海の見える部屋

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ex5. 海の見える部屋 (3/3) 「……ん」  瞼を上げると、そこは真っ暗だった。  見慣れない部屋の天井をぼんやりと見ていたら暗さに少しずつ目が慣れてきて、ここがお風呂ではないことをようやく把握する。  あれ、さっきのってもしかして夢? それにしては妙にリアルだったって言うか……すごかったけど。  でも今はこうして布団の中で横になってるし、やっぱり夢だったのかな。ごろんと横向きになると、お尻に鈍い痛みを感じた。 「……」  夢、じゃない。  いつも部屋着にしてるスウェット上下を着てはいるけど、髪が少し濡れてる。この腰の違和感も現実だ。  ってことは……どういうこと? そうだ、難波さんはどこにいるんだろう。  もそもそと起き上がって周りを改めて見回してみる。暗い部屋の中には大量の段ボール箱が雑然と置いてあって、オレは壁際のわずかに空いたスペースに敷かれた布団の上にいた。ベランダに面した掃き出し窓にはカーテンが掛かってなくて、窓の向こうに広がる町もその先にある海までも見渡せる。町に明かりはまばらで、夜の凪いだ海は暗くしんとしていた。  カーテンが掛かってないってことは、ここは寝室かな。二つある部屋のうちひとつをリビングに、もうひとつを寝室にするつもりで片付けていて、この寝室はまだほとんど手つかずの状態だ。明日新しいベッドが届く予定だから、ベッドを置くスペースだけはどうにか確保してあるけど。  枕元のコンセントに充電ケーブルが刺さってて、それに自分のスマホが繋がってるのを見つけた。とりあえず今の時間を確認しようとスマホに手を伸ばした時、隣のリビングと繋がってるドアが少しだけ開いててそこから細く明かりが漏れてることに気付く。 (あ……)  隣の部屋から微かにテレビの音が聞こえてくる。バラエティ番組でも見てるのか、時折どっと人の笑い声がする。難波さん、テレビ見てるのか。  腰を上げかけて少し考え、また布団の上に座る。壁にもたれかかってひとつ深呼吸して、スマホの画面に指を滑らせた。  ……よし。  そっと受話口に耳を当てる。思ったとおり、無機質なコール音はなかなか途切れない。びっくりしてるのかも。留守番電話に切り替わる直前でやっとコール音が消えて、向こうから声が聞こえてきた。 『……何してんだよ』  少しあきれたような声。スマホから聞こえるのと同じ声が、ドアの隙間の向こうからも同時に聞こえてくる。 「もしかしてオレ、寝落ちしちゃった?」 『大変だったんだぞ。泡流して体拭いて着替えさせて、こっちは散らかってて布団敷くスペースがなかったから、そっちに布団敷いてお前運んで……』 「ソファに寝かせといてくれればよかったのに」 『腰痛めるだろ』 「もう既に痛めてるんだけど」  隣の部屋からわざとらしい咳払いが聞こえた。笑っちゃいそうになるのを堪えながら、後ろの壁を指で軽くコンコンと叩く。何となくだけど、難波さんが今どんな顔してるのか分かるかもしれない。 『その……ごめんな。無理させて』 「別に難波さんが謝ることじゃないでしょ」 『いや、本当に俺、最後までするつもりなかったんだけど……ごめん』 「今更なに言ってんだか。あんなにノリノリだったくせに」 『なんだよ、お前だってすげーアンアンいいまくってただろ』 「あーっ、もう! そういうこと言うから嫌だったの!」  思い出すだけで死にたくなる。自分が恥ずかしい声で喘いでただなんて認めたくないけど、あの時の感覚だけは何故かやたら鮮明に覚えてるからおそらく事実なんだろう。  ……確かに今日の、いつもよりすごかった。  お風呂でしてるってシチュエーションのせいもあったんだろうけど、今思うとやっぱりあの泡のせいだ。ただの泡にしてはやけにヌルヌルしてたし、身体が妙に熱く感じてたのもきっと血行が良くなる成分とか入ってたせいなんじゃないかな。あれがいけなかったんだと思う、確実に。 「もうあの入浴剤使うの禁止ね。泡がすごくて掃除も大変だから」 『ああ、それなんだけど。さっきよく見てみたらあれ、入浴剤じゃなかったんだよ』 「え……ど、どういうこと?」 『風呂用のローションだった。なんかおかしいなーとは思ってたんだけど』 「え、ええっ!? あれ、ローションだったんだ……」  なんか腑に落ちたというか、なんというか。 