叔父さんの話(仮)

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02. 朝凪  完全に行き詰まっている。 「うーん……」  パソコンの画面から少し距離を置こうとして、自分の肩が岩石のように硬く凝り固まっていたことに初めて気付く。おそるおそる背中を伸ばそうとすると首の後ろから骨の軋む嫌な音がして、そのまま椅子の背もたれに背中を預け深く座り直す。  さて、どうしたものか。  いわゆるスランプというやつは、これが初めてではない。今までにも何度も経験してきたことだ。でもここまで長い間筆が止まるのはもしかしたら初めてのことかもしれない。  学生時代からずっと続けている小さな劇団で、俺は脚本家のようなことをやっている。団員たちも俺と同じようにそれぞれの仕事や家庭があり、その合い間でどうにか時間を捻り出して細々と活動を続けている。要は趣味やサークル活動の延長みたいなものだ。  きっとこんなことを言ったら笑われるか、もしくは憐れむような目を向けられるのは分かっているからあまり話さないようにしているが、俺はいつかは脚本を書く仕事で食べていきたいと結構本気で考えていたりする。才能だの努力だのという問題の前にもはや今の自分が将来の夢を抱くような歳ではないということは分かっている。本来であればとっくの昔にそんなものには見切りをつけ、家庭を持ち、もっと地に足の着いた生活を送りながら、自分や家族の今後を考えていなくてはならない歳だろう……というようなことを、去年の暮れに帰省した時に姉貴から言われたばかりである。  そんなこと言われるまでもなく本人がいちばんよく分かっているというのに、姉貴は少し俺と歳が離れているせいか昔からとにかく説教くさい。息子の拓海が歳の割に堅苦しく、ここで居候している間ずっと何かと言うと俺の生活態度にいちいち小言ばかり浴びせていたのは明らかに姉貴から受け継いだ遺伝子のせいだろう。  まあ、今それはいい。脚本を書く筆が止まっていることの前では、それ以外の問題など実に些末なことでしかない。  去年の梅雨明け頃に完成した脚本を元に、およそ一年かけて作り上げた舞台の初公演は大成功だった。脚本を書く段階から時間も予算も今までより桁違いにかけることを想定し、文字どおり劇団の存続をかけて取り組んだのだ、成功してくれないと困る。知名度はないに等しい小さな劇団ながらも宣伝に力を入れ、予想を遥かに上回る盛況ぶりに最初は団員たちみんな怖気づいていたが、ここまで来たのだから後はもうやるしかないと腹を括り、自分たちの持てる全てを出し切ってこれまでの努力の成果を披露した。  あの舞台は、俺たちにとって最後の作品になるかもしれないものだった。脚本の段階からそういうことになっていた。今の自分たちでやれるだけのことを全てやって、それでも結果が振るわなかった時はこの劇団を終わりにしようと。長く続けていたせいでずっと在籍している団員たちが高齢化し、活動に使える時間や資金の確保が難しくなってきていることが理由だった。  今になって思うと、これで本当に最後だと思って取り組んだからこそ、最高のものになったのかもしれない。きっと今までの俺たちにずっと欠けていたものは、いつか必ず終わりが来るという現実への覚悟だったのだろう。何とも皮肉な話だが。  舞台が大成功を収めて劇団は存続することが決まり、一件落着と思われたが、現実は舞台のようにラストシーンを迎えればそこで終わるようにはできていない。物語が終わった後も、ただただ現実は続いていく。そんな当たり前のことが、今の俺に重く圧し掛かっている。  舞台の公演が終わり、そろそろ次回作の構想に取り掛かりたい。座長を務める友人にそう言われてからだいぶ経ったが、具体的な形になったものはまだ何ひとつ書けていない。前作の脚本を書き終えたのは去年だから、かれこれ一年以上何も書いていないことになる。  一応ネタみたいなものはいくつかあり、思いつく度にメモを残してはいるが、いざそれを形にしようとなると全く指が動かないのだ。書かない時間が長期化するといつか本当に何も書けなくなりそうで、何でもいいからとにかく何か書こうとこうしてノートパソコンの前に座ってみてもやはり書けない。書き溜めた言葉が上手く繋がってくれない。