アクアリウムボーイ

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04. さんごの秘密  あいつが入社して二週間が経った。  初日はこれからどうなることやらと気が重かったが、予想に反してさんごは意外にもなかなか要領が良く飲み込みも早いので、大抵の業務をほとんど全てそつなくこなしている。総務系の雑務は何かと他部署の社員や外から来る業者とやりとりする機会が多く、こいつの愛想のない態度で果たして務まるのだろうかと心配していたのだが、そういった社内外の人への応対についてもさんごは何の問題もなく、むしろあの見た目のせいもあってか社内で密かに評価を上げていた。 「総務の新しいバイトの子、超可愛くない? すごく感じもいいし」 「うんうん、だよねー! この前急ぎの郵便物が多めにあって、時間ギリギリにお願いしたんだけど全然嫌な顔しないで手伝ってくれたの。しかも終わった時に『お疲れ様です』って笑ってくれてさー、あれで一日の疲れ吹っ飛んだよ」 「えーいいなあ。私も一度少し話してみたいんだけど、席にいる時はいつも難波が近くにいて話しかけられないんだよねー」 「まだ入ったばっかりだし、しょうがないよ。引き継ぎが終われば今よりは話しかけるチャンス増えるんじゃない?」  給湯室の前を通りかかった時、中から聞こえてきた女子社員の話し声を途中でシャットアウトし、足早に総務の島へ急ぐ。 (クソッ、悪かったな。俺だって好きであいつと一緒にいるわけじゃないっつーの)  堪えろ、俺。奴らの言うとおり、引き継ぎが終わるまでの辛抱なのだ。  幸いさんごは物覚えが良いし、仕事さえ全て教えてしまえば後は一切関わらなければ済む話だ。  誰もいない廊下でぴたりと立ち止まる。何となく、今の気分のまま席に戻りたくない。  無意識のうちにチッと小さく舌打ちしていた。 「……んだよ」  人気者じゃん、すっかり。  俺から業務のやり方を教わってる時はいつも仏頂面でムスッとしてるくせに、他の奴らの前だとコロっと笑顔になるんだよな、あいつ。  初日の磯辺さんに対する態度との差でそれは分かっていたけど、こうも露骨に区別されているのは正直言って面白くないというか不愉快だ。さっき給湯室でキャーキャーはしゃいでいた連中にあいつの素の顔がどんなものなのか教えてやってもいいんだけど、信じてもらえないかもしれないし、その場合に不利益を被るのは俺の方だ。  って言うか、どっちがあいつの素の顔なんだろう。  本当はみんなに見せているにこやかな笑顔の方が素で、俺にしか見せないあの仏頂面の方が作られた仮面である可能性も考えられるんだよな。 (まあ、どうでもいいか)  十も年の離れたガキの考えてることなんて、どうせ俺みたいなオッサンには分かるわけがない。考えるだけ時間の無駄だ。  *  窓の外でオレンジ色の夕日が今にも沈みそうだ。ぼんやりとそれを見ながら複合機の前で会議資料の印刷が終わるのを待っていると、途中でピーとエラー音を発して止まってしまった。どうやら紙切れのようだ。 「おい、さん……ミクニ」  振り返りながら呼びかけて、あわてて言い直す。ヤバい、うっかり『さんご』って呼ぶとこだった。  さんごの席にあいつの姿はなく、ちょうどすぐ横の席に座っていた磯辺さんがこっちを見ていた。 「三国くんなら倉庫じゃないですかね。少し前に業者さん来てたから」 「あ、そう……」  さんごには主に備品の管理や発注業務を任せていて、複合機にコピー用紙を補充するのもそのひとつだ。常に複合機の横に用紙を何パックかストックしているはずなのに、今日はそれも切らしている。ここにある紙が切れたら、備品を保管している倉庫まで取りに行かなくてはならない。  倉庫は執務室から離れたところ、廊下の突き当たりにある非常口の脇にあり、俺たち総務の社員以外は用がないので滅多に近寄らない。それをいいことに俺は一人でサボりたい時よくここのお世話になっている。  でもさっき、さんごがここにいるかもって磯辺さんが言ってたよな。 「……あれ」  ドアを開けると、中は暗かった。  なんだあいつ、もう出てったのかな。じゃあ今はどこにいるんだろう。ったく、入社二週間でもうサボリかよ。戻ったら説教だな。  もともとさほど広くない部屋の中に背の高いラックをいくつも雑然と並べて配置しているので、ラックの間には人一人がやっと通れる程度の隙間しか空いていない。天井まで届きそうなほど段ボール箱を積んである棚も多く、窓のないここでは明かりをつけないとほとんど何も見えない。  ドアの脇にあるスイッチを切り替えても、部屋の明かりは点かなかった。  紙切れの上に蛍光灯まで切れてんのかよ……今日は朝からついてない。  仕方なくドアを閉めると、薄暗い中コピー用紙を置いてある棚の前へと進んでいく。明かりがなくてもしばらくすれば目が慣れてある程度は見えるようになってきた。 (えーと、紙ってこのへんだったよな……)  記憶を頼りに狭いラックの隙間を進みながらそこに積まれている箱の中を探っていた時、段ボール箱と紙のガサガサ擦れ合う音に混じって、すぐ近くで誰かの押し殺したような声が微かに聴こえた。 「……っ、ん、あっ……」  ひどく艶めかしいため息。  明らかに誰かの喘ぎ声だと分かった瞬間、俺はその場で凍りついたように動けなくなってしまった。  おいおい、マジかよ!?  滅多に誰も立ち寄らない会社の倉庫で仕事中にヤってるとか、そんなのエロ漫画の中でしか見たことないぞ!  いやいや、落ち着け。いくらなんでもそんな倫理観のない奴がこの会社にいるはずがない。もしかしたら、体調が悪くてこの部屋のどこかで倒れてるとか、そういうパターンも考えられる。そうなると事態は一刻を争う、早く助け出してやらないと。  とにかく、さっきの声がどの方向から聴こえてきたのか、きちんと把握しなくては。バクバクと暴れるように脈打つ心臓を必死に胸の上から押さえつけ、深呼吸して耳を澄ませた。  さっきまで全く気付いていなかったのだが、目の前のラックが微かにカタカタと振動している。その不規則な揺れの合間を縫うように、またあの押し殺した声が聴こえてくる。 「……っ、ねえ、今誰か来て……」 「声、抑えてれば……平気、っだから」 「んっ、あっ……っあ、あっ」  俺の前に立っているラックの向こう側からだ。  薄暗い中、ちょうど俺の目の高さより少しだけ低い位置に棚板があり、そこには備品の入った段ボール箱が雑然と置かれているのだが、わずかに隙間が空いて向こう側が見える箇所を見つけた。  声にならない熱を帯びた吐息がその隙間から聴こえてくる。  見てはいけない。  頭の隅で妙に冷静な自分がそう警告していることは分かっていたが、もう俺の足は俺自身の意思では動いていなかった。何かに操られているかのように、その淫靡な喘ぎに誘われるように、箱の隙間の前へ歩み寄り向こう側に目を凝らした。 (――え)  ラックの棚板に掴まって立っているのか、こっちを向いている顔がすぐそこに見える。  暗がりの中でもはっきりと分かる、赤く上気した頬。  そいつが揺れると掴まっているラックも小刻みに揺れ、その度にそいつは何かを堪えるようにぎゅっと目を瞑って切ない声を漏らした。  その瞼が開き、焦点の合わない目が不意に俺の目を捉えた。  気だるげな奥二重、その片目の下には涙ボクロ。  暗くて見えないはずなのに、目にかかる前髪が揺れる度に桃色に淡く光るのを俺は確かに見ていた。 「……あ」  目が合った瞬間、それまで虚ろだったその目に微かに光が宿って見えたような気がした。  心臓が異常な速さで脈打っている。まともに呼吸することも忘れて、俺はただぼうっとさんごの顔を見ていた。  さんごが何か言いかけたように見えたのは俺の気のせいだったのだろうか、次の瞬間さんごの身体の揺れが一層大きくなり、ラックもさっきより大きな音でガタガタと揺れだす。 「あっ、だめ、もう……っ、まって、っあ、あっ……」  さんごはまたぎゅっと目を瞑って、後ろにいるのであろう誰かに行為を止めるよう必死に懇願している。 「く……っ」 「……あ……っ」  俺は咄嗟にその場でしゃがみ込み、両耳を手で塞いだ。俺のためではなく、さんごのためだった。  ラックの向こう側からひそひそと話し声が聞こえるが、その内容は耳を塞いでいる俺にははっきりと聞き取れない。やがてガラガラと台車を引く音と共に倉庫のドアが開き、誰かが出て行ったのが分かった。  おそるおそる耳から手を離す。あたりはしんと静まり返り、ラックはもう振動していない。ほっとため息をついた時、向こう側から微かに衣擦れの音がして、ビクッと肩が震えた。 「……難波さんでしょ」  かったるそうな声。聞き慣れた声のはずなのに、今日はいつもより少し掠れているのが分かる。 「鍵くらい、かけろ」  やっとの思いで絞り出した自分の声が少し上擦っていることに気付いた瞬間、かあっと顔が熱くなった。暗くてよかった、顔見られてなくてよかった。  数秒の沈黙の後、向こう側でさんごが小さくため息をついた。 「覗き? 趣味悪い……」  カッと頭に血が上り、何か考えるより先に吐き捨てるように怒鳴っていた。 「見たくて見てたんじゃねーよ! 会社であんなことやってるお前が悪いんだろ!?」 「うるさいな、声でかい。今誰か来てオレの格好見られたら、難波さんがオレのことレイプしたって思われるよ。いいの?」 「な、なんでそうなるんだよ!」 「今オレ、下に何も穿いてないから」 「ばっ……さっさと服着ろ、クソガキ!」 「パンツ濡れてて気持ち悪い」 「自分が悪いんだろ!? いいからさっさと着ろ!」 「はいはい」  また衣擦れの音が聞こえてくる。たったそれだけのことなのに、どうしても頭の中ではさんごのあられもない姿を想像してしまう。さっきの乱れた吐息に混じって聴こえたさんごの押し殺した喘ぎ声が唐突に脳裏に甦ってきて、あわてて頭をぶんぶんと何度も横に振った。  くっそ、本当に信じられない。このエロガキ、頭おかしい! 「あのなあ、お前……本当にやめろよ、こういうの」 「なにが?」  