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06. 夢現
家の玄関まであと数歩というところまで来て、はたと思い出す。しまった、明日出そうと思ってまとめておいたゴミの袋を玄関に置きっぱなしだ。
「ち、ちょっと待って!」
「え?」
ドアの前で突然立ち止まり進路を阻もうとする俺を、望月くんはきょとんとした顔で見ている。
幸いにもまとめておいたゴミは生ゴミではなくプラスチック類のゴミなのでドアを開けた途端に悪臭が充満してるなどということはないのだが、望月くんが初めて俺の家を訪問した際に真っ先に目に飛び込んできたものがゴミの袋という事態だけは何としても避けたい。身だしなみや暮らしぶりについて自分が人より無頓着な方であるという自覚はあるけど、望月くんにそれを見られるのはどういうわけかひどく抵抗がある。
「あはは、その……家ん中めちゃくちゃ散らかっててさ。悪いんだけど、一分だけここで待っててくれるかな? すぐに片付けるから」
「あ、大丈夫ですよ。僕も家はすごい汚いので、気にしませんから」
「いやいや、俺が気にするんだよ」
「なんなら僕も掃除手伝いますよ、二人でやった方が早く……」
「あーもう、いいから! 一分だけ、ここで待ってて! すぐ終わるから!」
望月くんの言葉をみなまで聞かず、強引にドアをバタンと閉めた。
今まで姉貴や拓海から耳にタコができるほど言われてきた。完璧にできなくていいから、せめてゴミだけは定期的にちゃんと出せと。そう言われる度にうんざりしてはいはいと適当な返事をしてきたが、今になって思い出すと何故もっと彼らの言葉を素直に聞き入れなかったのかと後悔せずにはいられない。
ゴミなんか出さなくたって死にはしないだろ、なんて開き直っていた過去の自分を殴り飛ばしてやりたい気分だった。まさか今までの自堕落な生活ぶりがこんな形で我が身に返ってこようとは。
とりあえずゴミ袋は玄関から死角になっている廊下の隅に追いやり、ついでにリビングと台所を素早く確認する。水回りは昨日掃除したばかりだから目立った汚れはない。食卓の上に散乱している未開封の手紙や書類の束をまとめて下ろし、テーブル下の収納棚に収めて隠蔽する。ソファの背もたれに掛けたまま放置していた衣類を全て脱衣所の洗濯機へ放り込むと、ぱっと見回して目につくところが散らかっていないか最終確認。
よし。綺麗に片付いてるとは言えないが、まあこんなものだろう。有機物系のゴミは放置してないはずだし、食器も使用したものは全て洗ってある。洗濯物もない。食卓の椅子もソファも、望月くんが座って寛ぐスペースは充分ある。
(……これからはもっとマメに掃除するか)
緊張の糸が切れたせいか、ほっとため息をついてしまう。って、緊張ってなんだ。
ああ違う違う、今はそんなこと考えてる時間はないのだ。早く望月くんを家に上げなくては。
「ごめんね、待たせて。どうぞ」
焦って片付けたせいで息が切れているのを必死に隠しながら、笑顔でドアを開ける。そんな俺の内心に気が付いているのかいないのか、望月くんはぺこりと頭を下げると遠慮がちに玄関へ入ってきた。
「お邪魔します」
拓海が居候していた時に必要なものだからと買っておいてくれた客用のスリッパを望月くんが履くのを見て、この時ばかりは拓海に心の底から感謝せずにはいられなかった。あいつがこれを買ってきた時に俺が『こんなもの使わないからいいのに』などと言って二日間ほど険悪な空気になったこと、今度謝っておこう。多分拓海はとっくに忘れてるだろうけど。
*
惣菜とつまみしか買ってこなかったから、調理するものは何もない。買い物に出る前にあらかじめ炊飯器のタイマー機能をセットしておいたので、白米が炊き上がるのを待ってから俺と望月くんの何とも大雑把な夕食が始まった。
