叔父さんの話(仮)

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07. 追星  狭い階段を上った先に置いてある水槽の水は、上部に取り付けた蛍光灯の明かりを受けてぼんやりと青白く光っている。この明かりがあるから、この階段も二階の廊下も普段は照明をつけずに過ごしている。  しかし、俺は慣れているからいいとしても望月くんには足元がよく見えず少々危険かもしれない。滅多に切り替えない階段の照明のスイッチをパチンと押してみたが、明かりはつかなかった。 「あ、あれ?」  何度かパチパチと切り替えてみてもやっぱり反応しない。しまった、普段使わないからとっくに電球が切れていたのに全く気が付かなかったのか。 「ごめん、電球切れてるみたいだ。暗いけどいいかな」 「大丈夫ですよ」 「足元よく見えないから、ゆっくり上ってきてね」 「はい」  望月くんの先に立って階段の上に向き直り、ぼんやりと光る水槽を見ると、ほんの少し酔いが覚めたような気がした。  ああ、失敗だ。さっきの話を聞かされた後にこんな真っ暗な中、男二人で金魚眺めるなんて、果たして俺のメンタルがもつだろうか。いや、金魚を見せること自体には別にこれと言って問題があるわけじゃないんだけど……この中途半端な暗さが妙な空気をいっそう濃くしてしまうような気がして、どうにも気が乗らない。  舞台の演出においても暗さが人の心に及ぼす影響というものはなかなかでかく、時間や場所などの状況説明だけではなく人物の心情描写にも照明は重要な手段として使われる。日常生活でもそれは同じだ。  階段を一段ずつ踏みしめる度に、ぎし、ぎしと古い木の軋む音が鳴る。いつもは全く気にならないその音が、今日はやけに大きく聴こえるように思えた。  ようやく階段を上りきると、水槽の前を空けてそこに立つよう望月くんに促す。俺の後ろから壁に手をついてゆっくりと上ってきていた望月くんは、急に開けた視界の中に現れた水槽を見て目を丸くした。 「わあ……」  確かに手塩にかけて大事に世話してはいるが、どこにでもいる何の変哲もないごく普通の金魚であることに変わりはない。それなのに、こんなに目を輝かせてくれる望月くんはやはり少し変わっていると思う。拓海にこいつを初めて見せた時、あいつは特に興味を示さず『叔父さんが生き物飼ってるなんてすごく意外』などとのたまっていたというのに。  やっぱり爺さんの影響で、彼もアクアリウムとか熱帯魚なんかの観賞に少なからず興味があるんだろう。 「綺麗ですね」 「そうか? はは、よかったなあ。美人だってさ」  少し腰をかがめ、金魚に向かってそう言ってみた。望月くんの褒め言葉がちゃんと伝わったのか、金魚は心なしか得意げに尻尾を揺らしながらすました顔で泳いでいる。 「この子、オスですよね。美人ですけど」 「よく分かるな」 「洋二さん、知ってたんですか?」 「爺さんに教えてもらったんだよ。オスかメスか見分けるポイントはいくつかあるみたいだけど、いちばん分かりやすいのは繁殖期の……なんだっけ、白い斑点」 「追い星ですね」 「そうそう、それ。追い星が出たらオスだって聞いて、大人になってからは注意して見てたんだ。見つけた時はなんか親近感湧いたけど、飼い主がこんなオッサンで申し訳ないなって思ったよ」  望月くんはおかしそうに笑いながら水槽の前でしゃがみ込んだ。俺もそれにならうように隣で両膝をつく。  さっきより近い距離で水槽の中をじっと見つめる望月くんは不意に、あ、と声を上げた。 「もしかして、エアーポンプの調子悪いんじゃないですか?」 「ああ、分かるか? そうなんだよ、先月くらいから何だか少し音が大きくなったような気がして」 「あー……結構長く使ってますね、これ」 「見ただけで分かるのか、すごいな」  驚いて横を向くと、思ったよりも近い距離で望月くんと目が合ってしまう。逸らすのも何だか不自然な気がしたので努めて何でもない顔をしてみせたが、内心では生きた心地がしなかった。動悸が激しい。 「また今度うちの店に来てください。