ズボンのファスナーを上げる音が微かに聞こえたのを確認してから、努めて落ち着いた声で諭すように話しかける。 「仕事関係の奴とプライベートで仲良くなること自体は何の問題もないけど、時と場所を考えろって言ってんの。もう大人なんだから」 「別に、さっきの人とは仲良くないけど」 「え……って言うか、さっき誰とやってたんだよ」 「なんだ、見えてなかったの? いつもコピー用紙配達しに来る業者の人」  この会社で使っている複合機はリース会社から貸与されているもので、コピー用紙やトナーなどの消耗品も同じところで買っている。それの配達に来る業者への応対はバイトの仕事なので俺は数回程度しか顔を合わせたことがないのだが、今の担当者は確か俺と同年代くらいの男だったはずだ。見るからに大人しそうで、白昼堂々こんな大それたことをやってのけるようなタイプの人間にはとても見えない奴だったと思うんだけど。 「コピー用紙って重いからあの人に台車でここに運んできてもらって、出ようとしたら、なんかいきなり」  そこでさんごは口ごもった。ま、まさか。 「む、無理やり……されたのか? あいつに」 「そうじゃない。前から気になってたって言われたから、『じゃあエッチする?』って聞いただけ。冗談のつもりだったんだけど、向こうがその気になっちゃったから仕方なく」 「……」 「まあ、鍵かけんの忘れてたのは確かに良くなかったね。それは謝るよ、すいません」  まるで悪びれている様子など微塵も感じられない淡々とした物言いに、今になってようやくこいつは俺の知っているさんごなのだと思い知らされたような気がした。  こいつって、こういう奴だったのか?  いや、見た目で人を判断するつもりはないし、そもそもこいつが人によって露骨に態度変えるようなどうしようもない奴だってのは前から知ってるけど……まさかここまでぶっ飛んだ奴だなんて思ってなかったのに。  それとも、俺の方がおかしいのか?  いやいや、ないない。おかしいのはこいつの方だろどう考えたって!  男に前から気になってたって言われて、『じゃあエッチする?』なんて返さないだろ普通。女からの誘いだったとしてもそうだ。  しかも断り切れない状況だからってそのままコトに及ぶって、流されやすいとかいうレベルの問題ですらない。大方、過去にも似たような経験があるからそんなことができるのだと考えるのがいちばん自然だろう。  聞いていいことなのかどうかは分からなかったが、あんなのを見せられた後で変に遠慮しても無意味だ。 「こういうこと、今までのバイトしてきたとこでもやってたのか?」 「何回かあるよ。外から来る業者の人とか、お客さんとか」  間髪入れずあっさりと返され、ほとほとあきれてしまう。 「……ひょっとして、すぐバイト辞めるのってそれが原因だったんじゃないのか」 「うん。でも全部向こうから持ち掛けてくるパターンばっかで、オレの方から誘ったことは一度もない。こっちからすればいい迷惑なんだけど」 「いい迷惑って……」 「オレは黙ってても向こうが勝手にぺらぺら喋っちゃうんだもん、あの子がヤらせてくれたって。それが店長の耳に入っちゃうとクビになるのはオレ。ホンット迷惑じゃない?」  開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。  よくもまあいけしゃあしゃあとそんなことが言えたものだと、その図太さに感心すら覚えてしまう。  どうしたものか。よく知らない男と簡単にセックスするもんじゃないなどと説教するべきなんだろうか。その前に、会社で仕事中に性行為をするなということから教えるべきなのだろうか?  いやいや、そんなの常識以前の問題だろうが。一体どこから躾けたらいいんだこいつは。 「オレにこの会社辞めてほしかったら、このこと誰かに言えば一発だよ。オレは難波さんを恨んだりしないから大丈夫」 「え……」  カタン、と音がして、倉庫のドアに向かってさんごが歩いていく気配を感じる。あわてて立ち上がった時、すぐ横の棚板から飛び出ていた段ボール箱の角に腰を強打した。 「いてっ」  俺がもたついている間にさんごはドアに辿り着いてしまい、ドアが開く音と一緒に廊下の明かりが倉庫の中へ一筋の光になって差し込んでくる。倉庫のドアはここからだとかろうじて見える位置にあり、その時俺はようやくさんごの姿を見た。 「難波さんだってこんな奴と同じとこで働きたくないでしょ」  服はちゃんと着ているし、特に乱れた痕跡もない。ほんの数分前まで男に後ろから突かれて頬を上気させ潤んだ目をしながら甘ったるい声で喘いでいたのに、そんな気配など微塵も感じさせない。そこにいるのは冷めた目をしてかったるそうにしている、俺の知っている見慣れたいつものさんごだった。 「……」 「じゃあね。オレ、トイレ行ってから戻る」  さんごはそのまま、俺を放置して倉庫から出て行った。
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