『言っておくけど、断じていかがわしい目的で買ったわけじゃないからな。普通の入浴剤探してたらネットでたまたま見つけただけで』 「そんなこと聞いてないのに、わざわざ言い訳するのがかえって怪しいよ」 『ぐ……』  難波さん、黙っちゃった。  あんまり追及するのは可哀想かな。きっと難波さんだって、オレのこと喜ばせようと思って泡風呂の入浴剤を探してくれたんだろうし。引っ越し準備で疲れてたのは難波さんだって同じなのに、オレに内緒で用意してくれてたんだよね。そういうとこ、やっぱり本当にずるいと思う。 「難波さん」 『ん?』  普段はなかなか言えないけど、顔が見えない今なら素直に言えるかも。 「……ありがと」 『なんだよ、いきなり』 「へへ。別に」  やっぱりちょっと恥ずかしいかも。電話越しで本当によかった、今のオレ絶対真っ赤な顔してる。誰が見てるわけでもないのに急にめちゃくちゃ恥ずかしくなってきて、あわてて掛け布団を頭からすっぽり被って膝を抱えた。  どきどきする。  なんかこういうの、今までなかったかもしれない。  胸の中がくすぐったいような、じっとしていられないような、そわそわして落ち着かなくて、でも嫌な感じじゃない。  きっとこういうのが、誰かに恋してるって気持ちなのかな。  今更だなあって自分でも思うけど、改めて実感してる。オレ、難波さんに恋してるんだ。  壁一枚隔てた向こうに難波さんがいる。壁に背中をくっつけると、心が優しい気持ちで満たされていく。 「そう言えばオレたち、こういうの初めてかもね」 『え?』 「夜に電話で話すとか、付き合い始めの頃ならではって感じじゃん。オレと難波さんは付き合う前に同居始めちゃったから、そういう甘酸っぱい期間がなかったでしょ」 『甘酸っぱいって……まあ、そうかもな。確かに』  難波さんと出会ってから今までにあったこと、何もかもを鮮やかに思い出せる。あのカツ丼屋で難波さんと初めて会った時は、あの出会いがまさかこんな未来に続いてたなんて思いもしなかった。自分が誰かを好きになる日がくるなんて、一生ありえないって思ってたのに。 「声しか聞こえないのって、何だか変な感じ」 『……うん』  隣の部屋から聞こえるテレビの音が遠く感じる。すぐ近くにいるのに、顔が見えないだけでこんなに遠く感じるんだ。 「壁のすぐ向こうにいるって分かってても、変だね。早く会いたくてたまんなくなる」  自分でも変だと思う。難波さんは隣の部屋にいるのに、ついさっきまでエッチしてたのに、毎日一緒の部屋で顔見てるのに。  それでもオレはまだ全然足りないんだ。ほんの少し顔が見えないだけで、早く会いたくて仕方ない。 『なに言ってんだよ、だったらこっち来ればいいだろ』  やっぱり難波さんは分かってないみたいだ。まあ、難波さんだしね。 「そういうことじゃなくってさ。同じ部屋にいるのにこんなふうに思うんなら、別々の家に住んでる時に難波さんと付き合い始めて電話なんかしたらオレ、きっと耐えられなかったと思う」 『……』 「今すぐ顔見たいって、会ってキスしたりエッチしたいって言って、難波さんのこと困らせてたと思うよ。きっと」  電話の向こうで、難波さんは鼻をすんと鳴らした。よく知ってる、難波さんが照れ隠しする時の癖だ。 『なんか、今日はやけに素直だな』 「だって今日は大事な記念日だもんね、オレと難波さんの」 『記念日? 引っ越しの?』 「それもあるけど、オレと難波さんの新生活スタート記念日」 『新生活って、大げさな』 「大げさじゃないよ、人生の大事な節目だよ」  窓の向こうに広がる凪いだ海をじっと見た。海と繋がる夜空には星がいくつか輝いてる。きっとかーちゃんも今、どこかであの星を見てるよね。 「改めて、これからもよろしくね。浩介さん」  自分でも驚くほど素直にそう言えた。名前で呼ぶのはまだちょっと気恥ずかしい、でも今夜くらいは素直でいたい。オレと浩介さんの新しい生活が始まる、大切な日だから。 『……おう。よろしく』  返ってきた声はそっけなかったけど、ちゃんと返事はしてくれるんだよね。素直なのか素直じゃないのか、難波さんらしいけどさ。 「それだけ?」 『な、なんだよ。それだけだ』 「よろしくね、浩介さん」 『……』 「浩介さん」 『あーもう、分かったって』  また咳払いが聞こえてくる。 『よろしく。……智也』 「うん」  通話を切って、スマホを布団の上に置く。被ってた布団から抜け出て立ち上がると、少しだけ開いてるドアをそっと引いた。  