これの後継機種がありますから、お安くしますよ」 「そんなことしていいのか? あの店、一応爺さんのものだろ」 「洋二さんがお求めの品なら爺ちゃんも喜んで値下げしてくれますって」 「いいのかなあ」  もう目を逸らしてもおかしくはないよな。そっと顔を水槽の方に向けると、動揺している俺をあざ笑うように金魚がひらひらと尻尾を揺らして目の前を通り過ぎていく。  それっきり、何となく会話が途切れてしまった。 「……」  俺が恐れていたのは、まさに今のこの空気だ。  暗くて視界がはっきりしない、金魚以外に見るものがない、エアーポンプの微かな振動音の他には何も聞こえない。そして、特に話すことが見当たらない。  金魚についての話題はもう既に話し終えてしまった。他に俺と望月くんとの間で共通の話題といえば、町内会のことか、爺さんのことか、この前薦めた映画の話か、さっき聞いた望月くんの過去の話くらいだ。  最後の話題にはできれば触れたくない。だとしたら他の話を振るしかないのだが、そのどれを選んだとしても白々しく不自然に感じるような気がする。 「すみませんでした」  唐突に、望月くんがぽつりと呟いた。 「え? 何が」  何故か少し掠れている声で聞き返す。ちらりと視線だけを隣に向けても、望月くんは水の中を泳ぐ金魚をぼんやりと眺めている。こっちを見ようとしない。 「なんか、変なこと話して。せっかく楽しく飲んでたのに、変な雰囲気にしちゃいましたよね」 「いや……別に、そんなことは」 「お酒飲むといろいろ喋っちゃうんです。あんなこと話すつもりなかったのに、恥ずかしい」  すぐ隣で話す望月くんの声は小さく、彼の発する言葉ひとつひとつがまるで耳をくすぐっているようでそわそわと落ち着かない。酔っているせいか、普段は気にならないものに対して必要以上に過敏になっているのかもしれない。 「まあ、誰にでもそういうのはあるよ。あんまり気にしない方がいい、どうせ俺も明日の朝には記憶があやふやになってるだろうから」 「……それはそれで、少し寂しいですね」 「え?」  よく聞き取れなかった。聞き返そうとした瞬間、望月くんの上半身がふらりと水槽に吸い込まれるように大きく傾き、状況を把握するより先に咄嗟に両手を伸ばしていた。顔面からぶつかる直前で何とか彼の肩を押さえることに成功し、激突するのは免れたようだ。 「大丈夫か?」  水槽台に手をつき、望月くんは深いため息をついた。 「はい。……すみません、ちょっと飲み過ぎたみたいで」  水槽の明かりにぼんやりと照らされた彼の横顔は、さっき一階で話していた時よりも幾分赤みが増しているように見える。目も虚ろで、瞼が少し下がってきている。酔いが回ってきたのだろうか。 「下のソファで少し横になってなよ。もし気分悪いのが治まらないようだったら、今日は泊まってもいいから」 「え……いえ、そんな。平気です、そこまで酔ってるわけじゃ」  無理に立ち上がろうとした望月くんは、予想どおりふらふらとよろめいてまた座り込んでしまう。 「ああほら、とにかく今は水飲んで少し横になってろって」  うつむいたせいで、望月くんの目は前髪に隠されてしまった。ほのかに赤く染まった頬の色が一瞬、水槽の中で泳ぐ金魚の体の色と重なって見えた。 「……はい」  *  階下のリビングに戻って水を飲むと、望月くんは素直にソファで横になった。この位置だとちょうどエアコンからの冷風が顔に当たる、しばらくこのまま休ませておけばいいだろう。 「何か上に掛けるもの持ってこようか」 「だ、大丈夫です。本当に」 「冷えるとよくないから、少し冷房の温度上げるか」 「……すみません」  リモコンで冷房を少しだけ弱めに設定し、テーブルの上に出しっぱなしだった食器やパックを適当に片付け始める。 「あのっ、僕がやりますから。そのまま置いといてください」 「いいから、大人しく寝てな。俺の家なんだから俺が片付けるのは当たり前だろ」 「でも、こんな……お邪魔して飲み食いしておいて、片付けもしないで寝てるわけには」 「悪いと思うなら今はちゃんと寝てなさい。で、今度は俺を望月くんのお家でもてなしてくれればそれでいいよ」  また身体を起こそうとしていた望月くんの肩を軽く押してソファに横たわらせる。