憂鬱だ。  *  翌朝、いつもなら始業ギリギリの時間に出社するのだが、今日ばかりは他の奴らよりも早く会社に到着した。 「何かあったんですか、難波先輩」  フロアの出入り口に立っていると、出社してきた磯辺さんが信じられないものでも見るような目をして聞いてきた。 「今日から来るバイトちゃん待ってんの」 「ああ、そういやそんな話してましたね」 「磯辺さん、悪いんだけど俺、午前中は戻れないと思うんだよね。総務の方の留守番しててくれる?」 「それは構いませんけど……」  その時、俺たちから少し離れたところにあるエレベーターのドアが開き、何気なくそっちに視線を向けると見覚えのある顔が入ってくるのが見えた。 (え。あれ……あいつは)  目が合った。  ふわふわした前髪に少し隠れている、ひどく気だるげな奥二重のたれ目。片目の下にある小さな涙ボクロ。  光の加減でところどころ淡い桃色に見える、くすんだ栗色の髪。  やけに色白で細っこい、水とカップ麺だけで生きてるようなひょろひょろの体格。 「あれ。この間のお客さん?」  デジャヴか?  俺はタイムリープしているのかと、一瞬本気で思った。 「えっと……知り合い?」  磯辺さんが戸惑った表情で俺とそいつを交互に見ている。  俺は何も言うことができず、ただ呆けたようにそいつをぼけっと見ていることしかできなかった。そんな俺をよそに、そいつは磯辺さんだけに向かって軽く会釈した。 「オレ、今日からここでバイトするミクニっていいます。今日の朝ここ来たら総務部の人にいろいろ教えてもらうようにって聞いてるんですけど、総務部ってどこですか?」  あのかったるそうな喋りはどこへやら、まるで別人のようにしっかりとした口調だった。それでもやっぱりきちんとした敬語を使うことには慣れていないのか、年相応な感じの言葉遣いではあるけど。 「ああ、新しいバイトの子だね。俺は総務の磯辺っていいます。一緒に仕事することになると思うから、よろしくね」  さすが磯辺さんは十も年の離れた恋人がいるだけあって、若い子に対する喋りや接し方が実にスマートだ。現にそいつは見たこともないような人懐っこい笑顔を浮かべている。 「はい、よろしくお願いします」  なんだよ、そういうふうに笑えるじゃねーか。俺にもそのくらい愛想良くしろっての、気分悪い。 「あ、こっちは同じ総務部の……」  俺の方を向きかけた磯辺さんの言葉を途中で遮り、そいつの前へ歩み出る。 「難波です、よろしく。今日は俺が入社手続きやら会社の説明やら担当することになってるんで」 「はあ、よろしく」  そいつはさっき磯辺さんに見せた笑顔を瞬時に消し去り、あのかったるそうな態度を隠そうともせずそっけない返事をした。 「じゃ、こっち来て。磯辺さん、悪いけど後よろしくね」 「あ、はい」  平常心だ、平常心。これは業務の一環でしかない。いつもどおりに淡々とこなせ、俺。 「すごい偶然。お客さん、ここの社員だったんだ」  とりあえず今後こいつと業務で絡みのありそうな奴らにだけひととおり簡単な顔見せを済ませた後、社内を案内しようと廊下を歩いていると、それまでずっと黙って俺の後をついてきていたミクニが唐突に話しかけてきた。  周りに誰もいないのを確認してから、ちらりと後ろを振り向く。 「誰にも言うなよ」 「何を?」 「だから、その……俺が、あのカツ丼屋にバイトの子目当てで通ってたとか」 「んなしょうもないこと言いふらすわけないじゃん、アホくさ」  しょうもないってなんだ。  廊下の突き当たりにある非常階段へ出る扉の前までミクニを誘導する、ここならサボろうとしてる奴以外は来ないだろう。扉の前で立ち止まると、俺はようやくミクニと正面から向かい合った。 「なんでよりによってうちの会社に来たんだよ? バイトするとこなんて他にも腐るほどあるだろ」 「だから偶然だって言ってんじゃん。そんなこと言われたって困るんだけど」 「あのカツ丼屋みたく入ってすぐ辞めたりされたら俺が迷惑なんだよ。もしそういうつもりで来たんなら今すぐ入社辞退してくれよ、まだ間に合うから」 「そんなの実際に働いてみなきゃ分かんないよ。合わなければすぐ辞めるけど、やってけそうだったら続ける、それだけ。ってかさあ、難波さんにそんなこと言える権限あんの?」 「ない……けど」 「オレにすぐ辞められるのが嫌なら、オレがちゃんと定着するようにいろいろサポートすればいいじゃん。よく分かんないけど、それが難波さんの仕事なんでしょ?」 「は、はあ!? バカ言うな、誰がそんなこと」 「だって採用決まった時の電話で、人事部の人からそう聞いたもん。仕事してて何か困ったことがあったら総務の人に相談してねって」  へらへら笑って俺にこいつの面倒を押しつけた人事の同期の顔が脳裏に甦ってくる。