いつもはパックから直接箸で食べている惣菜を、今夜はそれぞれ皿に移してから食卓に出してみた。たったこれだけのことなのに、何故かいつもより手の込んだ料理のように見えてしまう。我ながら安上がりなものだ。
「酒あんまり強くないって言ってたけど、無理しなくていいからね。麦茶とかも冷蔵庫にあるから、好きに飲んで」
「はい、ありがとうございます。一杯くらいなら大丈夫ですよ」
「それじゃこれ、望月くんの分ね。乾杯しようか」
何に乾杯するのか分からないが、まあ乾杯とはそういうものだ。ビールで満たされたグラスを掲げて打ち合わせると、カチンと小気味いい音が鳴り響く。こういうのは久しぶりだな。
「いただきます」
まだ少し緊張した面持ちで、望月くんはゆっくりとグラスに口をつけた。缶から直接飲んでもよかったのだが、何となく望月くんにはきちんとグラスに注いで飲ませたくなる。
暑くて喉が渇いていたのか、思っていたよりも望月くんはいい飲みっぷりだった。無理してるのかもしれないと思い止めようとした時、その白く細い喉がビールを飲み下す度にこくこくと小さく上下するのを見て声が引っ込んでしまう。
「……」
「? 洋二さん、飲まないんですか」
「えっ? あ、ああ。うん」
はっと我に返り、あわてて自分のビールを流し込む。
いかんいかん、暑さで頭がやられてしまったんだろうか。
「なんか、いきなり押しかけてごはんまでご馳走になっちゃって……すみません。今更ですけど」
「言ったろ、いつも一人メシだから望月くんが一緒に食べてくれると嬉しいんだって。気にしないでどんどん食べて」
さっきスーパーで最初に手に取ったあのコロッケをすすめると、望月くんは素直にそれを口に運んだ。ひと口目で彼の表情が明らかに変わる。前髪に隠れた目が瞬き、その瞳はほんの少しだけ輝きを増したように見えた。
「ん、美味しい。黒胡椒がきいてますね」
「だろ? ちょっと大人の味なんだよな、これ」
「確かにこれは、ビールと合います」
「ほどほどにな。気持ちは分かるけど」
痩せていて体力のなさそうな身体つきをしてるから食も細いのかと思っていたのだが、望月くんは思いのほかしっかりとよく食べる。拓海もどちらかと言えばシュッとしてるのによく食べる方だったな。あいつが美味そうにメシ食べてるのを見るのが俺は好きだった。若い子がたくさん食べるのを見ていると何だかこっちまで満たされた気持ちになってくるのは、やはり歳のせいなんだろうか。
「あ、あの……洋二さんも食べてくださいね。なんかさっきから僕ばっかり食べてるんで」
じっと見過ぎていたらしい、望月くんは居心地悪そうにコロッケの皿を俺の方に寄せた。
「大丈夫、ちゃんと食べてるよ」
まずいなあ、これは。
誰かと一緒のメシがこんなに楽しいだなんて知ってしまったら、もう一人ではメシも食えないオッサンになってしまいそうだ。
*
きっと、酒に強くないというのは嘘だったのだろう。謙遜してるつもりなのか他の意図があるのかは分からないが、望月くんは俺のペースに合わせるように飲んでも潰れそうになる気配など感じさせず、口調や態度にも特に変化は見られない。
いや、まるっきり嘘ってわけでもなさそうだけど。
「望月くん、大丈夫か? 顔赤くなってるし、無理しないで……」
「そうですか? あはは、やだなあ。飲むとすぐ赤くなるから恥ずかしいんですよね」
さっきから望月くんはよく笑う。いつもの遠慮がちな笑い方とは少し違っていて、喉の奥でくつくつと笑いを堪えているような独特の笑い方だ。その笑い声と仕草は何故か、やけに艶めかしい。そう感じるのは俺も少し酔いが回っているせいなんだろう。
(……ま、いいか)
