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第13話 妖艶なり小田原の尼僧
チュン、チュン、チュン、チュン
「剛、朝よ、いつまで寝ているの」
剛は微睡の中にいた。
……僕を呼ぶ声がする
どうにも身体がいうことを聞かない
旅の疲れなのだろう
夕べはいろんな人と話をした
そういう頭は働くのに、まるで身体が自由にはならなかった。
チュン、チュン、チュン、チュン
「お腹がすいたわ。のども渇いたわ」
……鈴音、いつも早起きだね
「随分と可愛らしいお友達をお連れでいらっしゃいますね」
声がする
鈴音ではない
でも、知っている声だ
はて、千春さんだろうか
いや違う
この声の主の落ち着きは千春さんとは違うし、初枝さんとも違う
「どうぞお友達の好きなようにさせてやってくださいまし」
心地の良い、頭の中にすっと入ってくる声の響きだ
いや、調子なのか、抑揚なのか
さて、どこでお会いした御仁だろうか
チュン、チュン
「ちょっと、剛、剛ったら!」
ああ、思い出した
汽車の中でご一緒した、あの御仁か
袈裟の襟元からすっと伸びた白い首
すっと尖ったあご、口元は薄いピンク色でやや厚め艶のある唇
鼻はすっとしていて印象に残らない
あごのラインからまるで美しい造形物のような耳
黒く輝く大きな瞳
まつげも眉毛も薄く小さめの額
ゆで卵のようにきれいな頭部
若く、美しい尼僧
はて、僕は、名を名乗っただろうか
うん、そうだ
名乗ったばかりか、僕は鈴音と話ができることをしゃべってしまったのだった
チュン、チュン
「猫は嫌い」
猫……、猫だ
そうだ
たしか"猫目尼僧"と、かの女(ひと)は、そう言っていた
おぼろげだった尼僧の姿が目の前に現れる。
剛は、その美しさにしばし見惚れ彼女の黒く大きな瞳に吸い寄せられるような感覚に襲われる。
これは……
猫目尼僧の瞳は、人のそれではない。
白目の部分の色が緑掛かった茶色に変化していく。
瞳の色も大きさも変わらないが、目そのものが大きくなり、やがて丸かった黒目は縦長に変化し、猫のそれになった。
……なんと、面妖な
猫目尼僧は両の肩を交互に、或いはランダムに上下に動かし、それとは関係なしに首を右に左に傾けるが視線を剛から離しはしない。やがてゆっくりと背を曲げて、前傾姿勢になり、指を握り込み身体を左右に揺らしながら、身体のばねをしっかりと縮めて最大の跳躍が可能な体勢で身構える。
幽霊坂の化け猫……まさか、彼女が?
チュン、チュン
「剛、しっかりして!」
剛は布団から飛び起きた。
そこは見慣れぬ景色――ここはどこだと自分に問いかけるが、どうにも思い出せない。それよりも何よりも先ほど見た物は、一体何であったのか。剛にはそればかりが気にかかり、頭をかきむしって両手で顔を二かい叩く。
パン、パン
チュン、チュン、チュン
「剛、うなされていたわよ」
一羽のスズメが心配そうに畳の上から剛を見上げている。
「おはよう、鈴音、どうやら悪い夢を見ていたらしい――ああ、そうか。ここは東京だったね。そうだった。君と一緒に東京に来たんだったね」
剛は、もう一度横になり、大きく背伸びをしながら両手を伸ばして枕元のあたりを手で探る。そこには一冊の大学ノートが置いてあり、剛はそれを掴むと身体を左に半回転させ、鉛筆が挟んであるページを開く。
右側は無地、左側には横書きで日付が先頭に、メモが書き記してある。最終段落には"4月17日朝"とあり、"木に登り、スズメと戯れる。名を"鈴音"と付けた。我の身体は小さくなり、スズメの背に乗り、空を舞おうとするも、危うく振り落とされそうになり目覚める"と記してある。
その下に剛は鉛筆で書き足す。
"4月19日 朝 上京途中で出会いし尼僧、夢の中にて化け猫に変化し、鈴音の声に助けられる"
"幽霊坂、化け猫、猫塚、猫尼僧(美しい)"
"祟り、御祓い、東京"
剛はしばらく考え、そこに更に"小田原ニテ尼僧ニ会ウ、其ノモノ、妖艶ナリ"と書き足した。
上野のとある寺院にて、小田原の御前は朝を迎えていた。
「夕べは良くお休みになられたかな、小田原の御前よ」
寺の住職と思しき老僧は、顎に蓄えた白いひげを右手で触るのが癖のようで、5センチほどまで伸びた髭を人差し指と中指で挟んで引っ張りながら、御前の様子を覗った。
目は開いているのか閉じているのかわからないくらいに細く、白い眉毛が昆虫の触覚のように見えるが、顔に刻み込まれたしわの一つ一つが、慈悲と慈愛に溢れている。