それ、お前らの仕事だろうが……。  がっくりと項垂れる俺を見て、ミクニは自分の髪を指でいじりながら小さくため息をついた。 「まあ、なるべく続ける努力はするよ。オレだってまた他のバイト探して応募するの面倒くさいし、長続きするに越したことはないもんね」 「……そうしてくれ」  人事の奴らの見る目のなさには毎度のことながら辟易する。とにかく今は必要最低限の説明だけ済ませて、後はなるべく関わらないようにしよう。表向きは俺がこいつの世話係ということになるんだろうが、業務を教えるのは磯辺さんにやってもらえばいいか。こいつだって俺から教わるよりは磯辺さんの方が話しやすいだろうし。  手に持っていたミクニの入館証に気付き、巻きつけてあるネックストラップを解いてミクニに差し出した。 「とりあえずこれ、渡しとく。これないと会社に入れないから、なくすなよ」 「はーい」  渡す時、入館証の表面に印字されたそいつの名前がふと目に留まる。 『三国 智也』  そういやこいつの名前を履歴書で初めて見た時、間違えて『サンゴク』って読んだっけ。  そんなことをぼんやりと思い出していたら、ミクニは俺の視線の先に気が付いたようだ。ストラップを首にかける瞬間、くすんだ栗色の髪がさらりと揺れて一瞬だけ淡い桃色に光ったような気がした。 「『さんご』でいいよ」 「え?」  さっき桃色に見えた髪の束は、もう栗色にしか見えなくなっている。俺を見上げる奥二重の目が細められ、笑っていることにようやく気付く。 「名字。ミクニって読むんだけど、小さい時に間違って『さんごく君』って呼ばれたことがあって、そこからさんごく君、さんごくん、さんごって具合にどんどん短縮されていったの」  どうやら同じ読み間違いをしたことがあるのは俺だけではなかったらしい。 「へえ、そうなんだ。なんか可愛いあだ名だな」  つい思ったことを思ったとおりに口に出してしまい、言った後でしまったと思った。可愛いってなんだ、俺は一体何を口走って……。 「うん、オレも気に入ってる。名前よりあだ名で呼ばれる方が好き」  だがミクニの反応は思いのほか素直に嬉しそうで、今しがた自分が口走ったこっ恥ずかしい言葉もすぐにどうでもよくなってしまう。  なんだ、俺に対してもそうやって笑えるじゃん。黙ってりゃ顔だけは綺麗なんだから、そうやっていつもニコニコしてりゃあいいのに。そうすれば俺の対応も少しは違ったものになってただろうに、バカな奴。 「でも会社ではさすがにあだ名で呼ぶわけにはいかないからな」 「オレは別にいいけど」 「俺はよくないんだっての。あとそのタメ口、それも気を付けろよ。入ったばっかりのバイトと俺が妙に仲良さそうに喋ってたらなんか変だろ。社内の人に対しては基本的に敬語を使うこと」  言い方が気に障ったのか、ミクニは途端に不機嫌そうな表情になってふんと鼻を鳴らした。 「難波さんだってタメ口じゃん。オレに対してちゃんと敬語使ってよ」 「わ、分かったよ……じゃない、分かりました」 「はい。オレも今後気を付けます」  何考えてんのかさっぱり読めないのは相変わらずだけど、素直に敬語で返事をしたのは正直言ってかなり意外だった。見た目の割に結構筋の通った考え方をする子なのかもしれない。年下だからってハナから偉そうな態度をとられたら誰だって不愉快だよな、そりゃそうだ。 「でも、会社の外でならタメ口でいいんだよね?」  前言撤回、俺の注意したことを守る気はさらさらないようだ。 「会社の外で会うことなんてないだろ」 「分かんないよ、またあのコンビニでばったり会うかもしれないし。ご近所さんみたいだしね」 「あのな……」  勘弁してくれ。クソガキの相手なんか仕事中だけでも嫌なのに、プライベートでまでこいつと顔合わせる可能性があるってことか? そんなの死んでも御免だ。  不意に、ミクニは俺との距離を半歩だけ詰めてきた。近すぎる距離で俺を見上げる奥二重の目の下にある涙ボクロがやけに艶めかしいもののように見えて、思わずごくりと生唾を飲み下してしまう。  やべ、今の音こいつに聞こえてないよな?  そんな俺の不安を肯定するように、ミクニは妖艶に微笑んだ。 「二人っきりの時はタメ口OKにしようよ。オレ、敬語って苦手。それと、オレのことはさんごって呼んで」 「……」 「返事」 「わ、分かったよ。分かったから離れろ」 「難波さんってかわいーね。オッサンなのに」 「うるさい黙れ」  笑いながらわずかにまつ毛を伏せてそっと離れていくその瞬間、前髪がさらりと揺れてあの桃色が現れる。その不思議な色が波のように揺れる様を、俺はぼうっと眺めていることしかできなかった。
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