望月くんはまだ赤い顔のまま、見てるこっちが可哀想になるくらい申し訳なさそうな目で俺を見上げた。 「……本当に、ごめんなさい」  望月くんの遠慮深い性格を考えたら気持ちは分からなくもないが、このくらいでそこまで謝らなくてもいいのにな。劇団の仲間たち数人と宅飲みして雑魚寝したまま朝を迎えたことなんて今まで何度もあるし、望月くんだって会社勤めをしていた頃はそういう経験のひとつやふたつなかったんだろうか。もっとも、会社にはそれぞれの風土というものがあるから一概には言えないだろうけど。 「とにかく、ゆっくりしてな。俺は台所にいるから、なんかあったら呼んで」  望月くんが小さく頷いたのを確認してから、リビングの照明を常夜灯に切り替えて台所に向かった。  食器の泡を水で流しながら、一人黙考する。  あの様子だとどうやら少し休めば歩いて帰れるって状態じゃなさそうだし、今夜はここに泊まって一晩ゆっくり寝てもらう方がいいだろう。望月くんはきっと遠慮するだろうけど、あのまま深夜に外へ追い出すのはどう考えてもあまりに非道だ。  着替えとか布団とか、用意しておかないと。とりあえず今はまだ寝てるから、その間に俺は風呂に入っておいて、望月くんが目を覚ましたらすぐ入れるようにしておくか。  普段から客が訪ねてくることを想定していない、まして宿泊することなんて考えたこともないような生活を送っているから、こういうアクシデントが突然起こるとスムーズに対処することができない。拓海がいた頃は突然の来客応対も全部やってもらってたから、今もあいつがいてくれたらこんなにあわてなくて済んだのかもしれないな。 (……こんなこと言ったら絶対、拓海と姉貴からダブルで説教食らうよな。そのくらい普段からちゃんと準備しておけって)  考えただけで恐ろしい。今夜のことは絶対に誰にも口外しないでおこう。  * 「ふー……」  汗と汚れを洗い流し、いくらか頭がスッキリした。風呂は命の洗濯とはよく言ったものだ。  俺が部屋着としているTシャツとスウェットパンツはどれも洗濯を繰り返してヨレヨレだが他に適当な服はないし、望月くんには悪いけど今夜はこれで我慢してもらおう。  着替えとタオルを持って薄暗いリビングをそっと覗くと、望月くんはさっき見た仰向けの姿勢のままソファの上で眠っていた。起こすのは可哀想だな。  そろそろと忍び足で台所に向かい、飲み物を取り出そうと冷蔵庫を開けた時、上のドアポケットから何の前触れもなくいきなり生しょうがのチューブが落ちてきてガタンと音を立てた。 「うわっ」  しまった、望月くんを起こしてしまう。あわてて冷蔵庫を閉めて振り返る。リビングのソファ周辺に変化はない。  来た時と同じようにそろそろとリビングへ戻り、ソファの上で寝ている望月くんに歩み寄る。常夜灯の中では近づかないとよく見えなかったが、ソファの前まで来てようやく望月くんの瞼が半分開いていることに気付いた。 「あ……ごめん、起こしちゃったか」 「……」  それまでぼうっと天井を見ていた望月くんは、ゆっくりと俺の顔に視線を向けた。 「あれ、僕ずっと寝て……」 「まだそんなに経ってないよ。まだ気分悪いかな?」 「ん……いえ。もう、だいぶ良くなりました」 「そっか。もし起きても平気そうなら、軽くひとっ風呂浴びておいで。これ、着替えとタオルね」 「……」  あれ、無反応。てっきりあわてながら全力で遠慮するだろうと思っていたから、どうしたらいいのか分からず言葉が出てこない。  何も言わず、ただじっと俺を見上げる望月くんの目に射抜かれたように、俺は身動きがとれなかった。 「……さ、ん」 「え?」  望月くんは、誰かの名前を呼んだ。ひどく小さな声だったから聞き取れなかったが、それが俺の名前でないことだけは俺にもはっきりと分かった。 「……」  薄暗い部屋の中、明かりは常夜灯のぼんやりとした橙色の弱い光だけ。エアコンから冷たい風が吹き出る微かな音ですら部屋中に響いて聴こえるほど、家の中はしんとしている。  張りつめたような静寂の中で、望月くんの黒い瞳がじっと俺を見つめていた。その目がいつもより熱を帯びているように見えるのは、まだアルコールが抜けていないから、それだけなのだろうか。 