ソファの上で背もたれに身体を沈めて座ってる難波さんと目が合った。少し困ったような顔してオレを見てる。いつもの難波さんだ。なんかそれだけですごく安心して、つい顔が緩んじゃってた。 「なに笑ってんだよ」 「へへ。会いたかったから、会いにきた」 「なんだそれ」  まだ荷解きもしてない段ボール箱でいっぱいの部屋の中、リビングの隅に置いた難波さんのアクアリウム周りだけはいつの間にか綺麗に片付けられてる。ライトの青白い光に照らされた水槽の中で、ピンク色の珊瑚がゆらゆら水に揺れていた。 「綺麗だね」 「当たり前だ。愛情かけて大事にしてんだからな」  ソファに歩み寄って難波さんの隣にそっと腰を下ろすと、難波さんはオレの肩を優しく抱き寄せてくれた。 「珊瑚はすごく繊細だから、綺麗な水の中でないと生きていけないんだよ」  耳のすぐそばでぽつりと呟いた声に、ふと顔を上げる。 「……え?」 「子供の頃に通ってたアクアリウムショップの爺さんからの受け売りだけどな。要は、珊瑚が快適に暮らせる環境を維持するには金がかかるってこと」  前にも聞いたことある、難波さんが子供の頃に一目惚れしたピンク色の珊瑚の話。子供だった難波さんには手の出せない金額だったから、毎日そのアクアリウムショップに通い詰めてずっと眺めてたって。  今になって思うと、難波さんって子供の頃からそういうタイプだったんだな。あのカツ丼屋に足繁く通ってたのだって、元はと言えばあそこでバイトしてた女の子に会いたくてやってたことだし。それがきっかけでオレと難波さんは知り合うことができたんだけど、やっぱりなんか複雑だ。 「難波さんって、今まで付き合ってた子たちに『重い』って言われたことあるでしょ」 「えっ、な……なんで」 「べーつに」  図星か。ほんっと分かりやすい、難波さんって。拗ねたように口を尖らせてるその顔が子供みたいで、つい小さく吹き出しちゃった。 「愛が重いって、そんなに悪いことかよ?」 「悪いなんて一言も言ってないじゃん」 「どうせ心の中ではバカにしてんだろ」 「してないってば」  もしかして難波さん、気にしてんのかもしれない。重いって自覚は一応あるみたいだ。 「大体、なんでいきなりそんなこと言い出すんだよ」 「あの珊瑚見てたらそう思っただけ」 「どういう意味だよ?」  答える代わりに、曖昧に笑って誤魔化した。  一目惚れした女の子に会うためにバイト先へ通い詰めたり、自分の好きなものに惜しみなくお金かけちゃったり、難波さんの愛し方ってオレの感覚だとやっぱりちょっと重いし古風だなって思う。それは事実だ。  でもオレは、難波さんのそういうとこが結構好きだったりするんだけど。そんなこと言ってもきっと難波さんには分かんないんだろうな。 「珊瑚って、お金がかかるんだね」 「まあな。でも、ただ金かけりゃいいってもんでもないぞ、手間暇かけて大事にしてやらないとすぐ元気なくなっちゃうからな。水は汚れてないかとか、温度は下がってないかとか、いつも気にかけて見てないと」  そう言いながら、難波さんは指先でオレの髪を優しく撫でてる。ほんのちょっとだけ難波さんの肩に寄り添ってみると、今度は目の脇に軽くキスされた。 「くすぐったい」 「こら、逃げんな」  少し離れようとしても、難波さんの腕でしっかり抱きしめられて逃げられない。身動きできないオレを腕の中に閉じ込めて、おでこに、瞼に、頬に、難波さんは何度も唇で触れてくる。壊れやすいものに触るみたいに、すごく優しく。  さっきお風呂でされた息もできないようなキスもよかったけど、こうやって優しく何度もキスされるのも結構好きだ。自惚れかもしれないけど、すごく大切にされてるって感じられるから。 「……さっきお風呂でしたばっかりじゃん。今日はもうしないよ」 「別に俺、何も言ってないけど」 「じゃあ、この手は何なの? さっきからずっと触られてんですけど」 「んー? 何だろうなあ」  冬の海の底はきっと凍えるように冷たいんだろう。でも、難波さんが作ったこの小さな海は温かい。  難波さんの体重でゆっくりとソファに身体を沈められていく。温かい海の中で揺れるピンク色の珊瑚を横目でぼんやり見てたら、難波さんに優しく口を塞がれた。  オレは、珊瑚だ。  難波さんが作ったこの小さな海で暮らす、ちっぽけで幸せな珊瑚。
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