叔父さんの話(仮)

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04. 波紋  歳はとりたくないものだ、なんて、使い古された言い回しだけど本当にそう思う。自分にそんなつもりは全くないのに、若い子に対してつい説教くさい言い方をしてしまうのはオッサンになるともうどうしようもないことなんだろうか。  ……失敗したかな、あれは。  望月くんとアクアリウムショップで話してから既に三日経っているが、俺はまだあの時の自身の発言を後悔していた。  仕事を辞めてこの町に来た経緯について、きっと彼は話の流れで仕方なく答えてくれただけであって、よく知らないオッサンから的外れなアドバイスを貰うことなどはなから期待していなかったはずだ。そんなこと考えたらすぐ分かりそうなものなのに、俺はなんであんなことを言ってしまったのか。  望月くんは笑ってくれていたけど、絶対うんざりしてただろうな。 「……はあ」  無意識のうちに深いため息をついてしまい、はっとして周りを見回す。幸い店内に客の姿はなく、今日は水島くんも休みで出勤していない。  いけない、いい加減気持ちを切り替えなくては。  どうせ望月くんはこの町に長居するつもりはないのだろうから、せめてここにいる間だけは煩わしいことを忘れてのんびり過ごしてほしい。この町から見える海の景色はきっと、疲弊して傷ついた彼の心を癒やしてくれるはずだ。  そう思ってたのに、結局俺は望月くんに嫌な思いをさせてしまった。  その時突然、店の自動ドアが開いた。 「いらっしゃ……」  そっちに目をやると、言葉の途中で声が引っ込んでしまう。 「どうも。お邪魔します」  少しはにかんだような笑顔でぺこりと小さく会釈するその人は、紛れもなく望月くんだったのだ。あまりに突然のことですぐには状況が飲み込めなかったのだが、どことなく居心地悪そうに目を泳がせている望月くんの表情に気付いてあわてていつものように笑ってみせる。 「あ、ああ。いらっしゃい」  望月くんは遠慮がちに店内へ入り、こっちに歩み寄ってきた。他の客が一人もいないことに気付いたのか、さっき店に入ってきた時よりは幾分表情から硬さが抜けているような気がする。 「びっくりしたな、まさか来てくれると思ってなかったから」 「すみません、いきなり。今日も暇なので、何か面白そうな映画でも借りて観ようかなと思って」 「はは、そっか。うちも見てのとおり暇だから、ゆっくり見ていってね。そうだ、ここの会員証は持ってるかな?」 「あ、はい。あります」  望月くんは財布から会員証のカードを取り出して見せた。結構長く使っている財布のように見えるが傷だらけだったり角が擦り切れていたりということはなく、どうやら大切に手入れして使い込んでいるらしい。  正直言って意外だった。初めて話した時も今も彼が着ているのはよれよれのTシャツにゆったりとしたカーゴパンツで、裸足にはくたびれたサンダルを履いているだけ。髪はボサボサとまではいかないものの整えているようには見えず、特に前髪は目が隠れるほど伸ばしっぱなしの状態だ。  俺が言えたことではないが、てっきり望月くんも俺に負けず劣らず身だしなみに無頓着な人間なのだと思い込んでいたのに、実はそんなことなかったのかもしれない。外から見ただけでは分からない彼の一面をその手入れされた財布にほんのわずかだけ垣間見てしまったようで、何だか少しばつが悪い気分になってしまう。  初めて海辺で彼を見た時、こんな格好をしているにも関わらず望月くんを『育ちの良さそうな子』だと捉えていた俺の直感はどうやら間違っていなかったらしい。どんなにだらしなく装ってみせても、幼少期に培われた気質は何気ない所作や持ち物ひとつにも気付かないうちに滲み出てくるものだ。  さして広い店でもないから、このレジカウンターの中にいても客が店内のどのあたりにいるかくらいは何となく気配で把握できる。