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04. Boyfriend
(1/3)
勝手に早足で歩いちゃうのを止められない。授業が終わって教室を出た瞬間からずっとこの調子だ。
授業の合い間の休み時間に何気なくスマホいじってた時、この時間には珍しいおにーさんからのラインがきたことが原因だった。
『ちゃんと授業聞いてる? 俺今日は残業で遅くなるから、駅で待ち合わせして一緒に帰ろうよ』
おにーさんと藤澤の駅で待ち合わせして一緒に帰るのって、なんかすごく久しぶりかも。一緒に暮らすようになってからはこれが初めてかな?
同棲してると毎日一緒にいられるけど、逆にこうやって外で待ち合わせして会うことがほとんどない。贅沢な悩みだなって分かってても、やっぱりこういうのって新鮮でなんだかわくわくする。なんか今のオレとおにーさんって、すごい同棲してるって感じだな。普段はあんまり実感ないのに、時々こんなふうにしみじみおにーさんと毎日一緒の生活を噛みしめてみたりして。
浮かれてんなあ、オレ。
夜の藤澤駅はいつもそんなに人がいない。だからおにーさんがいたらすぐに見つかるはずなんだけど、おにーさんはまだ来てないみたいだ。もしかして、まだ会社にいるのかな。
スマホを引っ張り出しておにーさんにラインしようとした時、交差点の向こうから見慣れた背の高い人がこっちに向かって歩いてくるのを見つけた。
「おにーさ……」
呼びかけて、すぐにその声を引っ込める。おにーさんは一人じゃなかったからだ。
咄嗟にすぐ近くにあった柱の陰に隠れて、見つからないようこっそりと二人の様子を窺う。
おにーさんの隣を歩いてるのは、若い女の子だった。見た感じだと年はオレとほとんど同じか少し上くらい、髪型とか服からして大学生っぽい。派手な感じではないけど地味ってわけでもない、どちらかと言うと清楚な雰囲気で、顔も普通に可愛くて結構モテそうな子だ。それにあの、サラサラした綺麗な長い黒髪。おにーさんって自覚ないみたいだけど、実はああいう女の子が好みだってことオレはよく知ってる。おにーさんの描くイラストでもそういう女の子がよくいるの、ずっと前から見てきたもん。
(え……って、どういうこと? なんでおにーさん、女の子と歩いてんの?)
目の前の状況が全然飲み込めなくて、頭ん中ぐるぐるしてる。何故か心臓が異常なほどの速さで脈打ってて、息苦しくてすごく嫌な感じがする。
おにーさんとその人は妙に親しげに見えた。何を話してるのかは聞こえないけど、二人とも時々同じタイミングでおかしそうに笑ってる。オレには聞こえない話を二人でしてる。きっと他の人たちから見れば、あの二人はどう見たって付き合ってるようにしか見えないと思う。
やがて二人が駅の改札口の前まで歩いてきた時、周りの人たちの間を縫って二人の話す声が微かに聞こえてきた。今オレが隠れてる柱を隔てて、二人との距離は数メートル程度しかない。オレは柱にぴったり背中をくっつけて、二人に気付かれないよう耳を澄ませた。
「あの、磯辺さんって付き合ってる人とかいるんですか?」
「え? あ、まあ……いるよ、一応」
柱から少しでも離れたらおにーさんに見つかっちゃうから、おにーさんがどんな顔してそう答えたのかは見えない。胸の奥がちくりとして、少しずつズキズキしてくる。すごく嫌な感じ。
「何ですか、今の微妙な間。なんか嘘っぽいなあ」
その人のくすくす笑う声が聞こえてくる。
「いや、本当にいるって」
「本当ですか? 磯辺さんってなんか、嘘つくの下手そう。私の勝手なイメージですけど」
「嘘じゃないよ」
「ふふ、そういうことにしときますね。私は嘘だといいなって思ってますけど」
「どういう意味?」
「さあ? じゃあ私、バスだからここで」