そうこうしているうちに夜は更け、一文字もタイピングできないまま東の空が白々と明け始め、一睡もしないまま仕事に向かうということを何度も繰り返していたせいか、ここのところパソコンに向かうことさえ苦痛になってきている。  どうして書けないのか。これといった明確な理由は思いつかないが、心当たりとなるものが全くないというわけではない。  おそらく、肩に力が入りすぎているからだ。  劇団の存続をかけて作り上げた前作の脚本は、俺の中であまりに完璧すぎた。きっと団員たちもみんな同じだろう。あれだけの作品を作り上げられたのだから、次はそれ以上のものをと意気込むのが普通だと思う。そうやって自分で自分にプレッシャーをかけている自覚はある。  一度最高の作品を完成させてしまったら、もう二度とそれ以上のものは作れないんじゃないのか。  自分の限界を自分で決めてしまっているだけのように聞こえるかもしれないが、最高の作品というのは作ろうと思って作れるものではなく、自分でも期せずして作り上げてしまうものだ。絶対に素晴らしいものを作るんだと鼻息荒く意気込んで取り組んでも大したものにならないこともあれば、ふと思いつくまま軽い気持ちで書き始めたものがこれまでにないほどの傑作になることもある。仕上がりがどうなるか、作っている本人ですら完成するまでは分からない。  こういうことで悩むことができるのは、仕事ではないからなのだろうか。  確かにこれは趣味でやっていることだから、仕事のように納期や締め切りはないし、一定以上のクオリティを求められているわけでもない。だが、どうせ趣味だから、と言い訳して満足できないクオリティのものは作りたくない。そんなことをするくらいなら最初から何も作らない方がましだ。  仕事のようにある程度の縛りや制約のある中でやった方がいいのかもしれない、たまにそう思う。あまりに規制がなく自由すぎるとかえって何も思いつかない。  二十五メートルのプールなら自分の泳ぐ距離が明確に把握できるが、広大な海を目の前にすると一体どこまで泳げばいいのか全く見当がつけられない、そんな感覚に近い気がする。 (……ダメだな、今日も書けそうにない)  さっきから頭に浮かぶ何もかもがとっ散らかって一向にまとまる気配を見せようとしない。せっかく明日は休みだからと徹夜することも覚悟してパソコンに向かったのに、今夜もまたいつもと同じだ。  仕方ない、もう寝るか。たとえ書けなくても睡眠だけはしっかりとらなくてはならない。もう若い頃と同じようにはできないんだし。  *  一晩よく眠れば頭も冴えてスッキリ、そんな体験は生まれてこの方一度もしたことがない。身体の疲労も頭を悩ませる問題も、数時間眠ったところで消えてはくれない。  頭はこれ以上ないほど疲れているはずなのに、あまりよく眠れなかった。運動不足なのが原因だろう。それとも昨夜、パソコンに向かいながらコーヒー飲んだせいだろうか。 「……はあ」  こういう時、頭を悩ませている問題から離れてみるのがいいというのは知っている。でも本当に離れてしまっていいのだろうか。一度でも離れたが最後、もう二度と書けなくなるような気がして、何も書いていないのに気ばかりが焦る。完全に負のスパイラルである。  このままではいけない。息抜きに軽く身体を動かした方がいいかな。普段から運動する習慣はないけど、このままずっと悶々としていても事態は何も変わらないだろうし、気分転換になることをすれば何か新しい閃きがあるかもしれない。  とりあえず散歩でも……いや、今日もまだ暑いからできれば外に出たくないな。  そうだ、家の掃除でもするか。そう言えば拓海が使ってた部屋、あいつが出て行ってから一度も掃除してなかったっけ。部屋から荷物を運び出す時に拓海が自分で掃除してたけどそれっきり放置したまま、換気もしていない。多分さほど汚れてはいないだろうが、たまには掃除機くらいかけるか。  *  主を失った部屋の中は、ずっと時間の流れが止まっていたのかと錯覚するほどあの時のままだった。  停滞した空気を外へ出そうと窓を開けると、生温い潮風が流れ込んでくる。まだ湿気を多く含んではいるが真夏の風とは明らかに違う、ほんの少しだけさらりとした肌触り。秋の匂いだ、と思った。  さほど広くもない部屋だし、家具や布団などの障害物もないので掃除機をかけるのはあっけないほど簡単に終えてしまった。予想していたとおり、特に目立った汚れはなく大掛かりな掃除の必要はなさそうだ。  