叔父さんの話(仮)

3/7
前へ
/7ページ
次へ
03. 夕凪  口は災いの元とはよく言ったものだ。  姉貴との通話を半ば一方的に切りながら、俺は固く心に誓った。当分の間こっちから電話するのはやめておこう。  拓海が使っていた部屋から出たところ、階段の横に置いてある水槽の前で小さくため息をつく。思ったより長い時間姉貴の説教を聞いていたらしく、気が付けばそろそろ金魚に餌をやる時間だ。いつものように水槽台の下から餌の入った容器を取り出して開けると、中身はもうほとんど残っていなかった。せいぜいあと二、三回分くらいの量しかない。 「あれ……」  こんなに減ってたっけ。そう言えば最後に買ったの、結構前だったような気がする。  金魚の餌や飼育に必要な道具はいつも通販かホームセンターに行った際に他のものとまとめて買っているので、特に期間を定めて計画的に購入しているわけではない。  そろそろ補充しないといけないが、今は他にこれと言って不足しているものはないし……餌だけ買うのはもったいないな。通販は他のものとまとめ買いしないと送料がかかってしまうし、ホームセンターはここから車で数十分かかるし。 (――あ、そうだ)  そこで急に、ふと思いついた。  望月アクアリウム、久しぶりに行ってみようか。  もうずいぶんと長いことあの店には行ってないけど、こいつを飼い始めたばかりの頃はよく足を運んで、爺さんから金魚の飼育について教えてもらうついでに餌も買っていた。あそこは歩いて行ける距離だから、今から散歩でもするつもりで行ってみるかな。  ただ心配なのが、最近は爺さんの体調次第で不定期に休むことが増えてるらしいことだ。行ってみたら店が閉まってたということもありえる。  ま、いいか。その時はその時だ。もし閉まっていたとしても、望月くんに次の開店はいつ頃になりそうか聞けばいいだろう。  *  あの店はここからだとスーパーや駅とは反対方向にあり、ここ数年は店どころかその周辺に向かうこともなかった。大した距離ではないはずなのに、普段滅多に歩かない道は見慣れなくてこっちで合っているのかと少し不安になる。  それでも時々、微かに見覚えのある家がちらほらと目につく。人の出入りがあまり活発でない町だから当たり前なのだが、特にこのあたりは何年経ってもあまり変化がないようだ。  目指す望月アクアリウムの店構えも以前俺が通っていた頃のまま、まるで時間の流れに取り残されているかのようにひっそりと佇んでいた。  正直言うと心の半分くらいは店が閉まっていることを想定していたのだが、店舗用のシャッターは下りておらずガラス戸の向こうからは煌々と明かりが漏れている。今にも海の向こうへ沈みそうなオレンジ色の夕陽に包まれ、その店の佇まいはノスタルジックでどこか非現実的な様相を帯びていた。  しかし、人の気配がまるでない。店は開いているのだが、客も爺さんもいるようには見えないのだ。 (これ、本当に開いてんのか……?)  おそるおそる店内を覗き込んでみても、やはり人影はない。整然と並べられた水槽の中では色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいて、水の中で無数の泡を吐き出すエアーポンプの振動音が聞こえてきそうなほどあたりはしんと静まり返っている。  非常に入りにくいが、ここまで来たのだから手ぶらで帰るわけにはいかない。意を決してガラス戸を引いた。 「……」  予想はしていたのだが、俺が入店しても『いらっしゃいませ』という挨拶はなかった。この店は昔からずっと爺さんが一人で切り盛りしていたようだったし、従業員を雇っている様子もなかったから、以前通っていた頃もこんな感じだったのは今も何となく覚えている。  それだけならいいのだが、店内も人の気配がない。他人事ながらあまりの不用心さに心配になるくらいだ。  店の奥にはレジがあり、その脇にはシンクと作業台が備え付けられている。更にその奥はレジのカウンターで遮られてこちらからは立ち入ることができないが、どうやら奥の居住空間へと繋がっているようだ。うちの店と同じような造りらしい。  レジの向こうに誰かいるかもしれない。そう思って声をかけようとしたまさにその瞬間、奥まったところにある水槽の向こう側からガタンと物音が聞こえた。店の奥へ進入してみると、出入り口からは死角になっていて見えなかったがシンクと作業台の横に小さな物置のような部屋がある。ドアは開け放してあり、そうっと中を覗き込んでみると、そこには見覚えのある顔がいた。 