「あ、うん。お疲れ様、気を付けてね」
「はい、今日はありがとうございました。お疲れ様です」
……なに、あの人。
あそこまで露骨なアピールで迫ってくるような女の子が、いつもおにーさんの周りにいるの? オレの全然知らないところで。
おにーさんって、モテるんだ。
確かにおにーさんはカッコいいし背も高くてシュッとしてる。ちょっと愛想がないけどそれは思ってること顔に出にくいだけで、ホントはすごく優しくて頼りになるし、困ってる人のこと放っておけない。そういう男の人って、あのくらいの年の女の子から見たらめちゃくちゃカッコいいよね。
オレ、どうして今までそんなことにも気付かなかったんだろう。オレ以外の誰かがおにーさんをこっそり好きでいても全然おかしくない、それどころか、いつどこであんなふうに言い寄られてたとしても何も不思議じゃないのに。
ポケットに突っ込んだままのスマホが小さく振動して、思わずビクッとした。おにーさんの方を見ると、もうとっくにさっきの人と別れて一人になってたおにーさんは、改札口の横に立ってスマホを見てる。もしかして、オレにラインしてる?
「……」
スマホを確認しようとして、やめる。そっとひとつ深呼吸して、柱から離れておにーさんの方へ歩み寄った。
「おにーさん」
オレが呼びかけるよりわずかに早く、おにーさんはこっちを向いた。目が合った瞬間ぱっと嬉しそうな笑顔になる。
「ああ、お疲れ。ちょうど今絢斗にライン送ったのに、もう来てたんだな」
あまりにもいつもどおり。さっきのことなんて、まるで何もなかったみたいな顔してる。オレだってそうしたかったけど、やっぱりダメだ。何でもないような素振りなんかできないよ。
「絢斗? どうかしたか?」
黙って突っ立ってるオレを少し不思議そうに見ながら、おにーさんはそっとオレの頭を撫でてくれた。その大きな魔法の手が撫でてるオレの髪は、少しくせ毛の明るい茶色。サラサラの黒髪じゃないのに。
「さっきの人、誰?」
「……え」
あまりに突然だったかもしれない。おにーさんはきょとんとした顔をして、オレの頭からゆっくり手を下ろした。
「ああ……なんだ、見てたのか。会社でちょっと前に入ったバイトの子だよ。部署は違うけど俺の担当してる仕事で絡むことがあるから、たまに手伝ってあげてるんだ」
おにーさん、ちょっと困った顔してるの分かる。優しく笑ってるけど、聞き分けのない子供をなだめようとしてるみたいに苦笑いしてる。
「じゃあ今日遅くなったのって、もしかしてあの人の仕事手伝ってあげてたから?」
「それもあるけど、俺の仕事も少し残ってたから。そのついでみたいな感じ」
「よその部署の人なのに仕事手伝ってあげるの? こんな時間まで?」
「今日が初めてだよ、普段はそこまで面倒みてないって。今週はちょっとバタバタしてて」
「だからって……おにーさんの仕事じゃないのに、どうしておにーさんが残業してまで手伝うの? おかしいよ」
「仕方ないだろ、人手が足りないんだよ。それにあの子もまだ入社したばっかりで慣れてないんだから、一人で放ったらかして仕事丸投げしたら可哀想だろ」
オレが質問を投げかける度、次第におにーさんの声色がとげとげしいものになっていく。うんざりしてるのかもしれない。
どうしておにーさん、あの人のことかばうの? オレにはそんなに面倒くさそうな態度とるくせに。
自分でも分かるくらい、今のオレすごく動揺してる。おにーさんがあんなに可愛い女の人に言い寄られてるなんて、今まで考えたこともなかったから。
だっておにーさんはオレに好きだよっていつも言ってくれるから、オレはそれですっかり安心してた。おにーさんはホントにオレのこと好きでいてくれてる、この先何があってもずっとそうだって、何の疑いもなく信じることができた。