ここからだと姿は見えないが、どうやら望月くんは古い洋画のコーナーに向かったようだ。 (どういうのを観るんだろう……)  今まで客がどんなものを借りていくのかなんて全く気にしたこともないのに、この時ばかりは望月くんの興味を惹く作品が気になって仕方なく、ついちらちらと棚の向こうに目を向けてしまう。その時ふと、先日今野さんと話したことを思い出した。  ああ、ダメだ。こうやって周りから好奇の目を向けられるのが望月くんにとっては何よりも不快なことだというのに。映画の好みなんてかなりの個人情報だろう、それをこんなよく知りもしないオッサンが覗き見ようとしてるだなんて知ったらきっと気色悪いと思うに決まってる。  この町で望月くんに心穏やかに過ごしてほしいと思うなら、俺にできるのは無関心でいることだけだ。いい加減学習しなくては。 「あの、洋二さん」 「はっ、え? な、なに?」  唐突に呼ばれ、喉から変な声が出た。我に返って顔をそっちに向けると、棚の陰から望月くんが出てきてこっちに歩いてくる。借りたいものが決まったのかと思ったのだが、望月くんの手は何も持っていない。もしかして、特にこれといって観たい作品がなかったのかな。  レジから少し離れたところで立ち止まり、望月くんは少し照れくさそうに笑った。 「もしよかったら、洋二さんお薦めの映画を教えてもらえたらなって。僕、映画にはあんまり詳しくなくて」 「えっ、ああ……うん、もちろんいいけど。昔の洋画に興味があるんじゃなかったの? ずっとそのへんの棚見てたから」 「古い名作映画なら、僕でも知ってるものがあるかなって思って見てただけですよ」  なんだ、そういうことか。 「うーん……それじゃ、特に昔の映画がいいってわけじゃないのかな」 「そうですね、年代にはあんまりこだわりはありません」 「そっか。じゃあ逆に、これは興味ないかなってジャンルはある?」 「えっと……アクションとかSFなんかは、あんまり。あと、ホラーも苦手で」 「分かった。望月くんの好みに合うかは分からないけど、俺の独断と偏見で選んだやつでいいんだよな」 「ふふ、はい」  望月くんはおかしそうに笑いながら、カウンターから出た俺の後についてきた。  自分の好きな作品を人に薦めるというのは、やってみると意外と難儀なものだ。気心の知れた相手なら楽しいものかもしれないが、俺と望月くんのように知り合ってまだ間もない間柄だと下手したら関係そのものが壊れてしまう可能性も大いにある。調子に乗って人間性を疑われるようなチョイスをしないよう、慎重に選ばなくては。 (……お、これは)  目ぼしいものがないか作品タイトルを目で追っていると、棚の端に差してあるひとつのパッケージに視線が留まった。  それは十数年前に公開された映画で、分類上では恋愛映画となっているがストーリーに恋愛の色はあまりなくどちらかと言うとヒューマンドラマのような内容の作品だった。  舞台は六十年代のイギリスで、スランプに陥った売れない小説家の青年が気分転換にと山間にある小さなホテルを訪れ、そこで働く使用人の若い女性と恋に落ちるが、彼女には婚約者がいて秋に結婚を控えている……という、ストーリー自体には特に目新しい点はないのだが、ホテル周辺のノスタルジックな風景と細やかな心情描写で描かれた登場人物たちの素朴な心の交流がとても優しく心に沁み渡る、隠れた名作であると俺は思っている。特に今の望月くんのように、忙しない現実や思うようにいかない人生に疲れている人の心に響く映画だと思う。 「これなんかどうかな。十年くらい前の映画だけど」  この作品が公開当時に得た世間からの評価は、お世辞にも好評とは言えないものだった。話がありきたりで展開に起伏が少なく特筆するような見せ場がない、主役を演じた二人の俳優は当時まだ無名の新人、他の俳優陣は実力こそあれど話題性に乏しいメンツばかり。要はパッとしないというのが理由だったのか大した話題にもならず、公開後しばらくしてひっそりと劇場から消えていった。  