笑わないで黙々とメシ食ってるよりは、楽しそうに笑って飲んでくれる方がいいよな。実際、今の望月くんはいつもよりいくらか饒舌で楽しそうに話をしてくれる。この前うちの店で借りた映画の感想に始まり、最近気になっている海外の俳優のこと、若い頃に観たがタイトルを思い出せない映画のこと、ずっと好きだった映画が最近リメイクされることが決まり楽しみな反面不安にも思っていること……とにかく望月くんは、映画についての話題が豊富だ。ただ最近公開された新しい作品についてはあまり詳しくないようで、好むジャンルにも少々偏りがあるのは本人も自覚しているらしい。この前店に来た時あまり映画に詳しくないだなんて嘘をついたのは、きっとそれが理由だったのだろう。
「やっぱり望月くん、かなり映画好きなんじゃないか」
「僕なんてまだニワカですよ」
俺から見れば胸を張って『趣味は映画鑑賞です』って言っていい域だと思うんだけどな。俺も人並み以上に映画や舞台は観てきたつもりだけど、それでも望月くんの知識量には舌を巻くほどだった。
劇団の仲間たち以外の人とこういう話をすることは今までほとんどなかったから、何だかすごく新鮮だ。舞台の作り手としてではなく一観客としての立場で映画談議に花を咲かせることで新しい観点を発見できたのかもしれない、長い間ずっと行き詰まっていた思考回路の靄が少し晴れたような気がする。
もしかしたら今なら、今まで思いつかなかったような何かが書けるかもしれない。今夜は少しだけ書いてみるかな。
「なんか洋二さん、嬉しそうですね」
「え、そうかな?」
「ニヤニヤしてます。思い出し笑いですか?」
全く気付かなかった。
「いや、なんかいいネタが浮かんできそうで」
「ネタって?」
「俺さ、学生の頃から趣味で小さい劇団の脚本を書いてるんだ。ここんとこずっとネタ切れっていうか、スランプみたいな状態だったんだけど、今日望月くんと話してたらちょっと浮上してきた感じがしてね」
途端に望月くんの目が生き生きと輝きだした。
「へえ、劇団ですか。脚本って、全部洋二さんが一人で考えてるんですか?」
「まさか。みんなと話し合っていろいろアイディア出し合って、それを俺がまとめてるってだけだよ」
「うわあ、なんかすごく楽しそうですね」
てっきり軽く流されて終わると思っていたのだが、意外にも望月くんは俺の劇団について興味を示してくれた。それがたとえ社交辞令であったとしても、酒に酔っている今の俺にはもうどうでもよかった。自分より若い子が自分の話に食いついてきてくれる、ただその事実にすっかり気をよくしてしまった俺は、聞かれてもいないのに劇団の話を望月くんに語り始めてしまった。
*
「洋二さんと話してると、あんまり年の差を感じないですね」
酒が進むと話が長くなる。それでも俺の話を笑顔で聞いてくれていた望月くんは、俺のグラスにビールを注ぎながら不意にぽつりと呟いた。
「褒めてんの?」
「もちろん。感性がそれほど離れてないっていうか……洋二さんが若いのか、僕が老けてるのかは分かりませんけど」
望月くんはビールの缶をことんと置くと、テーブルに頬杖をついておかしそうに微笑んだ。その流れるように自然な仕草と艶っぽい笑い方に、心臓がドクンと大きく脈打つ。まずい、飲みすぎたかな。
咄嗟に視線を逸らし、今しがた望月くんが注いでくれたビールを一口だけ喉に流し込む。
「俺が独り者だからじゃないかな。そのせいでいつまでも子供みたいだって、姉貴によく言われるんだよ」
「ああ……そういうのは、あるかもしれませんね。今まで少年みたいだった奴が結婚して子供ができた途端に急にお父さんみたいになるの、今までよく見てきましたから」
「あはは、分かるよ。俺もそういうの何回も見てきたな」
「洋二さんは、ご結婚しないんですか」
あくまで話の流れで聞いただけで、望月くんに他意はなかったのだろう。分かっていても、今まで姉貴から同じことをもう何百回と聞かれてきた俺はつい反射的に逃げ腰になってしまう。
「あー……うん。俺はそういうの、性に合わないっていうか」
「でも、今までに一人くらいは、この人とならって思える方はいたんじゃないですか」
「結婚を考えるような相手はいなかったよ」