「……すみません」  何故か望月くんは謝って、顔だけをそっと横に向けた。何に対しての謝罪なのか、どうやら俺にそれを知る術はないのだということだけは分かる。そして望月くんも、それを話すつもりはないのだろうということも。 「風呂、入ってきなよ。さっぱりするから、ね」  これ以上このままでいるのは堪えられそうにない、俺は無理やり笑って話をそこで打ち切ろうと試みた。 「……洋二さんは、優しいですね」  横を向いてぼんやりしたまま、望月くんはうわごとのようにぽつりと呟いた。長い前髪がはらりと滑り下りて、望月くんの片目が不意に露わになる。その目はやっぱり俺を見ていなかった。 「このくらい普通だと思うけど」 「そうかもしれませんね。普通の人にとっては当たり前のことなのに、僕があまりに世間知らずだからいちいち大げさに受け止めてるだけなのかも」 「何言って……」  ふと、望月くんは俺を見上げた。顔は横に向けたまま、露わになった目だけをこっちに向けて。 「さっき話した上司も、そうだったんです。仕事で分からないことがあると俺が理解するまで根気強く教えてくれて、しょうもない相談も真面目な顔して聞いてくれて……今思えばそんなの、当たり前のことだった。彼はきっと誰に対してもそうだったんだろうけど、あの時の僕には周りなんて全く見えてなかった」 「……」 「好きだって、言われた時も……きっと誰にでも同じようなことを言ってたんだろうけど、そう言われた時の僕はあっさり信じちゃって。自分だけが特別なんだって、信じて疑わなかった。だから僕は、その言葉を受け入れたんです。流されたわけなんかじゃない、自分の意思で……彼に」 「望月くん」  望月くんの目尻が、常夜灯の光を映して揺れている。俺はそれを見ないようにしながらその場にしゃがみ込み、そっと望月くんの額に手を置いた。 「っ……」  望月くんはビクッと肩を震わせたが、俺の手を振り払おうとはしなかった。前髪をゆっくりと指でかき上げ、その潤いを湛えたふたつの黒い目が俺を真っ直ぐに見ていることを確認してほっとため息をつく。 「鬱陶しいと思うだろうけど、よく聞いてね。望月くんは、お酒を飲んだらあまり誰かと喋らない方がいい。その元上司とか俺みたいな年上のオッサンが相手の時には、特に気を付けなさい。どんなに信頼できると思ってても、そういう男とこんなふうに二人っきりで飲むのは危険なことだからね」 「……」 「男だからとか、もう若くないからとか、そんなのは全く関係ないんだよ。望月くんは分かってないみたいだけど、望月くんの目は無防備すぎてすごく危険だ。そんな目で見られたら、大抵の人はそんなつもりなかったとしても心の中で悪いことを考えてしまう。弱みにつけこんで、望月くんが困るようなことを強要させようと思う奴だっているかもしれない。だから、それほど親しいわけでもない人に、自分のことを必要以上に喋っちゃいけないよ。でないと最後に傷つくのは望月くんの方なんだから」  なるべくゆっくりと、小さな子供に聞かせるように諭した。  彼はきっと明日の朝には覚えてないだろう。それでいいし、仕方ないとは思う。それでもこのまま放っておくことはできなかった。  望月くんは、悪い意味であまりに純粋すぎるのだ。隠し事をせず全てを詳らかに打ち明けることが正しいことだと思っている。人を疑わず、人から親切にされたらその裏に何か別の思惑や目的が隠れているなどとは考えない。  そういう考え方を否定する気はないが、それを前提にしてこの世の中を生きていくのはあまりに非現実的だ。嘘をついたり人を疑うことは決して悪いことではなく、自分を守るためにはむしろ必要不可欠なことだと、今までそれを学ぶ機会にたまたま恵まれずに今日まで来てしまった、ただそれだけのことなのだろう。 「……僕の目が、悪いんです」  望月くんの目尻から小さな雫が零れ落ちた。それが滑り落ちた跡が乾かないうちに、もうひとつ、またひとつ、と雫が落ちていく。  茫然としたままそれを見ている俺の前で、望月くんはそっと目を閉じた。 「妻と別れる前、どうしてあなたが、そんな傷ついたような顔するのって、そう言われたんです。