だから今となっては知る人ぞ知るマニアックな作品になっており、この店を始めてから今までの間にこれを借りた奴を俺は一人も見ていない。  俺から受け取ったDVDケースを見た望月くんは、目を丸くした。 「あ……これ、観たことあります」 「え、うそ。これ知ってんの?」 「はい。好きな俳優が出てたから気になって、公開初日に劇場で観ました。席はすごいガラガラだったけど」  これが公開された時、望月くんはおそらく二十歳前後か、下手したら高校生くらいだったんじゃなかろうか。そのくらいの歳の子がわざわざ劇場まで足を運んで観に行くって、話題になってる映画ならまだしもこんなマニアックな作品となると、よっぽど観たいと思ってたってことじゃないのかな。ちょっと好きな俳優が出演してるくらいじゃ、普通はそこまでしないだろうし。 「もしかして望月くん、映画に詳しくないって嘘なんじゃないか?」 「そんなことありませんよ。ただ気になったものだけ観てるって程度です」 「ホントかなあ」  露骨に訝しむような視線を向けてしまったが、望月くんは涼しい顔で微笑んでいる。  もしかして俺、望月くんに試されてるのかな。朴訥な子だと思っていたけど、こういういたずらっぽい顔もできるんだな。 「でも、意外ですね。洋二さんならもっと分かりやすい感じの有名なやつを薦めてくれるのかと思ってました」  どうやら俺のチョイスは彼にとって想定外だったようだが、決してマイナスの印象を与えてしまったというわけではないらしい。『洋二さんなら』ってのがなんか引っかかるけど、まあいいか。望月くん、今日はいつもよりよく喋ってくれるし。 「望月くんクラスの映画通にそんなもの薦めたら、ガッカリされちゃうだろ」 「だから、本当に詳しくなんかないですって」 「はは、まあそういうことにしとくよ。俺は結構いい映画だと思うんだけどね。あんまり知られてないから望月くんにはぜひ観てほしいと思ったんだけど、まさか劇場で観てたとは」 「公開初日であんなに空いてるとは思ってなくて、びっくりしたのをよく覚えてます」 「清々しいくらいの大コケだったからな。ネットのレビューでも散々な言われようで、あれは軽くショックだったよ」 「確かに万人受けする内容ではないですよね。ちょっと人を選ぶと思います、特に終わり方が」 「ああ……まあね。やっぱりそうなのかな」  この作品の結末は、ハッピーエンドではない。小説家の青年と使用人の女性は結ばれず、二人はそれぞれの道を行くという形で物語は締めくくられる。  この作品が幸せな恋愛映画を好む観客たちにあまり受け入れられなかった要因は、そこにもあったのかもしれない。 「僕は好きなんですけど、こういうの」  DVDのケースを見つめたまま、望月くんはぽつりと呟いた。 「なんだ、好きな俳優が出てたから観ただけなんだろ?」 「きっかけはそうでしたけど、いい話だったなと思います」 「ふーん……」  これを薦めた俺に気を遣って言っているわけではないということは、見れば分かる。望月くんはまるで子供の頃の写真を眺めているように、昔を懐かしむような優しい笑みを浮かべてケースを見ていた。 「これを人に薦めるって、洋二さんってやっぱり変わってますよね」  ふと望月くんはまつ毛を伏せた。 「人のこと言えないだろ。少なくとも俺は、劇場まで足を運ぶほど熱狂的じゃないぞ」  少しだけからかうような口調でそう返すと、望月くんもおかしそうに口の端を上げる。 「そうなんですけど……こういうのが好きって、あんまり人に分かってもらえないと思ってたから。ちょっと意外で」 「こういうのって、悲恋ものがってこと?」 「はい。大抵の人はみんな、映画にはハッピーエンドを求めるじゃないですか。娯楽として楽しむものにわざわざつらい展開とか悲しい結末なんて求めないですよ。普通は」 「うーん、それは……ちょっと極論すぎないかね。