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アクアリウムボーイ
01. ささやかな癒し
三十過ぎたオッサンがまだ世の中のことを何ひとつ知らない幼気な若い子を拾い、自宅に置いて面倒をみる。そんなのエロ漫画の中だけの話だと思ってた。そもそもきっかけが何であれ、俺のようなオッサンには十代二十代の子供と意思疎通すること自体が不可能だ。奴らの話は俺とは全く違う言語を使っているのかと思うほど何を言っているのかさっぱり理解できない。奴らはまさに未知の生物である。
そんなわけの分からない生物と同じ屋根の下で共同生活などできるわけがない。何しろ、話が通じないのだから。
だがそれは、あくまでも一緒に住む場合の話。一切の関わりを持たずただ観賞用として眺めている分には普通にアリだ。
(今日もいるかな〜、あの子)
三十過ぎて独り身な俺の、数少ないささやかで密かな楽しみのひとつ。自宅最寄り駅から少し歩いたところにあるカツ丼屋で先月始め頃からよく見かけるようになったバイトの女の子が、とにかくもうとてつもなく可愛いのだ。
歳はおそらく大学に入ったばかりくらい、黒髪のボブがとてもよく似合っていて、素朴な顔立ちではっきり言って地味な子だけど、接客中に見せる笑顔は下手に作った感じがしなくてとても自然で、まあ実際は作り笑いなんだろうけど、それでも作り笑いでこれだけ可愛く笑えるんだとしたら心から笑った時の笑顔はどれだけ可愛いんだろう。仕事でやさぐれた心にじんわりと温かく染み込んでくるようなその優しい笑顔を初めて見た瞬間から、俺は完全に彼女の虜になってしまった。
念のため断っておくが、店に通いつめていずれは彼女とどうこうなろうなどというヤバいことは微塵も考えていない。俺はあくまでも、彼女の笑顔を観賞することに癒しを求めているだけだ。
どうせ彼女も店を出たら他の奴らと同じ、全く理解できない言葉で喋る未知の生物。そんなのとお近づきになりたいなんて思わない。俺はただ疲れた仕事帰りにあの笑顔をほんのひと時見ることができればそれでいいんだ。
「っしゃーせー」
店に入ると、視線だけを何気ない感じでカウンターの方に向ける。
平日のこの時間なら大抵いつもいるはずの彼女の姿はなく、代わりにそこにいたのは今まで見たことのないハタチくらいの男だった。
あれ、今日は休みかなあ。まあ仕方ないな、大学生なら学校もあるし。彼女の勤務している曜日を正確に把握してるわけでもなく、俺の方も毎日ここに来ているわけではないからこんな日もあるだろう。けど、やっぱり露骨にがっかりしている自分がいる。
すごすごとコの字型の席の端の方へ移動してそこに座っても、さっきの店員は俺を気にするような素振りを一切見せずかったるそうにレジを何やらいじっている。あの女の子だったら客が来るとすぐに水を持って注文を聞きにきてくれるのに。
「あの……」
仕方なく声をかけようとしたのとほとんど同時に、その店員はレジから顔を上げてこっちを向いた。まともに目が合い、言おうとしていた言葉が引っ込んでしまう。
色白で痩せた、見るからに不健康そうな子だった。髪は全体的にくすんだ栗色に染めているようだが、光の加減でところどころ淡い桃色に見える部分もある、何とも不思議な色をしている。そのふわふわした前髪に少し隠れている奥二重のたれ目はひどく気だるげな雰囲気を纏っていて、見ようによっては色っぽいと言えなくもない。と言うか色っぽい。片目の下にある小さな涙ボクロのせいもあるかもしれないけど。
……男、だよな?
今日の俺はよっぽど疲れていたのか、ついまじまじとそいつの目を見てしまっていた。いつもは知らない奴とはなるべく目を合わせないように気を付けているのに、何故か目を逸らすことができない。
だがそんな俺の不躾な視線が気に障ったのか、そいつは露骨に不愉快そうに目を細めた。
水を持って俺の前に立った瞬間、そのあまりの刺々しい態度につい萎縮してしまう。
「……ご注文は?」
そっけないとかぶっきらぼうとかいう域をとうに超えた、棒読みというよりは攻撃的ですらある声でそう聞かれ、俺は取り繕うように引きつった笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
「あ、えっと……ヒレカツ定食で」
「はい」
「……」
顔だけは本当に綺麗だ。それは認める。
しかし、美形が怒った顔というのは得てして必要以上に周囲を威圧するものだ。現に今の俺も、相手は子供だと分かっているのに完全に腰が引けている。
「他にご注文は?」
「えっ? あ、いや、ないです」
「っす」
こえーよマジで。
ちょっと数秒だけ目が合ったくらいでここまで怒んなくてもいいじゃん……気持ちは分からなくもないけどさあ。
俺の心の声が聞こえたのか、そいつは厨房に引っ込もうとせず俺をじっと睨んだまま動かない。その鋭い視線に射抜かれたように、俺もそいつから目を逸らすことができなかった。
「なんすか?」
あからさまに不愉快そうに聞かれる。
お前がじっとガン飛ばしてるから目逸らせないだけだっつーの。
「いや、その……初めて見る人だなって」
悲しいかな、とても笑えるような状況でなくても愛想笑いを浮かべてしまうのは職業病というやつのしわざなのだろうか。
そいつは今度は探るような視線で俺の顔をじろじろと見ている。何とも居心地の悪い沈黙が流れる。こういう日に限って何故か俺の他には一人も客がいない。
「髪の短い女の子のバイトさんなら、昨日で辞めましたよ」
何の脈絡もなく、そいつはそう言い放った。
言われてすぐは何のことだか分からなかったが、それが俺の唯一の癒しであるあの女の子のことを言っているのだと把握するのにそう時間はかからなかった。
「え、ええっ!?」
辞めた? なんで、どうして!?
嘘だろ、最後にここで会ったのはほんの二日前のことで、その時はいつもと変わらない笑顔を俺に向けてくれていたのに。
「あの子目当てで来てた人、お客さんで四人目です。今日来た人にもそればっかり聞かれて」
「え……」
まだまとまらない頭のままで混乱している俺をよそに、そいつは肩をすくめて心底あきれたような目で俺を見下ろしている。
「念のため言っときますけど、あの子がいないからってもうこの店来ないとか考えないでくださいよ。店長に知られたらオレのクビが飛びます」
「い、いや……そんなことは」
あの子を邪な目で見ていた客はどうやら俺だけではなかったらしい。まあ、そりゃそうだよな。ここに来ればあんな可愛い子に会えるんだから、店に足繁く通いつめてしまう気持ちは痛いほど分かる。
いろいろと聞きたいことはあったのだが、そいつはもうこれ以上俺と話す気がないらしくさっさとレジ奥の厨房に引っ込んでしまった。
ああ、なんかもうガッカリ度合いがすごい。
毎日神経すり減らしながら真面目に労働して贅沢もせず慎ましく生活している俺の唯一の癒しであるあの子とは、もう二度と会えないのか。こんなことなら一度、軽く『お疲れ様』の一言くらい言っておけばよかった。それを言ったところで何が変わるということではないけど、俺がいつも彼女の笑顔に癒されていることに対する感謝の気持ちの百分の一くらいは伝わったかもしれないのに。
そんなこと今になっていくら考えたってどうにもならないのは分かってるけど……後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
もうこの店、来るのやめよう。
さっきのあの店員には悪いけど、なんかもうそういう気分になれない。
厨房でヒレカツを揚げている音をぼんやりと聞きながら、思わず深いため息がこぼれた。
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