「……望月くん?」 「え……あ、洋二さん? いらっしゃい」  いるだろうとは思っていたが、まさか店番をしているとは思っていなかった。あまりに驚いて声も出せず突っ立ったままの俺をよそに、望月くんは至って落ち着いている。バケツを手に提げて物置から出てくると、シンクの脇にそれを置いてタオルで手を拭きながらこっちに振り向いた。 「すみません、気が付かなくて。店開けてても誰も来ないし、少し早いけど今日はもう閉めようと思って片付けてたんです」  その顔は少し照れくさそうに微笑んでいる。初めて会った時も笑った顔は見せたけど、今の望月くんはあの時と違ってどこかあどけない子供のような笑い方をしていた。落ち着いて大人びた雰囲気の子だと思っていたのに、これはちょっと意外かもしれない。 「ああ、そうだったのか。悪いね、変な時に来ちゃって……出直した方がいいかな」 「あっ、いえ。そういうつもりじゃ」 「分かってるって」  つい笑ってしまいそうになり、あわててひとつ咳払いする。  きっとこれが素の望月くんなんだろう。この前は知らない奴しかいない町内会のゴミ拾いなんかに参加させられて少し緊張していたのかもしれないな。 「今日は何か、お探しですか?」 「あ、そうそう。これと同じやつが欲しいんだけど、置いてるかな」  念のため家から持ってきていた金魚の餌のパッケージを見せると、望月くんはすぐに同じものを持ってきてくれた。 「ありがとう」 「金魚飼ってるんですね」 「ん? ああ、うん。十年くらい前に龍神祭の金魚すくいでとったんだ。飼い始めた頃はここの爺さんからいろいろ教えてもらってね、すごくお世話になったんだよ」 「爺ちゃんが……」  気のせいだったのかもしれない。その時ふと、望月くんの表情にわずかだが陰りが落ちたように見えた。  もしかして、爺さんのことにはあまり触れられたくないのかな。最近体調が芳しくないということしか聞いていないけど、爺さんの年齢を考えると俺みたいな赤の他人が気安く触れていいような話題ではないだろう。  話を逸らさなくては、しかし他にこれといった話題がない。天気の話でも振ってみようかと店の外に視線を向けて、いつの間にか日が沈んでいたことに初めて気付いた。 「ずいぶん長生きしてるんですね。金魚」 「あ、ああ……そうだね」  望月くんに視線を戻すと、思いのほか穏やかに微笑んでいる。さっきのはやっぱり気のせいだったのだろうか。 「お祭りの金魚すくいでとった金魚って、すぐに死んじゃうみたいなイメージがあるみたいですけど、適切な環境で育てれば結構長く生きるんですよね。爺ちゃんからの受け売りですけど」 「そうみたいだな。俺も最初はこんなに長く生きてくれるとは思ってなかったんだけど、もう今じゃあいつの世話するのが生活の一部になってるよ」  望月くんはおかしそうに笑いながらレジを打っている。 「その金魚は果報者ですね。そんなに大事にしてくれる人のところにいられて」 「そんな大げさなことはしてないけど……でも確かに、生き物にとっては誰に飼われるかって運次第だからなあ」 「金魚はきっと、洋二さんに感謝してますよ」 「だと嬉しいけどね」  代金の支払いを済ませて金魚の餌を受け取り、そこでようやくはたと気付く。  しまった。望月くんにはなるべく関わらずにそっとしておいてあげようと思ってたはずなのに、わざわざ店まで押しかけてどうでもいい雑談を強要している。これじゃあ興味本位で彼の素性や家のことを根掘り葉掘り聞き出そうとする噂好きの年寄り連中と何ら変わりないではないか。そんなつもりはなかった、などという言い訳は通用しない。そもそも噂好きの奴らは押しなべて自分のしていることが相手を不快にさせているという自覚がないものである。  これ以上ここにいたら間違いなく望月くんも迷惑だろう。長居は無用だ、さっさと出て行かないと。 「それじゃ……」 「またいつでも来てください。見てのとおり、いつも暇してるので」  本人は社交辞令のつもりなのだろうが、そうやって思ってもいないことをにこにこしながら言うと年寄りは真に受けるからやめた方がいいんじゃないか。現に今、俺もその笑顔のせいで彼の言葉をそのまま真に受けている。 「もしかして、いつもこんな感じなのかな。店」 「そうですね。僕がここに来てからは、お客さんが来てるのを見たのは今日が初めてですよ。何年か前に藤澤の方で大きなホームセンターができてからはずっと閑古鳥が鳴いてるって、爺ちゃんが言ってました」 「そっか。