僕はそんな顔してるつもりはなかったんですが、彼女にはそう見えてたんでしょう」  ソファの座面にぱたりと雫が落ちる。望月くんの唇は小さく震えていた。 「まるで私があなたのこと虐めてるみたいじゃない、そういう目をするのやめてって……でも、僕には自分がどんな顔を、どんな目をしてるかなんて、分からない。分からないのに、それを責められるのが怖くなって、こうやって目を隠すようになったんです」 「……」 「彼女はとても淡白な性格でした。どんなに好きだった人でも、相手の気持ちが自分以外の誰かにしか向いていないと分かると、それまで夢中になっていたのが嘘みたいに気持ちが冷めるって。だからもう、あなたには何の感情もないって……言われて」 「望月くん、もう……」 「ごめんなさい。なんか、頭の中ぐちゃぐちゃで……こんなこと、今までずっと誰にも話したことなかったから」  望月くんは両目を手で覆うと、小さく鼻をすすった。  誰かからのアドバイスや慰めの言葉を求めているわけではなく、ただ胸の内を吐き出したい、誰かにただ聞いてもらいたい、そういう気持ちはよく分かる。望月くんが今こうやって話していることも全てはそんな気持ちから出たものだろう。  だけど、それを受け止められる相手というのは誰でもいいわけではない。見ず知らずの他人が聞いていい話の内容には限度というものがあり、その範疇を超えるような極めて個人的な問題は軽々しく他人に打ち明けるものではない。今日の望月くんが俺に語ったことは、明らかにその範疇を超えている。  明日になれば全部きれいに忘れてる。  今夜あったことは全てなかったことにできる。  本当にそうなったらどんなにいいか。  きっともう、聞かなかったことにはできないのだろう。俺はそう確信していた。  たとえ望月くんが明日の朝には全部忘れていたとしても、俺はきっと忘れることはできない。そんな気がする。  受け止めきれない、自分には手に余る、そう分かっているならこれ以上聞かなければいい。これ以上聞いてはいけない。  頭では分かっていても、目の前で子供のように泣きじゃくる望月くんを見ていると、このまま突き放すという選択肢は始めからそこに存在していなかったのではないだろうかと思えてくる。俺はもう、彼の話を最後まで聞くほかにどうすることもできないのではないか。 「望月くん。今は、考え事しちゃダメだ」 「え……」  目を覆っていた手を下ろして、望月くんはまた俺を見上げた。少し赤くなった目の周りは濡れている。 「前にも言ったかな。疲れたら休む、それでいいんだよ。今の望月くんに必要なのはとにかく休むことだ。頭も心も疲れ切ってる時にいろいろ考えたって、どんどん悪い方に転がっていくしかない。そんなことしたらますます疲れるだけで、何もいいことなんかないだろ」 「……」 「考えちゃダメだ。今までのこと全部忘れるのは無理でも、なるべく思い出さないように、少しでも他の楽しいことに目を向ける努力をしなさい。映画でもアクアリウムでもいいし、好きな揚げ物のことでもいい。何だっていいんだよ、望月くんの楽しめるものなら」  俺の声はちゃんと聞こえているのだろうか。そう不安に思うほど望月くんの表情には変化がない。ただ、泣き腫らした目でじっと俺を見上げている。  不意に望月くんの両腕がこっちに伸びてきて、俺の首に回された。全く想定していなかった彼の行動に面食らい、俺は抵抗する間も与えられないまま望月くんの顔に吸い寄せられるように上体を引っ張られてしまう。 「わっ……も、ちづき」 「……そういうところ、似てるんです」 「え?」  鼻と鼻がくっつきそうなほど近い距離で目が合った。  熱を帯びたアルコールの匂いと、湿った吐息の感触。  いつもは前髪に隠れてよく見えない望月くんの黒い瞳が、今は間抜け面をした俺を映して水面のように揺れている。  抗えない。頭の奥から急速に感覚が消えていき、全身が痺れたように手も足も自由がきかない。 「似てるって、思ってたんです。初めて会った時から……ずっと」  望月くんが見ているのはきっと、俺ではない。それははっきりと分かった。  少し前にもこんなふうに思うことがあった気がする。その時は望月くんが一体何を思い、誰を見つめているのか、俺には分からなかったけど、今は分かる。 