「おはようございます。住職様。このたびは何かとご配慮いただきまして、心より御礼申し上げます。お陰様をもちまして、大変気持ちのよい朝を迎えることができました」
老僧は満足げに笑顔を浮かべながら「結構、結構」とつぶやき、「ワシと御前の仲じゃ、入用なものがあれば、遠慮することはない。どのみち、無い袖は振れぬし、ワシが役に立つようなこともなかろうが、あるものは好きに使ってくれてかまわん」と言いって、また笑い「物も人も好きにするがよい」と言い残して若い僧侶を二人ほど従えて、本堂をあとにした。
尼僧はその後姿に頭を下げて手を合わせると、床に坐して、経を読み始めた。
5分も立たないうちに老僧に着いていた若い僧の一人が御前の横にひれ伏し、そのまま声をかけてきた。
「老子様の申しつけにより、御前様の身の回りのお世話をさえて頂くことになりました慎ノ丞(しんのじょう)と申します。何かご用がございましたら、私目にお申し付けくださいませ」
慎ノ丞と名乗った若い僧の声は床を伝わり、御前の身体を震わせるほどの低い声をしていた。
「お心遣い、感謝いたしますと住職様にお伝えくださいまし。東京は不案内にて、本日いくつか訪ねて回りたいところがございます。どなたか道に明るい方におつなぎいただけましたら、大変助かります」
慎ノ丞は少し間を置き、ゆっくりと身体を起こし、まっすぐに御前を見つめて口を開いた。
「どちらに足をお運びになりますか」
「御茶ノ水、神田、大手町あたりでしょうか」
「そういうことでしたら、すぐに人を手配することもできますが、僭越ながら私もそのあたりの地理は明るい方でございます。不都合がないようでございましたら、私が道先案内人を務めさせていただきますが、いかがなさいますか」
小田原の御前は慎ノ丞に向き直り、うやうやしく頭を下げていた。
「それでは慎ノ丞殿、あなたにその資格があるかどうか、確かめさせて頂きますがよろしいですか」
慎ノ丞は自然体のまま、少しだけ顎を上げて御前の次の言葉を待ったが、御前はすっと立ち上がり無言のままに振りむき、背を向ける。
自然、慎ノ丞は座ったまま御前を見上げる格好になる。
衣擦れの音とともに、小田原の御前の着ていた袈裟が、するすると床に落ち、目の前に白く美しい肌が、妖しくまだ薄暗い本堂の中にあらわになる。
「慎ノ丞殿、申し訳わりませんが、袈裟が落ちてしまいました。拾って下さるかしら」
慎ノ丞は、一呼吸おいて「かしこまりました」と返事をし、床に落ちた袈裟を手にする。目の前には少し手を伸ばせば届くところに、均整のとれた美しい女体が無防備に佇んでいる。
「こちらに」
御前が後ろを向いたまま、両腕を慎ノ丞に伸ばしてきた。慎ノ丞は袈裟の袖を丁寧に左手、右手と通し、ゆっくりと袈裟を御前に羽織わせる。呼吸をすれば、自分の吐く息が御前の背中や首筋にかかるという近い距離である。
艶めかしく、妖しげな空気が慎ノ丞にまとわりつく。
それでも慎ノ丞はどうにか袈裟がしっかりと御前の肌を包み込むところまで来ることに成功し、御前から一歩下がろうとした瞬間、御前の右手が慎ノ丞の左手を掴み、そのまま御前の胸元まで手を引き込んだ。
「まだですよ。慎ノ丞殿、油断は禁物です。あなたはとても見込みがあります。だから、もう少し耐えてくださいね」
御前は身体を反転させて慎ノ丞と向き合った。
御前は両手を若い僧侶の首に巻き付けながら妖艶な笑みを浮かべながら、薄いピンク色でやや厚め艶のある唇をゆっくりと開いた。赤い舌が艶めかしく上下、左右に動く。
「目をそらしてはダメ」
御前はゆっくりと顔を近づけ、慎ノ丞の左の耳元で囁く。
「あなたはこの先、もっと破廉恥で邪なものを目にすることになるわ。私に仕えるということは、そのような覚悟がいるということを、どうか知っておいてください。でなければ、あなたにとって、不幸な結果を招くことになる」
御前はもう一度、慎ノ丞の正面に顔を近づけ、今度は右の耳元に囁きかけた。
「もしも、あなたを惑わすようなものに出くわしたのなら、今日のことを思い出すのです。きっと何かの助けになりましょう」
御前は素早く身なりを整えた。
「慎ノ丞、しばらくの間、苦労をかけます」
「はつ!」
「これからあなたが私と行動を共にして、目にしたこと、耳にしたことはくれぐれも他言無用でお願いします。たとえそれがご住職でも。そうしないと、あなたにも、こちらの皆様にも、迷惑をかけることになりましょう。心配いりません。ご住職にはすでに話は通してありますから」
慎ノ丞は平身低頭し、忠誠を誓った。
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