まあ、うちも似たようなもんだよ」 「そうなんですか?」 「前に話したっけ、レンタルビデオ店をやってるんだけどね。もう時代の流れっていうか、映画やドラマなんてわざわざ店まで借りに来なくてもネットでいくらでも観られるからさ」  ああ、ダメだ。早く切り上げなくてはと思ってるのに、何故俺はまたこんなどうでもいい雑談を続けているんだ。 「そういうものでしょうか。僕はここに来る前は東京にいたんですけど、レンタルビデオ店って結構あってどこもそれなりに人がいましたよ」 「東京はここと違っていろんな人がいるからなあ。そう言えば拓海もそんなこと言ってたような……」 「タクミ、って?」 「あ、ごめん。俺の甥っ子なんだけどね、ちょっと前まで失業してて俺の家で居候してたんだ。今は仕事しながら恋人と同棲してんの」 「へえ、甥っ子さんですか。会ってみたかったな」 「ちょうど望月くんがこっちに来る少し前に出て行ったんだ。もう少しいたら会わせてあげられたんだけどね。多分、歳は望月くんとそんなに変わらないと思うんだけど」  さっきから切り上げなくてはと思いながらもこうやって望月くんとのどうでもいい雑談をやめられないでいるのは、きっと俺が話したいからなのだろう。  拓海が出て行って一人になって、必然的に誰かと会話することが激減した。あいつが家にいた一年半近くの間、俺は毎日あいつと顔を合わせてどうでもいいことを話して、たったそれだけのことにとても救われていたのだということを今になって初めて知った。  仕事以外の場所で、誰かに話を聞いてもらうこと。誰かの話を聞かせてもらうこと。自分はそういうものを煩わしいと思っていたはずなのに、いつの間にかそういうものにこんなにも飢えていたなんて。まったく情けない話だ。 「甥っ子さんって、おいくつなんですか?」  しかし、望月くんは一体どういうつもりなのか。こんなオッサンの話なんぞ聞いたところで時間の無駄でしかないだろうに、さっきからやけに俺の話に興味を示してくれる。いや、俺の目にそう見えているというだけなのだろうが、それにしても早く話を終わらせようとしている様子が感じ取れない。  自分より若い子が自分の話に食いついてきてくれる、オッサンにとってこれ以上に自己肯定感を高めてくれることは滅多にないと思う。オッサンの話を若い子が聞いてあげることでそれが商売として成り立ってしまう、その理由が痛いほどよく分かる。歳はとりたくないものだ。 「二十八だよ」 「うわ、若いなあ。青春ですね」 「望月くんもそのくらいだろ? あれ、違うのか」 「そう見えるなら、そういうことにしておいてください」  かわされてしまった。いたずらっぽく微笑む黒目がちな瞳は、やっぱり拓海と同年代くらいに見えるんだけどな。落ち着いてるから普段は拓海より年上に見えるけど、笑うとすごく幼く見えるから下手したらあいつより年下に見えなくもない。  望月くんの実年齢は知りたいけど、かわされたということは要するに聞くなってことなんだろう。その気持ちは俺にもよく分かるから、知りたいと思う自分をどうにかぐっと抑えつけて曖昧に笑ってみたりする。 「恋人と同棲ってことは、いずれは結婚するつもりっていう前提ですかね」 「ん? あー……いや、それは……」  咄嗟に上手く返答できず、言い淀んでしまったのがいけなかったらしい。望月くんの顔から笑みが消えて、申し訳なさそうにまつ毛を伏せるのを見て、しまったと思った。 「……あ、すみません。詮索するつもりは」 「ああ、違う違う。そうじゃなくってね」  あわてて否定しながら、その次に繋げる言葉を探す。  拓海たちのことはまだ知り合いに話したことはないのだが、望月くんになら話しても問題はないだろう。この町に親しい知り合いはいないようだし、そもそもこういうデリケートな話を軽々しく他人に吹聴するような子じゃないのは明白だ。  胸の奥で拓海と水島くんに謝りながら、ひとつ小さくため息をつく。 「その……甥っ子の恋人っていうのがね、男の子なんだよ。それもまだ十八で」  望月くんはすぐには何も言わなかったが、その表情は特に驚いているようにも引いているようにも見えなかった。そうなんだ、くらいの感想しか出てこなさそうな、俺の予想に反して非常に薄い反応だ。 「結構思い切ったことしますね、甥っ子さん」  ようやく返ってきた言葉とは裏腹に、望月くんの表情には相変わらず変化がない。あまり特殊なこととして受け止めている様子ではないように見える。  