「……」  これで望月くんの気持ちが少しでも晴れるのなら、それでいい。今の俺にできることは、望月くんの記憶の中の誰かとして彼を受け入れてやることだけだ。  そのくらい安いものだ。それで望月くんの傷ついた心がほんの少しでも救われるのなら。 「……ん……」 「……」  本当にこれでよかったのだろうか。  目の前で起こっていることを、頭の中で妙に冷静に見つめている自分がいる。  望月くんは俺の首の後ろに両腕を回し、更に深く唇を重ねようと身体を少しソファから起こした。その肩に手を添えて彼の身体を支えてやっているのは、果たして本当に俺なのだろうか。腕の中に感じるこの熱いくらいの体温も、唇の隙間から時折漏れてくるアルコールの匂いも、五感で感じる全てが曖昧で現実味がない。  本当にこれでよかったのか。良いも悪いも、これはどうせ夢だからそんなことを考える必要もないんじゃないか。どうせ明日の朝になれば全ては消え失せて、何もなかったことになるのだから。 「……さん」  また、望月くんが誰かの名前を呼んだ。  やっぱり上手く聞き取れない。彼の声が小さいからとか、酔いのせいで呂律が回っていないからとか、そんな理由ではなく、きっと俺自身がそれを聞くことを拒んでいるのだろう。そのことを自覚した途端、それまでずっと甘く痺れていた頭の奥がわずかにすっと冷めるような思いがして、俺は望月くんから顔を離した。  望月くんは閉じていた瞼を上げて、少し戸惑ったような目で俺を見ている。その瞳の中にいる自分自身の顔を直視できず、咄嗟に目を逸らしてしまった。 「……こういうことになるから、誰かとサシで飲むのはもう今後控えなさい」 「こういうことって?」  するりと望月くんの片手が下りてきて、彼の肩を支えていた俺の手にそっと重なってきた。指の間に細い指先をゆっくりと這わせてくる感覚に、背筋がぞくりと震える。 「男同士だから、嫌ですか」 「そ、そうじゃない。男同士とか関係なく、こんなすぐに」 「ふふ。洋二さん、こんな時まで考えが昭和ですね」  ちらりと望月くんの顔を見ると、彼は今まで見たこともないような妖艶な笑みを浮かべている。半分閉じた虚ろな目にはもう、何も映っていない。 「不思議だと思いませんか。男とセックスできるからって、相手が男なら誰だっていいわけがない。男女の場合だってそんなの当たり前のことなのに、どうして、誰でもいいんだろ、みたいに思われるのかって」  望月くんは妙に滑らかな口調で言った。 「……そう言われたのか? 誰かに」 「いいえ。けど、何となく……そう思われてたような気がして」  そこで彼はわずかにまつ毛を伏せて、喉の奥で小さく笑った。 「僕は、誰でもよかったわけなんかじゃない。本当に好きな人とじゃなきゃ、あんなことできない。なのに……」 「……? おい、望月くん」  ふらりと細い肩が傾き、咄嗟に腕で抱き止めた。そのままぐったりと体重を預けて動かなくなり、やがて小さな寝息が聞こえてくると、無意識のうちに深いため息をついてしまった。 (……助かった)  何に対してそう思ったのかは自分でもよく分からないが、ようやく安堵して望月くんをソファに仰向けに寝かせてやる。静かに眠っている望月くんの目尻からひとつ、涙が筋を作って流れていくのを見つけて、指先でそっと拭った。  *  酒を飲んだにも関わらず、その夜はなかなか寝つけなかった。二階の自室で布団に入ってから何度も寝返りを打ち、ようやく眠りについたのは夜が明ける少し前の頃だったと思う。  窓の向こうで東の空が白々と明け始める頃、階下で玄関のドアを閉める音がして目を覚まし、あわてて階段を下りてみるとリビングには誰もいなかった。玄関に並んでいたはずの望月くんのくたびれたサンダルもない。ただ客用のスリッパだけがぽつんと置いてあり、夜の匂いがゆっくりと消えていくのが分かる。昨夜のことなど、まるで何もかもが夢だったかのように。  望月くんの爺さんが亡くなったと知らせの電話があったのは、その日の夕方のことだった。
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