ちっぽけな懸け橋

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参考書を小脇に抱え、肩をすぼめながら歩いていた。 夏はまだ始まったばかりなのに、太陽は朝から容赦なく街を照りつける。 青く大きな桟橋に差し掛かり―。 そこで足を止めた。 昨夜の大雨が降ったことを思い出したのだ。 橋の中間地点で手すりにもたれ、下を覗き込んでみる。 小型船がくぐり抜けるほどの高さ。 案の定、川の流れは速く、水かさが増していた。 ここから飛び込めば、苦しみから解放されるかもしれない―。 代々司法に携わる家系で、父も兄も名高い弁護士。 同じ道を歩むことを期待されて育ったが、現実は厳しかった。 司法試験はすでに4回失敗。 次に失敗すれば試験を受ける資格さえなくなる。 もう何者でもなくなるのだ。 家族や友人から馬鹿にされるだろうし。 父に至っては勘当される可能性もある。 「社会の役に立たないやつは死んだ方がいい」と言い切るような人だから。 焦りとプレッシャーが心に重くのしかかっていた。 未来を思うと生きることがつらかった。 目眩でも起こして、淀んだ水面の渦に吸い込まれてみようか―。 ストレスでろくに眠っていないせいか、良からぬ考えが頭をよぎる。 その時―。 「おじさん、何してんの?」 隣には橋の手すりぐらいの背丈の男の子が立っていた。 「大丈夫?」と、くりくりした目を潤ませ、覗き込んでくる。 大丈夫って何のことだ…? それに、おじさん…? 無精ひげに、髪もボサボサだけど…まだ二十代なのに。 察するに、橋から身を投げようとしていると勘違いされたのか。 確かに身なりに気を配るのも忘れていたし。 ちょっとは死について考えていたけど。 おまけに、体が前のめりな体勢で誤解されても仕方ない状況だったけど。 「何かあったの?」と言われて、咄嗟に手に持っていた参考書を差し出す。 何度も繰り返し読んでボロボロだ。 「家で勉強しても集中できなくてさ、カフェに行こうとしてた。それで少し川を眺めてただけ」 言い訳じみた出まかせを信じたかはわからなかったが。 子どもは物知り顔で腕組みし、意外な質問をして驚かせた。 「ふぅん…弁護士か検事か何かになるの?」と言ったのだ。 「え? わかるのか?」 「表紙に司法試験って書いてあるから。親戚にいるんだ。弁護士目指してるお兄ちゃんが」 はきはきした話しぶり。 こういう子が将来優秀な人間になるんだろう。 この場から逃げたくなった。 現状が浮き彫りになった気がして苦しくなった。 「悪いけどおまえにかまってる暇はないんだ。試験が迫っていて、もうあとがないんだから。次が最後のチャンスなんだ」 突き放したつもりが、子どもは受け止めたように静かに頷いた。 「大変だよね…わかるよ。僕もあとがないからさ」 「あとがない?」 改めてよく観察すると―。 上下とも車模様の青いガーゼの生地の服、まるでパジャマだ。 そういえば、確かすぐ近くに病院があったっけ。 「まさか…その格好。病院でも抜け出してきたのか?」 子どもは「バレたか」と笑った。 「外で元気に遊べるようになるには治療が必要だって。治療が成功するかどうかはあと1回が勝負なんだ」 そんな…。 「治療しなかったらどうなるんだ?」 「まぁ、死ぬかもね」と軽く答えた。 「でも治療も痛くてつらいからさ」 「ダメだよ、ちゃんと治療しないと…」 注意しながらそんなことを言う資格があるのかと自問する。 この子の「あと1回」と自分の「あと1回」を比べたら―。 どっちがちっぽけな悩みかは明らかだ。 橋の向こうで髪の長い女性が名前を叫んだ。 両膝に手を置き、息を切らしているようにも見える。 あれはもしかして―。 「ママ!」 あっという間に駆け寄る男の子を女性は抱きしめた。 胡散臭そうにこちらを一瞥して、子どもは小さく手を振った。 そうして、二人は手をつなぎ、反対方向に去って行ったのだった。 なんだったんだ。 しばらくポカンとしていた。 ほんの束の間の出来事だった。 もしかすると―。 あの子は現実に引き戻してくれた天使だったのかもしれない。 運命を変えてくれたんだから。 治療が成功して元気になるといいな。 *** 親子は家路を急いでいた。 家にいる父親には連絡済で、急ぐ必要はなかったが。 母親は一刻も早く子どもの着替えを済ませたかった。 一方、子どもの方はまだ疑問がぬぐえていなかった。 「ねえ、ママ。なんで朝起きて、毎日お洋服に着替えなきゃならないの? パジャマのままで生活すれば楽ちんじゃない?」 「お外でパジャマ着てる人なんかいた? いなかったでしょ?」 「でもさっきのあの人…スウェットだったよ」 「さっきの? ああ、あのお兄さん? そうよ、あんなだらしのない大人になっちゃうわよ。それでもいいの?」 それには答えず、得意げに胸を張る。 「僕、パジャマだったからあの人を助けることができたんだ」 「えぇ?」 「世の中にはもっと大変な人がいるって教えてあげたの。命の懸け橋になったんだよ」 母親はため息をついた。 「ママがどれだけ探したと思ってるの。お願いだから勝手にいなくならないで。おうちに帰ったらパパにうんと叱ってもらいますからね」
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