俺の場合、拓海と水島くんの関係を知るよりずっと前から自分の友人に同性同士のカップルが何組かいたのを見てきたせいか、二人のことを知っても特に驚きはしなかったのだが、未だにそういう関係に対して理解のない人や拒否反応を示す人も少なくないことは分かっている。各々の考え方の問題だからそれについての是非を論じるつもりは毛頭ないが、自分の大事な甥とその恋人が世間から心ない言葉や態度を向けられるのは俺の本意ではないので、むやみに第三者へ口外するのは賢明ではないと判断した上で黙っていることにしたのだ。  だから俺は、面食らっていた。望月くんの反応は、俺が想定していたどんな反応とも違っていたからだ。もしかして彼も、そういうことに関しては割と柔軟なタイプなんだろうか。 「だ、だよなあ。相手の親御さんにご挨拶に行く時も、ちょっといろいろ揉めたんだよ」 「揉めたって、反対されたってことですか?」 「いや、反対はされなかったんだけどね。どっちかって言うと、甥っ子の母親……俺の姉貴なんだけど、そっちの方が二人のことを聞かされてパニクっちゃって。『まだ未成年の息子さんをキズものにして、親御さんに何てお詫びしたらいいか』ってさ」  そこで望月くんは、ぷっと小さく吹き出した。 「なんか久しぶりに聞きますね、その言い方」  拓海たちのことを説明した後に俺が姉貴から受けた罵詈雑言の数々を思うととても笑えるような話ではなかったのだが、望月くんがそう言ってくれてようやく笑い話にできそうな気がしてきた。  やはり自分一人の中でずっと抱え込んでしまうと、それが他人から見れば笑い飛ばして済ませられるような話であってもどんどん深刻なものになっていってしまうのだろう。何事も抱え込むのはよくないな。  思わず自分で自分に苦笑してしまい、それを誤魔化すように大仰なため息をついてみせる。 「キズものって、まあ確かに事実なんだけどさあ」 「洋二さんのお姉さんって面白いですねえ。発想が昭和というか」 「昭和とか平成とか、これ関係あるかな?」 「はは、それもそうですね。でも、僕も昭和生まれですけど、その考え方はちょっと古風だなと思いますよ」 「ふーん?」 「セックスしたらキズものですか? 初めてしてもいいと思える相手とそれほど深い仲になれたことを、むしろ親は喜ぶべきだと思いますけどね」 「……」  望月くんはわずかにまつ毛を伏せて、柔らかく微笑んだ。 「簡単なようで、なかなかできることじゃありませんよ。しかもご両親にご挨拶までしてくれただなんて……男同士で歳も離れてて、そんなことしたら何を言われるかなんて分かってただろうに。その子、本当に大事にされてるんですね。幸せ者じゃないですか」  意外だなあと、そう思っていた。  まだ知り合ってこうして話をするのは二度目だけど、正直言うと望月くんはもっと保守的で頭の固い子だと思い込んでいた。きっと真面目で常識的で、だからこそ無数の生き方や価値観が飛び交っている都会での生活に耐えられずこんな田舎へ来ることになってしまったのだろうと、今野さんに聞いた話から勝手に想像していた。  そうではなくて、その真逆だったのだ。望月くんはとても自由で柔軟な発想のできる子で、その繊細で優しい心が単に都会の空気と合わなかっただけなのだろう。  拓海たちを世間の偏見から守ってやっている気になって、いつの間にか俺自身が人を色眼鏡で見るようになっていたのだと、その時初めて気付いた。ろくに話したこともないくせに、外から聞かされた情報だけで望月くんがどういう人間なのかを知った気になっていた自分を、心の底から恥じた。 「……若いなあ」  ぽつりと呟くと、望月くんはおかしそうに笑いながら俺を見た。 「洋二さんよりはね」 「おいこら、喧嘩売ってんのか」 「あはは、違いますよ」  珍しく声を上げて笑う望月くんに、年甲斐もなくどきりとしている自分に自分で驚く。  やっぱり、笑うとすごく幼く見えるんだよなあ。おそらく彼より年下の拓海でも、ちょっと笑ったくらいじゃここまで子供みたいな顔にはならないのに。童顔、とは少し違うが……望月くんは本当に年齢不詳だ。 「……? 何か」  俺が不躾な視線でまじまじと見てしまったせいか、望月くんは少し居心地悪そうに苦笑した。いかんいかん、ここのところ油断してると目が留まったものについぼうっと見入ってしまう。歳だな。 「いや……その、思ってたよりずっと話しやすいんだな。なんか意外で」 「暗くて話しにくそうな奴だと思われてたんですか」 「そ、そういう意味では……あるけど」  もちろん半分は冗談のつもりだったが、望月くんは真に受けて落ち込むかもしれない。