「……そうですか」
酔ってんな、やっぱり。こんなこと、今まで誰にも話したことなんてないのに。
さっきまで饒舌にべらべら喋っていた俺はどこへやら、沈黙を誤魔化すようにつまみの厚揚げに箸を伸ばす。
そう言えば、望月くんの方はどうなんだろうか。
俺と同じで独り身なのは見れば分かるが、そろそろそういう話を考える年頃だろう。向こうで働いていた時、将来を共にすることを考えるような相手がいたとしてもおかしくないはずだ。
いやいや、さすがにそれを聞くのはいかがなものか。馴れ馴れしいって域をとうに超えてるだろ。
でもこうして家に連れ込んで一緒にメシ食ってる時点でもう既に馴れ馴れしいし……今更それを気にしてもなんかもう無意味な気がしてきたな。
「望月くん、結婚は?」
まあ、いいか。答えたくなきゃ答えないだろう。話の流れで聞くだけだ。
「……」
望月くんは黙ったまま、自分のグラスのへりに人差し指を這わせている。やっぱり答えないか。グラスの中でふわふわと立ち昇っては消えていく小さな泡をぼんやりと見ながら、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔した。
もっと知りたいだなんて、どうして俺はそんなことを思うんだろう。
自分でも分からない。誰かに対してこんな気持ちを抱くのは、ずいぶんと久しぶりのことだから。
俺が望月くんに興味を抱いても、それに望月くんが応えてくれるかどうかは全く関係のないことだ。心の中では俺からの不躾な詮索を迷惑に思っていても、きっと彼はそんなことおくびにも出さないだろう。まだ知り合って間もないけど、そういう子なのだということだけは分かる。
「今は独りですよ。バツイチです」
え。
驚いて顔を上げた拍子に、箸の先から厚揚げがぽとりと皿に落ちた。目が合うと、望月くんは目を細めて柔和な笑顔を見せる。
「……へえ、そうなのか。こんな色男を手放すとは、もったいない」
「はは、どうも」
落とした厚揚げをゆっくりと口に運んでいる間、自分が動揺していることに気付く。望月くんは頬杖をついて俺から視線を逸らし、どこか遠くをぼんやりと見ているような目つきをしている。前髪に隠れてよく見えないが、その瞳はさっきまでと違って虚ろに見えた。
「二年前に結婚したんですけど、半年くらいで、その……勃たなくなっちゃって」
こっちを見ないまま、望月くんは静かに語り始めた。
おそらく相当酔っているのだろう、今の彼の表情を見ればそれは明らかだ。どうやら誰かに話を聞いてもらいたいわけではなく、ただ胸の内を吐き出したいだけなんだと思う。きっと翌朝にはここで話したことなんてきれいさっぱり忘れているだろうし、今は好きに喋らせてもいいか。俺は黙って望月くんの話を聞くことにした。
「あんまり大したことだと思ってなくて、会社の上司と二人で飲む機会があった時に軽い気持ちで相談してみたんですよ。そうしたら上司が、前から僕のことが好きだったって言い出したんです」
「何だそりゃ。望月くんが既婚者だって知ってて言い寄ってきたのか、どうしようもない女だな」
「上司は男性ですよ」
「……え。そ、そうなんだ」
前髪の奥で、望月くんは目を細めてふふっと笑った。狼狽える俺がよっぽど滑稽だったらしい。
「最初は冗談言ってるのかと思ったんですけど、そうじゃなかったみたいで。流れというか、ほとんどノリと酔った勢いみたいな感じで、そのまま二人でホテルに行って……後はそのまま、会ってヤるだけの関係をズルズル続けるようになりました」
「……」
これ、本当に聞いていい話なんだろうか。すっかりぬるくなったビールを流し込んでもほとんど味がしない。どこかキリのいいところで望月くんに話すのをやめさせた方がいいかもしれない。