でもそれはオレとおにーさんしかいない時間だけの話だったのかもしれない。オレにはオレの時間があるのと同じで、おにーさんにはおにーさんの時間がある。オレの見てないところで、おにーさんはオレの知らない女の人と話してる。そんなの当たり前だけど。
カバンを持つ手をぎゅっと握りしめる。少しだけおにーさんから目を逸らした。
「あの人、絶対おにーさんのこと狙ってるよね」
すごく嫌味っぽい言い方だって、自分でも思った。言った後で胃の奥がむかむかして、胸の底がざわざわして、すごく嫌な感じが押し寄せてくる。
言ったオレでさえこんなに気分が悪いんだから、言われたおにーさんはどれだけ嫌な気持ちになったんだろう。
「そんなわけないだろ。どこ見てそう思ったんだよ」
ちょっとあきれたみたいに言われて、ついカチンとくる。おにーさんの目を真っ直ぐ見られなくて、自分の靴のつま先に視線を落とした。
言いたくない、こんなこと。こんなこと言いたいんじゃないのに、止めらんない。
「だって……付き合ってる人いるんですか、なんて、何とも思ってない人に聞くわけないじゃん。って言うかさっきのって立派なセクハラだよね、信じらんない。おにーさんは付き合ってる人いるって言ってんのにしつこく絡んできて、図々しい」
「やめろって。さっきから何カリカリしてるんだよ?」
「おにーさんもおにーさんだよ、デレデレしちゃってさ。ああいう小動物みたいな女の子、おにーさんの好みだもんね。いつもあんな感じの女の子の絵ばっかり描いてるし」
「はあ? お前なあ、いい加減にしないと本当に怒るぞ」
「……」
もうとっくに怒ってるくせに。ぎゅっと唇を噛むと、自分があまりに惨めで泣きそうになった。
「何か言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「……バカ」
「え?」
「オレはとっくに怒ってんだよ! おにーさんのバーカッ!」
周りにいた人たちが一斉にオレたちの方に振り向く。いたたまれなくて、くるりと背中を向けるとそのまま改札口を駆け抜けていった。最後までおにーさんの顔は見られなかった。
ちょうどタイミングよく発車しようとしていた電車に飛び乗った直後、後ろでドアが閉まる。のろのろと空いてる座席に座った途端、それまでずっと堪えてた涙が一粒ぽろっとこぼれてきた。あわてて手で適当に拭っても、後から後から溢れてきて止まらない。
「……っく」
車両に乗客は数人しかいなくて、泣いてるオレに気付く人は誰もいない。カバンを両腕でぎゅっと抱きしめるように抱え込んで、そこに顔を伏せた。
嫌い。自分が嫌い。
おにーさんを好きになってから今まで、自分の知らなかった嫌な自分がいっぱいいたことに何度も気付かされてきた。数え切れないほどの嫌な自分を見つけてきたけど、今日のオレは今まででいちばん嫌いだ。
誰かを好きになるのなんて、すごく自然なことだ。誰かがおにーさんを好きになったって全然おかしくないし、オレにそれをやめてなんて言える権利もない。
頭ではちゃんと分かってても、やっぱりどうしても嫌だ。だっておにーさんは、オレだけのおにーさんだもん。他の誰にも代わりなんかできないんだもん。おにーさんだってそう言ってくれたのに。
こんなこと考えたくない。こんなこと言っておにーさんのこと困らせたいわけじゃないのに。おにーさんのこと怒らせちゃった。
おにーさんはオレだけのおにーさんだよ。
おにーさんのこと好きにならないでよ。
おにーさんに触んないでよ。
どうしておにーさん、分かってくれないの? もしかしてこんなにおにーさんを好きなの、オレだけなの? おにーさんはオレのこと、それほど好きじゃないの?
嫌い。
おにーさんなんか、嫌い。
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