でも予想に反し、望月くんはくすくすと笑っている。 「はっきり言いますね、でもそのとおりです。若い頃から接客とか営業とか大の苦手で、外部の人と話すことが少ないってだけの理由でずっと社内SEやってたくらいですし」 「へえ、そうなのか。でもなんで辞めちゃったんだ? もったいない」  何も考えず思ったことを思ったとおりに口にして、すぐにしまったと思った。会社を辞めるほどメンタルやられた理由なんて、こんな田舎のよく知らないオッサンにしつこく詮索されてホイホイ答えるわけがないだろうに。 「……あっと、ごめん。軽々しく聞いていいことじゃないな」  白々しいとは思ったが、目を逸らしてぼそぼそと謝る。  ああ、失敗した。せっかくいい感じで話してくれてたのに、調子に乗って無神経なことを聞いて。見ろ、望月くんも返事に困って黙り込んでる。やっぱり余計な雑談なんかしてないでさっさと帰ればよかった。 「……月並みですけど、少しゆっくりしたくなって」  短い沈黙を先に破ったのは、望月くんだった。  逸らしていた視線をちらりと望月くんに戻す。前髪に隠れた目は一体何を見ているのだろう。少なくとも、俺ではない。それだけは分かる。 「まあ、そんな時間も必要だよな。俺にもそういうのあったし、さっき話した甥っ子もこの町に来た理由はそれだったよ。充電中ってやつかね」  何となく気まずい空気を振り払うように、わざと明るい口調でべらべらと喋ってしまう。とにかく一刻も早くこの話題を終わらせなくては。 「洋二さんって、変わってますね」 「ん?」  きっと俺はとんでもなく間抜けな顔をしていたと思う。それでも望月くんは静かに微笑んだまま、俺の目をじっと見て言った。 「会社を辞めたことを伝えた時、父親にこっぴどく叱られたんです。いい歳して何言ってるんだ、お前より苦労して働いてる人は山ほどいる、子供みたいなこと言ってないでさっさと現実と向き合えって。そんなこと僕がいちばん分かってたけど、父の言うことはもっともだと思うと何も言い返せなくて……それで、爺ちゃんのところへ逃げてきたんです。父もここまでは追ってこないし、爺ちゃんは何も聞かずに家に置いてくれたから」 「……そっか」  望月くんの父親くらいの世代だと、そういう考えをする人の方が多数派だろう。親御さんの気持ちも分からなくもないが、地に足の着いていない人生をふらふらしてきた俺にとっても耳の痛い話だ。俺でさえそう感じるというのに、心身共に疲弊している我が子に向かってそんな言い方をしなくてもいいだろうに。 「こんなだから子供みたいだって言われるんでしょうけど、なんかそれ以来人と会うのが怖くなっちゃって。こんな話、誰に聞いてもらっても父と同じことしか言われないと思って、今までずっと誰にも言えなかったんです」 「俺も、人に偉そうなこと言えるほど立派な人生歩んでないからな」  望月くんの前髪が小さく揺れて、隠れていた目が不意に露わになった。  初めて会った時は少し怯えているようにも見えたその目は今、真っ直ぐに俺を見ている。あの時の望月くんを見て、ほんの少し誰かの靴のつま先が当たっただけでも簡単に茎が折れてしまいそうだと思ったのは、あながち間違ってもいなかったらしい。きっと彼は今まで、ずっと世間の目に怯えて生きてきたんだろう。 「さっきも言ったけど、人生は長いんだからそんな時間も必要なんだよ。親御さんが何て言おうと、望月くんの人生は望月くんだけのものだ。疲れたら休む、それでいいんだよ」  半ば自分自身に言い聞かせるように、一言一句ゆっくりと言葉を繋げた。  俺の言いたいことは、果たして望月くんに余すことなく伝わっているだろうか。言葉だけで誰かに訴えかけることのできる気持ちには限界があると分かっているけど、どうしても今の望月くんには言わずにいられなかったのだ。  望月くんはしばし黙っていたが、やがて少しうつむいて小さく笑った。 「……そうですね」  その言葉と表情からは俺の言いたいことを理解してくれたのか判断することはできなかったが、きっと分かってくれたのだろう……と、信じたい。  あまり詮索せず、なるべく関わらないように。そっとしておいてやるのが望月くんのためだと、そう思っていたはずなのに。  心の中で確かに芽生えた彼に対する純粋な興味は、もはや摘み取ることはできそうになかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加