好みの問題だから、普通はこうとかで片付けられる話じゃないと思うよ」 「そうでしょうか」 「どんな話が好きかなんて、人の数だけあるものだろ。これが普通、それ以外は普通じゃない、なんて、そんな簡単にバッサリ切り分けられるものじゃない。普通の恋愛なんてこの世にはひとつもないのと同じだよ」 「……」  黙り込んだ望月くんを見て、はっと我に返る。  しまった、またやってしまった。望月くんはただ話の流れに合わせているだけで、こんなオッサンの的外れな意見を聞きたいわけではないんだって、何度失敗すれば学習するんだ。今の俺はただ自分で自分の言うことに酔っているだけの気色悪いオヤジでしかない。 「なんて、こんな独り者のオッサンが語っても説得力ないか」  あわてて誤魔化すように笑ってみせたが、自分でも分かるほど顔が引きつっている。  ああ、失敗だ。また望月くんに不快な思いをさせてしまった。 「いえ……そんなこと、ないですよ」  わずかにうつむき、長い前髪で望月くんの目が隠れてしまう。口元は笑っているように見えるけど、それだけでは彼の表情を読み取ることはできそうにない。  しかし、やっぱり長過ぎだよな。この前髪。  ここまで伸ばしっぱなしだと視界が狭くなって不便なんじゃないのかな。ここに来る前は会社勤めをしていたらしいし、ある程度の身だしなみを整える習慣くらいは身についてるはずだと思うけど。 (あ、もしかして)  そこでふと思いつく。 「望月くん、もしかしてこっちに来てからまだ床屋行ってない?」 「え? は、はあ……行ってません、けど」  あまりに唐突だったせいか、思ったとおり望月くんは戸惑ったように俺を見た。前髪の隙間から覗く黒目がちの目は、俺の言葉の意図を図りかねて困惑しているのか落ち着きなく瞬きを繰り返している。 「ああ、ごめんね。前髪が目にかかっちゃってるから、もしかしたらって思っただけで。もし良かったら俺がいつも世話になってる店紹介しようか、すぐ近くなんだけど」  ようやく俺の言いたいことを飲み込めたらしく、望月くんは少し恥ずかしそうに下を向いて前髪を指先で押さえた。 「そう、ですね。そろそろ切らないと、みっともないし」 「そうじゃないよ。ただ、前髪で隠してちゃせっかくの男前がもったいないだろ」 「あ……」  本当に無意識だった。  だから、うつむいている望月くんの前髪に手を伸ばしてそれを額の半分くらいが出るようそっとかき上げた時、俺は自分自身のしていることに心底驚いていた。  咄嗟に手を離そうとしたのだが、露わになった望月くんの目に射抜かれたようにぴくりとも動けない。  それは、見てはいけないものだった。俺には分かる。  望月くんがずっと隠し持っている、外からの好奇の目に晒してはならない、誰も知ってはいけない彼の秘められた一面だった。  黒目がちの大きな瞳は、まるで水面のように潤いに満ちて暗く澄み渡っている。ほんの少しの衝撃を与えただけでも、そこに小さな波紋が現れてゆらゆら揺れそうだと思うほどに。  深く暗い水の底を水面の上から見つめているような、そんな感覚だった。 「……ご、ごめん」  絞り出した自分の声で呪縛が解かれたかのように、ようやく望月くんの前髪から手を離すことができた。  望月くんは俺がかき上げた前髪をすぐに指で元どおりに下ろし、あの澄んだ水を湛えた黒い瞳はまた隠れてしまう。 「いえ……」  何故か急に動悸が激しくなり、望月くんに気付かれないよう深く息を吸い込んでどうにか自分を落ち着かせようとする。俺の脈拍が正常に戻るより先に、望月くんは顔を上げて俺を見た。 「あの……洋二さんの通ってる床屋さん、教えてもらえますか? この町のお店ってまだスーパーくらいしか知らなくて」 「あ、ああ」  さっきのは何だったんだろう、俺の錯覚だったのだろうか。  その後望月くんと話している間ずっと、俺の正体不明の動悸はなかなか治まらなかった。
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