拓海がここで寝起きしていた頃より前からほぼ物置と化していた押し入れも念のため開けてみたが、少し埃っぽい臭いがするだけで処分しなくてはならないようなものは見当たらない。 (あれ、何だこりゃ)  と思ったら、下の段の隅に見慣れないものを見つけた。ビニールの紐で縛った数冊のスケッチブックだ。おそらく、拓海がここを出る時に捨てるつもりでまとめておいたまま忘れてしまったのだろう。  次の古紙回収の日に出しておくか……いや、でも一応本人に捨てていいか確認だけでも取っておいた方がいいかもしれないな。今度あいつと話す機会があったら聞いてみよう。 「ふー……」  開いた窓の前に立ち、腰に両手を当てて風を深く吸い込む。大して動いていないのにいつの間にかうっすらと汗ばんでいた額を、潮風が優しく撫でて去っていく。  まあ、気分転換にはなったかな。何か素晴らしいアイディアを閃くということはなかったものの、昨夜みたいな完全に行き詰まった状態で身動きのとれないような閉塞感はなくなっている。  部屋の掃除も町内会のゴミ拾いも、脚本執筆の息抜きだと思ってやればそんなに苦にならないのかもしれない。 (……静かだな)  昼下がりの海辺は人の気配がなく、時折散歩をしているらしき爺さんや子供連れの母親がちらほらと通り過ぎていくだけだった。この町は観光地として夏になると多少賑わうもののそれ以外には特にこれと言った産業や特産物があるわけでもなく、海水浴シーズンを過ぎてしまうと次の夏が来るまでは毎年こんなものだ。そのせいか、ここで客商売を始めてもその多くが長くは続かない。俺もそのうちの一人になると、ここに来た頃はそう思っていたんだけど。  その時、がらんとした部屋に突如スマートフォンの振動する音がヴーッと響き渡った。驚いて振り向くと、部屋の隅の小さなカラーボックスにさっき置いたままだった端末が小刻みに振動を続けていて、誰かからの着信が来ていることを告げている。  歩み寄って画面を確認すると、そこには『姉貴』と表示されていた。  咄嗟に拒否ボタンへ触れようとしていた自分の指をふと止めて、どうしたものかとしばし考えあぐねていても向こうはなかなか折れない。ひとつため息をつき、諦めて応答ボタンに触れた。 「はい。なんか用?」 『聞きたいことは山ほどあるんだけどね』 「……この前メールで説明しただろ。あれ以上話すことはないよ」  通話開始から十秒と経たないうちに、俺は電話に出たことを後悔していた。とにかく早々と話を切り上げてしまおう、そう思ってこっちに話を続ける意思がないことをあからさまにアピールしてやったつもりだったのに、姉貴は一向に構わずまくしたててくる。 『ちょっと洋二、あんたずっと前からこのこと知ってたんでしょ!? どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ!』 「いや、俺も知ったのは最近……」 『ああ~もう、だから拓海があんたのとこに引っ越すの止めておけばよかったんだわ! いきなり仕事辞めてのんびりしたいとか言い出した時、なーんか嫌な予感はしてたのよ。でも洋二のとこに行くのだけは何としても止めておけば、こんなことにはならなかったのに』  始まってしまった。しかし、いつもだったらみなまで聞かず一方的に通話を切っていたところだが、姉貴の『こんなこと』という言い方につい反射的に反論してしまう。 「ちょっとちょっと、姉貴。男同士だからってそう頭ごなしに否定するのは良くないよ。そもそも、めでたい話なんだから」 『そういうことを言ってんじゃないわよ! 男同士なのはいいのよ、問題なのは年齢なのよ!』  男同士なのはいいんかい。って、じゃなくて。 「え?」 『あ、あんなっ……若くて綺麗な子を、まだ未成年の息子さんを、きっ、キズものにして……ああもう、親御さんに何てお詫びしたらいいか……胃が痛い……』  電話の向こうで姉貴の声はどんどん弱々しくなっていく。  どうやら男同士ということについては容認しているらしいことを知って内心ほっとしたのだが、姉貴にとって問題はそこではなく拓海と水島くんの年齢差にあったようだ。  まあ、無理もないか。男女の場合であったとしてもすぐには受け入れ難いだろうしな、十歳差って。 『絢斗と二人で暮らそうと思ってる』  拓海の口からそう聞かされたのは、ほんのひと月前のことだ。  