「女の勘ってやつなんですかね。ひと月も経たないうちに妻から浮気してるんだろうって問い詰められて、隠してもどうせバレると思って全部話しました。取り乱すかと思ってたんですけど、彼女は最後まで落ち着いて僕の話を聞いてくれたんです。少しだけ話し合った結果、別れることになりましたけど」
「少しだけって……そんな簡単にまとまる話でもないだろ。俺も知り合いで離婚してる奴何人か見てきたけど、別れる時は本当に大変だったってみんな言ってたよ」
「彼女からは、離婚の本当の理由は絶対誰にも話さない、慰謝料もいらない、その代わり、もう二度と私の人生に関わるなと、そう言われました。最初から出会わなかったことになってくれと」
「ふーん……」
「自分のしたことを考えれば彼女の言い分は真っ当だし、むしろ僕は感謝すべきだと思っています。金銭も社会での立場を失うことも要求されなかったんだから。でもあの時は正直、きつかったですね。誰かにあそこまで自分の存在を拒絶されたのは初めてだったから」
望月くんは頬杖をついたまま、うつむいて自嘲気味に微笑んだ。
望月くんの見た目からでは想像もできない話を打ち明けられて驚きはしたが、俺はそれよりも違和感を感じていた。
さっきから彼はやけに淡々と話している。自分のことなのに、まるで人から聞かされた話をそのまま読み上げているみたいだ。だから本当の話なのか、すぐには信じることができなかった。そのくらい望月くんの口調は落ち着いている。
「なんか、ずいぶんと他人事みたいに話すんだな。さっきから聞いてると」
「そうですか」
思ったことをそのままぶつけてみても、望月くんは相変わらず動じない。俺を見ようともせず、片手で自分のグラスを持って退屈そうに中のビールを揺らしている。
「その上司とのことがなかったとしても、望月くんと奥さんは遅かれ早かれ別れてたんじゃないか」
「どうしてですか?」
「いや、上手く言えないけど……そんな感じがしたから」
「……」
しまった。失言だ、完全に。
「ごめん。今のは……」
「洋二さんって、変わってますよね」
「え?」
その時ようやく、望月くんは俺を見た。だけどその目は、今まで俺を見ていたどんな望月くんとも違っている。
虚ろで昏い、生気のない目。
「こんなよく知りもしない男の身の上話なんて、適当に聞き流してればいいのに。そこまでちゃんと聞いてもらえると思ってなかったから、ちょっと」
「ちょっと、何だよ?」
「ふふ、いいえ。何でもありません」
まつ毛を伏せて、望月くんはまた目を逸らしてしまう。
酒に酔って、いつもは胸の内に隠していることを人に話してしまうというのは分かる。程度の差こそあれ、俺にも似たような経験はあるからだ。
しかし、望月くんの話は明らかに俺が聞いていい内容のものではない。少なくとも、まだ知り合って数日、話した回数も片手で足りるような薄い知り合い程度の中年男に打ち明けていい話ではなかった。
(……マズいな、どうしたもんか)
明日の朝になったら、今夜話したことを望月くんはきれいさっぱり忘れてくれるだろうか。そうなってくれたらいちばんいいのだが、そうそう上手くいくのかも分からない。
何も聞かなかったことに、いや、そもそも最初から望月くんがここに来ていなかったことにはできないだろうか。事実を消すことはできなくても、せめて望月くんの記憶から今夜あったことがなくなってくれたらそれでいいのだが。
「あ、そうだ。金魚」
「へ……」
「金魚、見せてもらえませんか。洋二さんの飼ってる金魚」
そう言えばそんなこと言ってたか。
とにかく今は、望月くんの過去から話を逸らせるのなら何でもよかった。
「ああ、だな。二階にあるんだ、今から見る?」
「はい」
俺と一緒に立ち上がった望月くんの腰のポケットから、さっきの金魚の根付が現れる。紐の先でちらちらと揺れるその様は、まるで本当に木彫りの金魚が望月くんの腰の周りを泳いでいるようだった。
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