二人の関係には以前から薄々気付いてはいたし、いずれそういう話が出るかもなあと覚悟はしていたつもりだったが、まさかこんなに早くここを出て行ってしまうとは思ってなかった。拓海は子供の頃から何事においてもとにかく時間をかけて熟考するタイプで、進学や就職といった今後の人生の方向を決めるような決断を下す際は特に慎重になってしまいなかなか行動に移せないような子だったのに、水島くんと同棲すると打ち明けられてからの進展は俺が見ても驚くほどに迅速だったのだ。  そんなに急がなくても、もっとじっくり段階を踏んで進めてもいいんじゃないのか、老婆心ながら拓海にそう言ったことがある。気持ちがはやるのは分かるけど、こういう人生における大きなイベントごとは急かしたところでいいことなんかひとつもない、考えることもやることも山ほどあるのだから、落ち着いてひとつずつクリアしていく方が拓海の性質にも合ってるだろうと。  あの時の拓海の表情を、俺は今も忘れることができない。 『時間が、ないんだ。……俺と絢斗には』  それっきり俺は、あの二人に水を差すようなことを言うのはやめた。  あいつらだってそんなこと分かってる。分かっていて、あんなに急いでいるんだ。あの時の拓海の思いつめたような今にも泣き出しそうな目を見て、二人の気持ちが生半可なものでないということは俺にもはっきりと理解できた。  俺はせめて二人のサポートをできる範囲でしたいと思い、拓海が水島くんを実家へ連れて行く前に姉貴にそれとなく事情を説明しておいた。何の前振りもない状態で突然水島くんを紹介させるよりは、あらかじめある程度の心構えができている方が姉貴も義兄さんも話を受け入れやすいだろう、そう思ってのことで、決して混乱させようだとか驚かせようなどというつもりは一切なかった。姉貴のためを思ってしたことだ。  だが、今になって思えばメール一本で説明を終わらせたのがまずかったらしい。姉貴からは矢継ぎ早にそんな話は聞いてないだのもっと詳しく教えろだのと電話やメールで鬼のような催促があったが、拓海と水島くんが実家を訪ねる日程がもう数日後に迫っていたこともあり、俺は姉貴からの質問攻めにほとんどまともな返答をできないままその日を迎えてしまった。  その場で一体どんなやりとりが行われたのか、姉貴の弟である俺ですら想像するのも恐ろしい。当日は拓海の身を案じて一日中気が気ではなかった。  後日とりあえず両家からの許可が無事下りたことだけは聞いているが、姉貴からの質問攻めは今も尚続いている。二人の同棲自体は既に認めたものの、俺の説明不足な対応にまだ不満を抱いているようだ。  姉貴の気持ちも分からないでもない。しかしだ、キズものって表現は時代錯誤も甚だしくないか。 「まだキズものになってるって決めつけるのは早いんじゃないの」 『なによ。もしかして洋二、そのへんのこと拓海から聞いてる?』 「え、いや……ってか、そういうのは当人同士の問題だろ。いくら親でもそこまで知ろうとするのはいかがなものかと思うよ。姉貴も、水島くんの親御さんもな」 『大人同士ならそうだけど、絢斗くんはまだ未成年じゃない。もし私が絢斗くんのご両親の立場だったら、拓海の横っ面張り倒してたわよ』 「だーから、そういうのはやめろって……」  つい無意識のうちに深々とため息をついてしまう。  男でも女でも、そういうことの受け止め方に大した違いはないものなんだろうか。俺は親になった経験がないから想像することしかできないけど。 「親だからってしつこく口出すのはやめろよ、拓海と水島くんは真剣なお付き合いをしてるんだから。そのくらい、姉貴だって分かってるだろ」 『……分かってるわよ』 「それでいいの。俺らにできることは、ただ黙って見守ってやるくらいだよ」 『それでも、せめて絢斗くんが成人するまでは私達にも責任があるでしょ。拓海が何か妙なことしないか、洋二も野放しにしてないで見張っててよ』 「何だよ、妙なことって」 『だから……その、絢斗くんのトラウマになるようなことを強要したりしないように、ってこと』 「姉貴と義兄さんが拓海にまともな性教育を施してたんなら、そんな心配は無用だと思うけど」 『簡単に言わないでよ! 大体あんたは……!』  結局その後、俺は姉貴からの説教を小一時間聞かされる羽目になった。
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